銀蛇謳海~36~夜礼、動く
ここは『夜の食国』月読命の居城、月暈宮です。
彼誰時のような淡い光に浸された空気は瑞々しい夜気をはらみ、発光する菌糸類が建物の中を照らしていました。宮殿は水平に低く広がり、大きな開口部から外の様子がよく見えます。
どこまでも広がる草原に、鹿の頭に馬の体と蜥蜴の尾をもった獣の群が草を食んでいます。厩番の少年がひとり、鞭がわりの柳の枝をひきずりながら獣とともに草原の緩やかな丘陵を移っていきました。
月暈宮の裏側の丘陵から流れ込む水は、いく層にもなった段瀑を生み出しています。滝には苔がむし、流れは水盤から苔の先を伝いその下の苔の絨毯へと吸い込まれ、それが水盤にまた集まりさらに下へと伝い落ちます。水辺には蛍が集まり、黄緑の光は妖しく瞬いていました。
その滝を背にして月読は夜礼の前に座っていました。
「あたしは貴方の力にはなれない、暗流の主」
「……………」
「わかるかしら?」
「…………」
「わかりたくないのでしょう。アナタはアナタの海若を泥梨から逃したいのでしょうけど」
「ジゴク………」
海若の状態を言い当てるには的を得過ぎているような気がして夜礼の目は落ち着きなく揺れました。
「ジゴクよ。彼の影の負担を軽くする方法はあるかも知れない。期限付きでここで暮らすのもあたしは構わない。
でも彼にはその意思はないの。だからあたしにはどうしようもできない」
二神の間には銀の酒器が並べられていましたがどちらも手をつけません。召使いが緩くなった酒を下げ、氷水に浸かった新しい酒と果物を持ってきました。
給仕をしている召使い達は仮面をつけたように同じ顔で、背格好も男なのか女なのか判然としません。ひどく影の薄い存在です。
『夜の食国』では虫や獣、花草木のほうが生命力に溢れているように見えました。
「………わかり、ました。では『夜の食国』の王に謹んでお伺いします」
「どうぞなんなりと。そんなにかしこまらなくていいのよ、一緒に夜を楽しんだ仲じゃないの」
「…………」
「固まらないでくれる?」
「ああ。俺、冗談とかわからないので。それで………」
「なあに。せっかくこんな遠くまで来たのだから聞きたいこと全部聞いていけばいいじゃない」
夜礼が『夜の食国』へ向かったのは、ちょうど双子のイサラメたちを送り出した日の夜でした。寝台から起き上がるのも手間に感じる面倒くさがりの神が、はるばるやってきたのは海若の助けになりたいからに他なりません。
いつか月夜の海の宴席で月読と邂逅した時、彼は海若を『夜の食国』へと誘いました。
海若の育ちきらない体の小さな影の中では、『黄泉』の力は窮屈すぎてより凶暴になります。抑えれば抑えるほど反発してくるものは、いっそ夜の闇に解いてしまえばおとなしくなる、と。ですが海若は断りました。
「………俺はただ海の底で水流を見張っているだけの神です。知恵も力もない。だからこうして貴方を訪ねてきたわけなんだが…………。もし、俺にできることがあるとすればなんだと思われますか?」
月読はクバの葉の扇子をゆっくり揺らし、その影でくすりと笑いました。扇が月読の顔の前を行き来するたびに、差し替えられたように表情の印象が変わります。慈悲に満ちたようにも冷たいようにも見えますが、どこか楽しげな口調なのは変わりません。
「アナタのことを知恵も力ないとはあたし思わないけど、そうね、あの姫君とは真逆なのね」
「それは瀬織津姫のことでしょうか」
「そう。彼女だけが苦痛を取り除ける唯一の神とも言える」
「もしや海若の影に入った邪悪なものを一掃できるほどなのですか、瀬織津姫は……!」
光明を見たとばかりに夜礼は畳みかけました。
「姫に! 姫の力をかりることができれば」
「それができると思う? だったら清瀬の乙女はとっくにそうしている。綿津見がなぜ『黄泉』であんなものを食べて戻ってきたのか、分からないアナタではないでしょう」
「…………」
「アナタは何もできないことを嘆き、彼女は根本から無にできてしまえることを嘆いているのです」
「………瀬織津姫は先代への思慕が強い。現状維持でなんとかなると思ってるんだ」
「それだけで果たして同じジゴクを歩めるかしら」
銀器の中で氷がカランと音を立てました。
ーわたしと貴方は似たもの同士なのかも知れませんね。
そう言って海若に笑いかけた瀬織津姫を思い出します。自分たちを「強がり」だと言ったあの平らかな眼差しも。
「愛するものがジゴクにいるのを見るのもまたジゴク。それはアナタにも分かるからここへ来たのでしょう。彼女には彼女の戦いがあるのよ」
夜礼はしばらく考え込みました。海若が『黄泉』の対価を得るのは数百年、もしかすると千年も先かもしれません。神にとっても気の遠くなるような歳月です。その間、想い続けるというのは…………。
続く
そして月読の語りは核心へー。『竜宮』創造の想い、知られざる神々の思惑、夜礼どうする?いいなと思ったら応援しよう!
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