銀蛇謳海~35~海を恋う
群衆の頭上では手負の竜が唸り、見るたびに嵩を増す怪魚が鰭を打っていました。そうやって牙を剥き出しに睨み合う海若と天都比古禰のすぐ下に瀬織津姫は佇みました。
影を祓わずとも海若を引き戻せる方法があるというのでしょうか。
あの日瀬織津姫が生まれたのは、綿津見の到来を待って左右に人垣ができた大通りの真ん中でした。文字通り生まれたままの姿で放り出された彼女に手を差し伸べたのは老綿津見でした。
彼女は今、それをなぞろうとしているのです。
あれから100年。
瀬織津姫にとって世界というのは海のことでした。海というのは綿津見のことでした。海は広すぎてその心を測るのは彼女には難しいことでした。それでも数多の求婚にも応じることはありませんでした。
ーどうか貴方の大切なものを貴方が壊してしまいませんように………
衣を脱ぎ去る彼女に迷いはなく、所作は祈りのようです。
ー貴方が欲したものは、今この刹那にも貴方の中にありますから。それはあの時から何も変わっていないのです。
藍白の衣を取り去り水色の内着が滑り落ちると、透き通る肌を覆うものは絹糸の黒髪しかなくなりました。
物陰にいた人々もさすがにそれには色めきたちました。やんややんやと声を発するものの、誰もが綿津見が恐ろしくて姫のいる道の真ん中に出ていける者などいません。
頭上では竜の腹を狙って怪魚が下へ潜り込もうとし、それを厭う竜は鱗の盾で魚体を打ちます。
人々の間で行き場のない饒舌が息を詰まらせています。
瀬織津姫は待ちました。あの時と同じように人々に囲まれて、大通りの真ん中にぺたりと座って、同じように『竜宮』の正門を見据えて。
姫の無音の言伝を水は運んでくれるのでしょうか。
道の先は濁って見通すことはできません。
ー覚えておいででしょうか?
彼女の目にはあの日が見えます。
ーわたしはよく覚えております。
何かがふわりと瀬織津姫の肩にかかりました。その白い外衣には金銀の糸で細やかな刺繍が施されていました。見慣れた美しい衣です。
姫は着物の前を合わせるとすっと立ち上がりました。あの日と同じです。
そこには見上げるほどの偉丈夫な老神はいませんでしたが、泣き出しそうな顔が目の前にありました。
「…………おれは…………いったい何をしたのだろう………」
姫はその青ざめた頬に右手を伸ばしてそっと触れました。軋むような彼の声は自分が何をしたのかとうに知っていました。
「よくぞお戻り下さいました、海若」
「ねえ、姫………、私は………私は………」
「まずはお城へ戻りましょう。……なんだってできますから」
瀬織津姫は外衣一枚を羽織ったまま海若の手をひき、サナを連れて歩き始めました。
「なんだってできます。償いも謝罪も後悔も、やり直しもなんだってできます」
「………取り返しが……つかない」
手を引かれながらおぼつかない足取りで歩いていた海若が振り返ると、竜から元の姿に戻った天都比古禰がいました。駆けつけた筒之男三神たちによって担がれるように運ばれていく姿だけが見えました。
伊奢沙別は𧏛貝比売と蛤貝比売によって手当てを受けていました。二柱の女神は貝の神さまで、とても高い治癒力をもっているので後の心配は無用でしょう。
海若は指を鳴らし“波の獣”を呼びだそうとしましたが出てきません。海水を両手で包むような仕草をし、何か試みましたが水には何の変化も起こりませんでした。
実はこの数刻で起きたことが綿津見の海神としての有り様を変えてしまいました。今だけでなくその先もそのまた先に及ぶまで。
瀬織津姫の血でもってしても戻せない玉になったウトゥに、海若はありったけの力を注ぎました。
海神としての力はほとんど空っぽになっていました。ですからもう“波の獣”も呼べませんし、海水から武器を創ることもできなくなってしまったのです。
海神の力の受け皿になるなどできるものではありません。その点では天都比古禰が目をつけた通りウトゥは稀有な存在だったのです。
