見出し画像

オリバー・ストーン監督 『プラトーン』 : どんな兵隊の中にもいる二人。

映画評:オリバー・ストーン監督『プラトーン』1986年/アメリカ映画)

本作は、ベトナム戦争の戦場を描いて、「第59回アカデミー賞」で作品賞ほか4部門、「第37回ベルリン国際映画祭」 銀熊賞(監督賞)ほか、多くを受賞した傑作である。

個人的には、先日レビューを書いた『ミシシッピー・バーニング』アラン・パーカー監督)と本作によって、「怪優」ではなく、「善人役」俳優としてウィレム・デフォーのファンになった、そんな思い出ぶかい作品だ。

当然のことながら本作は、日本での公開当時すでに大ヒット作だったので、劇場で見たのかもしれないが、ぼんやりとした記憶ではテレビで見たような気もする。
が、いずれにして、二十代の若い頃に見て感動した、というのは間違いのないところだ。

本作で印象に残っているのは、やはり対照的な存在として描かれたバーンズ2等軍曹トム・ベレンジャー)とエリアス3等軍曹ウィレム・デフォー)の「象徴的な対立」だ。
一般的に言って、前者が「悪役」であり、後者が「正義の人」なのだが、物語の後半で、前者が後者を殺してしまう(…)というショッキングな展開が、本作を忘れることのできない作品にしている。

本作は、新兵クリス・テイラーチャーリー・シーン)の視点から描かれた物語なのだが、このクリスがまた、なかなかユニークな人物である。
彼は上流社会に属する若者であり、大学生でもあったから、普通にしていれば、兵役免除で兵隊になることはなかった「階層」の人間であった。だが、有色人種を含む「貧しいアメリカ人」によって担われていた「ベトナム戦争の大義」に若者らしい疑問を覚え、その現場に身をおきたいと考えて、わざわざ大学を辞めて志願兵となった、言うなれば彼は「理想主義のお坊ちゃん」なのである。

そんな彼だから、当然のことながらバーンズとエリアスでは、エリアスの方に好意を持つのだが、問題は、どういう意味において、バーンズが「悪人」であり、エリアスが「正義の人」なのか、ということなのだ。

バーンズというのは、軍人としては極めて優秀なのだが、しかし、そのために、自分の上官である小隊(プラトーン)長を蔑ろにしているような、鼻持ちならない実力主義者である。
これは、先の戦争(太平洋戦争時)の日本軍でも当たり前に見られた「威張っている、実力派の古参兵」といったもので、こうしたことは、太平洋戦争やベトナム戦争に限らず、どんな時代のどんな戦争にも見られたことのはずだ。

なにしろ、命のやり取りをする現場なのだがから、何よりも「実力・実績」が、最後には物を言う。
いくら組織的な統制が必要だとは言っても、ヘボな上官のヘボな命令に従って、命を落としたのでは元も子もないので、いざとなれば実力派の古参兵は現場をリードしようとするし、他の兵隊だって、それに従うということなる。そして、そうした場合、カタチばかりの上官は、自分のメンツが丸潰れにならないよう、日頃から古参兵の意見を尊重したり、可能なかぎり追認したりするのである。
つまり、本作で描かれるバーンズとは、そういう、小隊の中では最も力を持った、普通は逆らえない「陰の実力者」なのである。

(右から二人目がバーンズ。何度も死線を潜り抜けてきた男の、顔の縫合手術の跡が生々しい)

一方、エリアスも、バーンズと同様に有能な「戦士」であり、バーンズに継ぐ古参兵なのだが、しかし彼の場合は、無闇に威張ったりすることのない、人格者なのだ。人間を人間として、差別なく尊重できる人なのである。
つまり、言うべきことは「上官」に向かってでも言うが、しかしそれは、階級的な筋を通してのものであって、バーンズのように「上官」を小馬鹿にしたような態度を取ることはない。

誰もが自分のことで精一杯な兵隊たちにとっては、役に立たない「新兵」という存在は、ほとんど「足手まとい」とさえ感じられるため、新兵に雑役を押しつけたり意地悪をして憂さ晴らしの対象としたりすることはあっても、新兵の面倒を見てやる(戦い方を教えてやる)などといったことは、普通はしない。
ところが、エリアスの場合は、新兵を育てることは、そのまま小隊が強くなることであり、自分たちの身を守ることにもつながるといった考え方において、新兵であるクリスにも丁寧に助言してくれ、決して威張ったりはしないので、多くの兵隊がそんなエリアスを尊敬するように、クリスもエリアスを尊敬するようになるのである。

(「語り手」の新兵クリス・テイラー

だが、同じ小隊の中に、性格の違う実力派のリーダーが二人いると、おのずと反目し合うような状況も生まれてくる。
本来なら、助け合わなければ生き残れない「仲間」であるはずなのに、最も近い関係だからこそ、「敵」以上に目障りな存在と感じられることも、ままあるのだ。

