銀蛇謳海~37~あなたの知らないこと
「覚えておいてほしいことがある………」
考え込んでしまった夜礼を前に月読は言いました。先ほどまでの愉悦を含んだ調子は消え、乾いた声に変わります。
「なんでしょうか」
「たいてい神は“痛み”というものを知らないまま数千年生きている」
「………はい」
「老いること病むこと、ましてや死ぬこともなくね。あらかじめ悲しみなど無く………」
月読はそこでクバ扇を置くと銀器をあおりました。夜礼もそれに合わせて一口含みます。
「兄さんはね優しいの。自分が悲しい思いをしたら、どこかの誰かには同じ思いをしてほしくないって言うの。
そんな兄さんが誰かに向けて差し出したのは自分の手ではなかった。代わりに彼は世界を差し出した。『竜宮』という海の楽園をね。それは底の抜けた愛かもしれない。大きすぎて見えないものかもしれない」
「そんなこと思いもよらない」と顔に出ている夜礼を見て月読の目は細くなりました。
「国を創ろうと思う時、そこに哀しみがなければいいと夢想する神なんていない。そういう面では彼は“人“であったのよ。
そんなこと言えば兄さんは、あんな脆弱なものと一緒にするな言いそうだけど、ふふ。彼と気が合うのは神より人のほうかもしれない」
「………俺が戯れに人になりたいと言ったら、海若は自分もなりたいと言ったんです。あれは意外と本心だったのかも知れませんね」
「いやねぇ、兄さんはアナタにはなんでも話すのね。妬けるわ」
「嫉妬と暴力に俺は反対します」
「あらやだ、何かあったのね」
「…………」
突然の断固とした口調に束の間ぽかんとした月読はまあいいわと訳知り顔をつくると、
「ねえ暗流の主。『真海』のことどれだけ知っているか分かりませんけど、これは忠告」
と前置きします。
「水の動く所に泡は浮かぶわ」
「……………」
「お気を付けなさい。海若の周りに今、泡立っているものには」
月読の話し方は謎かけのようだというのが夜礼の思うところです。
「つまり、なんでしょうか?」
「つまり?」
「…………具体的に」
「神々の駆け引きには疎そうだものね、いいわ言っちゃいましょう。沫那芸神よ」
夜礼は水晶宮で見た白髪白髭の好好爺然とした沫那芸を思い出しました。妻の沫那美と共に水晶宮を取り仕切っている頼りがいのありそうな神です。
威圧感の化身のような天都比古禰や筒之男三神と比べると随分と優しい物腰でした。
「『高天ヶ原』『真海』『夜の食国』『黄泉』、それから『葦原の中津国』。今はこれらは均衡している、と言ってよいけど。
綿津見は海の王、天都比古禰命は由緒正しき『高天ヶ原』の直系。それを揺さぶろうとすれば今よ」
「月読どのの仰っることは分からないでもないが、揺さぶって誰が得をするものでもない。『竜宮』が危機に瀕しているところ、さらに揺さぶって何になる? それにそうとは言ってもあのオヤジ、いえ天都比古禰の武勇は名高いし海若だって………」
「だからこそ『高天ヶ原』の後ろ盾を得るいい機会になるわ、それを目論む神には絶好の機会。天の暴れん坊素戔嗚、最強の健御雷命………、そのあたりはいつでも海へ降るでしょうね」
「………………はい」
神さまのなかにも政治はあるようですが、夜礼にはまったくピンときません。それは月読にも伝わったようで話向きを変えました。
「アナタは兄さんの言うことなすことを、そのまま真っ直ぐ受けとめられるのでしょうね。でもね、優しさも愛も受け取り手次第で別物に変容する。その危うさを無視できるほど今の綿津見は強くないわ」
「なおさら、なんとかしてやろうと思うじゃないですか?」
「誰かを助けようする時、助ける方には相手の崇高さも苦悩も関係ないの。ただ彼らにとって助けたいと思わせるかいなか、それだけなの。
でも同情を得たら自分が自分でいられなくなる、兄さんはそういう神。アナタが救いたいのは海の王。覚えておいて」
「『夜の食国』の王のご助言、感謝します」
「いいのよ、いつでも来てね。また兄さんのお話をしましょうね、ふふ。あ、でも…………」
と月読の視線が机の端に置かれたガラス鉢の上で揺れます。
中には夜礼が選りすぐった深海生物がひしめいていました。手土産に持ってきたホシムシは絡まりあい、ウミグモと深海エビはお互いの脚がわからなくなっています。
「このお土産はもって帰ってくれないかしら………。あたしの月暈宮にはどうも、不似合いだからね」
「わかりました。今度伺う時は、ここに似合う……そうだなぁウロコムシとサシバゴカイを」
「いえ、もう持ってこなくていいから!」
夜礼が言い終わらないうちに月読はピシャリと言い切りました。
お土産を喜んでもらえないのは残念でしたが、夜礼としましては彼に背中を押してもらったような気持ちでした。
ーできることはないかも知れない。でも何かはやれる………。そうだ伊奢沙別に会いにいってみよう。
そんなことを考えながら『真海』へと帰る夜礼は、伊奢沙別と『竜宮』に起こったことをまだ知らないのでした。
『真海』のはずれにある自分の屋敷に戻らなかったのは、ひとえに勢いを殺したくなかったからです。
海の神々集う『竜宮』は夜礼には苦手な場所には変わりありません。ひとたび止まれば夜礼の行動力はみる間にしぼんでしまうでしょう。道すがら角鹿の国に使いを出して、伊奢沙別と『竜宮』で落ち合う手はずも整えました。
数日をかけて『真海』へ入りました。『夜の食国』は少しばかり遠くにあるのです。『竜宮』が近づくと水は蒼さを増しました。
ゆったり泳いでいる数匹のジンベイザメの白い腹のしたを潜り抜け、柱珊瑚に袖を取られないように気をつけながら夜礼は進みました。
目指す先には光が集まっています。あの光の真ん中に海若はいて、美しい水晶宮の暗い離宮に身を潜めているのだと思うと、夜礼は泣きたいような気持ちになりました。誰よりも輝く碧海が似合う彼が思うまま光の中を泳げたらいいのに。あの月夜のように舞うことができたらいいのに、とも。
続く
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竜宮に着いた夜礼。待っていたのは………。事実は反転しイザサワケは背を向ける。次回「なんでもするから」いいなと思ったら応援しよう!
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