海若はサナが抱く玉に触れましたが、無理に力を引き戻すことはしませんでした。玉が壊れるかもしれないからです。
どんな形であれウトゥはウトゥなのです。泣きはらして呆然としたサナから、どうしてウトゥを取り上げることができるでしょうか。
お城へ戻ると海若はすぐに離宮へ閉じこもってしまいました。この一件は瞬く間に『真海』に伝わりました。夜礼を除いてですが。
彼を恐れて誰も離宮には寄り付きません。瀬織津姫が毎日食事を運びましたがいっこうに出てきません。
「開けてくださいませ。せめてお食事を召し上がってください」
何度目かの呼びかけに厚い扉の隙間から声が聞こえました。
「いらないよ。どうせ死にはしない」
「…………」
「老いて死んで私の骸が『竜宮』の礎になる時が来たら開けてくれればいい…………」
「千年もそこにとどまるおつもりですか。ならばわたしもここを動きませんよ」
「………私に、付き合うことはないのに」
「どうしてそんなことをおっしゃっるのですか………どうか、どうか…………」
「………………私の弱さで傷ついてほしくないんだ」
それから長い沈黙がありました。咽び泣く声が離宮の石の壁に反響して伝わってきます。
「…………私が創った場所なのに。竜人の衛士は私に怯えて『竜宮』を出ていった。………神も民も他でもない私が手にかけた。
何をやっているんだろう、おれはもう『黄泉』から戻らない方がよかったのか、それとも溶け消える『竜宮』とそのまま一緒に滅びればよかったのか…………、そうだな、そうだな、その方がマシだったんだ!」
「わたしは貴方が戻ってきてよかった」
「姫……………」
扉にぴたりと耳を当てると荒い息遣いが聞こえ、弱々しい声が絞り出されました。
「……………自分が創ったものを自分で壊してしてしまうくらいなら、………消えてなくなりたい」
それからどんなに待っても声は聞こえてきませんでした。
一方、サナは瀬織津姫の元で少しずつ元気を取り戻しました。玉になったウトゥとも心を通わすことができたのが大きかったのでしょう。
それに『竜宮』は悲しみを癒すのにふさわしい場所でした。豊かな生き物も一編の詩のような陽光も、神々の美しい衣が水中に翻るのもサナの心を優しく撫でました。
誰がこの国を創ったかといえば綿津見なのです。瀬織津姫は笑顔を取り戻したサナを見せたいと思いました。何度もサナを連れて離宮へ足を運びました。
海若が応じることはありませんでしたが、ある日、どうしても扉を開けずにはいられないことが起こりました。
自分の中から出ていってしまった海神の力がとても近くにあるのを彼は感じました。
「海若ー! 見てー! ねえ、見てったら見てー!」
数ヶ月ぶりに開けた扉の向こうには瀬織津姫とサナがいて、サナは大きな鉾をもっていました。力の気配はその鉾から発せられています。
「ウトゥだよ」
サナは鉾の重さによろめきながらもそれを海若に手渡しました。
「…………おまえ」
「サナが承諾しました。海神の鉾『波濤』です」
元々、天都比古禰が剣にしようと途中まで進めていたものです。元には戻せませんでしたが、鍛治の神の力を借りて鉾を錬成することは難しくありませんでした。
「ねえ海若ー、なんで泣いてる? ウトゥ、笑ってるよ、ふふ、おっかしいのー」
海若は慌てて袖で乱暴に涙を拭いました。
「ふふ見ちゃった。夜礼にも教えてあげよう」
「こら、夜礼には言うな! 私は海の王だぞ!」
「では王に相応しい振る舞いをなさって下さいね」
瀬織津姫の言葉は思いがけないものでしたが、ハッとなってしおらしい顔つきで彼女の顔を見ました。
そんな海若にクスっと笑みを返しこう言いました。
「ここは『竜宮』。わたしがおります」
『波濤』を手にした海若は、少し眩しげに離宮の外へと踏み出しました。
続く
一方何も知らない夜礼は旅の途上にあった。海若の力になりたい、その一片氷心はどこに向かうのか?いいなと思ったら応援しよう!
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