そうした齟齬が典型的に現れるのは、クリスたちの小隊が、味方である(自由主義陣営である)南ベトナムにおいて(社会主義陣営である)北ベトナムの兵士たちと戦っている際にも、同時に行われていた、南ベトナムの村落に対する、北ベトナム協力者狩りの際であった。

つまり、南ベトナムに所在する村だからといっても、そのすべてが南ベトナム政府の側に与しているという保証はなく、北ベトナム軍や、その北ベトナムの出先組織である「南ベトナム解放民族戦線」(通称「ベトコン」)の協力者かもしれないのだ。だから、そうした協力者狩りをしないことには、南にまで入り込んでいる北ベトナム軍を有効に打倒できないのである。
ちなみに、南にも、北の協力者が多いというのは、そもそもベトナムは、自由主義国フランスから、戦争をして独立した、元植民地国家だからである。

そんなわけで、アメリカと敵対する「北の軍隊」やベトコンに協力して、武器や食料を提供したりしている村も存在するからこそ、アメリカ兵たちは、自分たちが守るべき南ベトナムの地においても、村を見つけると、そこを捜索し、敵側の協力者だと疑われるようなものが出てきたなら、そうした武器や食料や家屋敷を焼き払うということをしたのだ。

一一だが、いくら敵対勢力(北ベトナム)への協力者ではあっても、民間人を正規軍の兵隊が殺すわけにはいかない。協力者は、あくまでも協力者であって、「敵兵」ではないからである。
たがらその処遇に関しては、然るべき筋を通して、南ベトナム政府に委ねるしかない。

しかしだ、ゲリラ戦というものが、いつでもそうであったように、正規軍とゲリラ兵の境界線は、きわめて曖昧である。日頃は農民でも、いざとなれば武器をとって戦うのがゲリラ兵だから、「武器を隠し持っていた、敵側の協力者」であったならば、アメリカ兵にとっては、その農民は「ベトコン」も同様なのだし、その可能性は否定しきれない。
しかし、戦時国際法によって民間人(非戦闘員)の虐殺は禁止されているので、「兵士である」という証拠もなく殺せば「軍法会議」にかけられて、自分が処罰の対象になってしまう。だから、そう簡単に「こいつら、みんな敵だ」ということで、村人を皆殺しにするわけにはいかないのである。

(若きジョニー・デップも、通信兵で通訳係のラーナー役で出演)

一一だが、建前はそうであっても、現実はそうとばかりも言ってはおられず、これもあらゆる戦争でのことだが、敵性民間人の虐殺だけではなく、そんな敵意に由来する、民間人からの強奪、民間人に対する強姦も、「必ず」起こってしまうというのは、本作でも描かれているとおりだし、日本の歴史で言えば、かの「南京大虐殺」事件が、まさにそれなのだ。
この事件は、日本兵が中国兵を何人殺したという話ではなく「中国の民間人を、大量虐殺した」という事件であった。
そして、そこで戦後に争われているのは、中国政府の公式見解である「30万人」か、日本側の見解である「せいぜい1万人」といったところか、といったことなのだが、「30万人も殺してはいないから、南京大虐殺はなかった。幻であった」と主張する「幻」派と、「仮に数千人、あるいは数百人であろうと、それは民間人虐殺だ」と主張する「南京虐殺」事実派との「言論線」なのである。
したがって、本作『プラトーン』で描かれたのと同様、日本の兵隊も、中国民間人とゲリラ兵との区別の困難さゆえに、その区別をせずに殺した場合など、当たり前に、いくらでも存在したのだ。

ともあれ、この村を見つける以前、クリスたちの小隊は、ベトナムの森の中で、北ベトナムの正規軍を相手に困難な戦いを強いられていたのだが、そんなある時、見張りに立っていた兵隊が行方不明になり、数日後、喉を掻き切られた無惨な姿で、木に縛りつけられ晒し物にされている姿で発見される。その手口は、典型的なゲリラによるものだった。

(仲間の無惨な死体を発見して、言葉もなく見つめる小隊の兵隊たち)

だから、小隊の仲間たちは、殺された兵隊の敵討ちをそれぞれに誓うのだが、そんな中で見つけたのが、ある小さな村落であり、場所的に見ても、北ベトナム軍やベトコンに協力している可能性は極めて大であった。
また、その村の誰かが、仲間を殺した可能性だって十分あったのである。

そこで、村の中を徹底的の捜索してみると、案の定、武器を隠し持っているが判明。明らかに「北」の協力者なのだが、「北の軍に預かっておくように強制された」などというみえすいた嘘をついて否認し、女子供を含めて誰も口を割らないし、まったく協力的ではない。つまり、物は見つけても、「北」の協力者だという決定的な証拠が無い。
仲間をゲリラに殺されて苛立つ小隊の兵隊たちの中には「皆殺しにしちまえ!」と叫ぶ者も出てくる。
背中に刀疵のある、いかにも怪しい村長を見つけて尋問するのだが、口を割らない。それどころか、村の女たちが大声で兵隊たちの横暴に対し非難の声をあげ、老婆が村長の取り調べを妨害するので、苛立ったバーンズは思わずその老婆を、皆の目の前で射殺してしまう。
しかしこれは、明らかに戦時国際法違反の犯罪であり軍法会議の対象なので、小隊の仲間たちは皆、言葉を失ってしまう。

(村長を尋問する米兵たち。左端がバーンズ。左から二人目が通訳のラーナー)

だが、自分がまずい立場に立たされたと気づいたバーンズは、ここで退いたらおしまいだとばかりに、殺された老婆に取り縋って泣いているまだ幼い村長の娘の頭に銃を突きつけ、村長に「正直に言わななければ、娘を殺す」と恫喝する。

(村長の娘を人質にとって、村長に自白を強要しようとするバーンズ)

そんなところへ、別行動のために遅れて村に到着したエリアスが、その様子を見て状況を察知し、バーンズに駆け寄って「何をやってるんだ、バーンズ!」と怒鳴りつけると、バーンズは「邪魔をするな、エリアス」と睨み返す。

(隊に戻って来たエリアスが異変に気づいて、バーンズのもとに駆け寄る)

それでエリアスは「お前はいつから銃殺隊になったんだ!」と怒鳴って、持っていた銃の銃床でバーンズの顔を殴りつけると、取っ組み合いの喧嘩を始めた。そこで、みんなが必死で両者を分け、最後は小隊長が命令して、二人の喧嘩をやめさせた。

(バーンズから引き離されるエリアス)

だが、それでは収まらないエリアスが小隊長に「あなたも見ていたんでしょう? これは許されない犯罪だ」と訴えると、小隊長は「私は何も見ていないし、何も知らない」と言って誤魔化した。戦争犯罪の民間人虐殺を自分の目の前で部下が行ったとなれば、彼だってその責任を問われることになるからだ。

(村は焼かれ、村人は収容施設へ送られる)

そこで、業を煮やしたエリアスは、中隊長のハリス大尉に直接報告をするが、無論、バーンズや小隊長がそれを素直に認めるわけもなく、大尉は両者に報告書を出しておけと支持するに止める。真相を解明する必要はあるが、それは「今この場所で」というわけにはいかなかったからである。
彼らの大隊自身が、北ベトナム軍の猛攻にさられており、仲間割れをしている場合ではなかったのだ。

だが、このことによってエリアスは、バーンズにとって決定的に危険な存在となってしまった。
だから、エリアスが小隊の危機を救うための危険な単独作戦行動に出た際に、任務を終えて帰ってこようとしていたエリアスを、バーンズは森の中で射殺(…)してしまったのである。

さて、ここまでの紹介で、十分長くなってしまったので、全体の「あらすじ」の紹介まではしないので、気になる方は「Wikipedia」の「ストーリー」紹介を読んでほしい。そちらには、全体の流れが最後まで紹介されている。

だが、私が上の紹介で、「南ベトナムの村での、バーンズとエリアスの対立」の部分を、特に詳しく紹介したのは、今回本作を再鑑賞した結果、本作は、かつて私が感動したような「善玉と悪玉の二項対立」といったわかりやすい作品ではなかったという、新たに気づいた点について語りたかったからである。

前回見たときは「バーンズは酷い奴で、エリアスは立派な人」であり、「正義が必ずしも生き残れないのが戦争のリアルだ」というほどのことを考えたのだが、今回再鑑賞して気づいたのは、「戦争」という状況や「軍隊」という組織の中では、「善悪」というものが、否応なく曖昧になってしまう、というようなことなのである。

本作のラストには、

「ベトナム戦争の戦死者に捧げる」

というような献辞が掲げられているのだが、要は、この献辞は「アメリカ兵とベトナム兵とを区別しない」というだけではなく、「バーンズとエリアスの区別もしない」ということなのだ。

では、なぜそうなるのかと言えば、ある意味では、バーンズという男も「戦争の被害者」だからであり、さらに彼のような男でも「戦場における軍人としては、必ずしも間違ってはいなかった」ということなのだ。

「戦争の被害者」というのは、バーンズ自身が「南部のプワホワイト(貧しい白人への蔑称)」だからこそ、兵隊にならなければならなかった、ということだし、彼はその持って生まれた「軍人としての才能」を生かして、軍の中で成り上がろうとしていた人物なのだ。
つまり「自らは戦地に赴かない、豊かな白人たち」に利用されて「人殺しを職務とする特殊な社会の中で、成り上がるしかなかった男」だったとも言えるのである。
その意味でバーンズは、戦争国家の被害者だと言えるのだ。
 
また「軍人としては、必ずしも間違ってはいなかった」というのはどういうことかというと、「戦場」では「生きるか死ぬか」であって「法的な建前」などは二の次である、というのが「現実」だったということだ。
「戦時国際法」とか「軍法会議」とか言ったものは「所詮は殺し合いでしかない戦争」を「合法的なもの」として存続させるための「支配者たちの都合による欺瞞」でしかない。だから、そんな「欺瞞としての綺麗事」に自分の命を賭けるわけにはいかない「現場の兵士」たちは、しばしばそのルールを破るし、上も「問題にならなければ目を瞑る」ということだってするのだ。
本作の中でも、クリスが故郷の祖母に送った手紙に中の言葉(独白ナレーション)として「実際、ベトナムの民間人を殺して、罪に問われるのは、全体の2〜5パーセント程度だろう」という言葉もある。

そんなわけで、バーンズのやっていることは「ルール」も無ければ「正義」も無いことのようではあれ、しかし彼の活動領域は「戦場」であり、「戦争」に勝つための組織である「軍隊」の中でのものなのだから、彼は「戦争」における行動原理に従っているだけだとも言えるのである。
例えば、戦争国家は、その本音として「ルールを守って戦争に負けるのは仕方がない」とは考えない。「戦争に負けるくらいなら、ルールだってやぶれ」というのが、戦争国家の論理なのである。

また、言い換えれば、エリアスのような「理想主義」や「高潔な人格」は、「軍隊」の中においては、時に、仲間を危険に晒し、「戦争」を敗北へと導きかねない「危険なもの」なのである。彼自身が、殺されてしまったように。

もちろん、だからと言って、私は、エリアスが間違っていると言いたいのではない。

私が言いたいのは、「戦争」や「軍隊」を肯定した上での、「ルール」や「正義」など、所詮は、論理的に成立(並立)しない、ということなのだ。

「ルール」や「正義」とは、本来、「戦争」や「軍隊」を否定するところでしか、完全に機能するものではない、ということなのである。

だから、エリアスがバーンズに殺されたのは、「戦時」においては「自然」なことなのだ。戦争では、情け深い人間よりも、情け容赦のない人間の方の勝つ確率が高くなるのが、理の当然。

(ポスターにもなった、エリアスの本当の、死のジーン。森の中でバーンズに殺されたような描写がなされていたが、エリアスは生きていた。ただし、小隊が撤退のため2機のヘリで飛び立った直後に、森の中から北ベトナム軍に追われて駆け出してくるエリアスを発見。ヘリは戻ってエリアスを援護するが、時すでに遅くエリアスは背後から多数の銃弾を浴び、天仰ぎ両腕を差し伸べるようにして死ぬ)

また、エリアスを尊敬しバーンズを憎んだクリスが、最後は、重傷を負ったバーンズを射殺して、エリアスの仇を取ったのも、それが「エリアス的な正義」の発露であるというよりは、むしろ「バーンズ的な正義」でしかなかったと言えるだろう。

だからこそ、負傷によって戦場を去ることになったクリスが、移送用のヘリから、自分たちの戦った戦場を見下ろして独白するのは、次のような思いだったのだ。

『今から思うと、一一僕たちは、自分自身と戦ったんだ。敵は自分の中にいた。
僕の戦争終わった。だけど、思い出は一生残るだろう。エリアスとバーンズの反目はいつまでも続くだろう。時として僕は、彼らの間の子のような気さえする。
ともかく一一生き残った僕らには義務がある。戦場で見たことを伝え、残された一生を努力して、人生を意義あるものにすることだ。』

本作は、オリバー・ストーン監督自身のベトナム戦争体験のあれこれをミックスして作った作品である。彼は、クリスと同様の思いを抱いて、自ら戦場に立った志願兵だったのだ。

そして、彼が属したいくつかの小隊のなかには、バーンズとモデルになった人物も、エリアスのモデルになった人物も実在した。
ただ、同じ部隊にはいなかっただけであり、その意味で、この物語における2人の存在は、「象徴」的なものだったのである。

戦場に立つ兵隊たちの心の中には、必ずこの両者がいて、そこで葛藤している。それが戦争であり、兵隊であるということなのだ。

(物語中ではあり得ないスリーショット。だが、この写真は、クリスの中に生きる二人だと考えることもできるだろう。3人が笑顔ではないところで、単なるオフショットでないのは明らか)


(2025年3月26日)


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○




 ● ● ●

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集