オリバー・ストーン監督 『7月4日に生まれて』 : ベトナム戦争と「独立の精神」
映画評:オリバー・ストーン監督『7月4日に生まれて』(1989年/アメリカ映画)
ベトナム戦争の戦場を描いた『プラトーン』(1986年)で大ヒットを飛ばし、同作でアカデミー賞を受賞するなどして一躍有名になった、社会派映画監督オリバー・ストーン監督が、『プラトーン』の成功を受けて、10年前に一度は頓挫した企画に再挑戦し、みごと再びアカデミー賞を受賞した、もう一つの代表作が、本作『7月4日に生まれて』だ。
オリバー・ストーン監督自身が、ベトナム戦争からの帰還兵であり、その体験を描いたのが『プラトーン』である。
そのラストで、2度目の負傷のためにアメリカへ帰還することになった、ストーン監督自身を投影した主人公クリスは、後方移送のためのヘリの上から、自分たちの戦ったベトナムのジャングルを見下ろしながら、心の中で次のように独白する。
『今から思うと、一一僕たちは、自分自身と戦ったんだ。敵は自分の中にいた。
僕の戦争終わった。だけど、思い出は一生残るだろう。エリアスとバーンズの反目はいつまでも続くだろう。時として僕は、彼らの間の子のような気さえする。
ともかく一一生き残った僕らには義務がある。戦場で見たことを伝え、残された一生を努力して、人生を意義あるものにすることだ。』
この最後の部分、
『生き残った僕らには義務がある。戦場で見たことを伝え、残された一生を努力して、人生を意義あるものにすることだ。』
一一これは無論、そうした意図から『プラトーン』という作品を作ったというのことでもあれば、それ以前に企画した、本作『7月4日に生まれて』のことでもあろう。
本作『7月4日に生まれて』は、ベトナム戦争での負傷により下半身不随となって帰還し、のちに「ベトナム反戦運動」に身を投じた、ロン・コーヴィックの同名の自伝小説(1976年)を、刊行後間もなかった同書に感銘を受けたストーンが、著者に映画化を約しながら予算が集まらず、いったんは制作が頓挫したという、因縁の作品である。
だがまた、10年後にはその約束を果た得た、ストーンにとっても思い入れの強い作品だ。
ちなみに、トム・クルーズが演じた主人公の名も、そのまま「ロン・コーヴィック」である。
したがって本作は、一部に演出的なフィクションを含みはするものの、基本的には「伝記映画」と呼んでいい作品だ。

本作の、詳しいストーリーは次のとおり。「Wikipedia」から引用する。
『1957年、ロン(ロニー)は、ニューヨーク・ヤンキースが好きな普通の少年だった。彼の誕生日である7月4日はアメリカ独立記念日である。1961年、家族でジョン・F・ケネディ大統領の就任式をテレビで見たロンは、自由主義を守るために自己犠牲を尊ぶ演説に強い印象を受ける。そして母親は「ロンがいつか大統領のように立派な演説をする日が来る」と夢見るのだった。
1962年、ガールフレンドのドナをはじめ、幼馴染とともに地元のハイスクールに進学したロンは、レスリングに熱中し、トップに立つため厳しいトレーニングや減量を自分に課していた。しかし努力は実らず、試合で敗北してしまう。しばらく後、学校で行われた海兵隊のリクルーターによる説明に、ロンは強く惹かれる。キューバ危機にベトナム戦争と緊迫した情勢の中、愛国心に駆られたロンやティミーは友人の制止を無視し、アメリカ軍への入隊を決心する。ロンはドナをプロム(卒業パーティー)へと誘えないまま、入隊準備を口実にパーティーを欠席する。その夜、安全な任地を望む父親に対し、前線に行くことで国に貢献したいとロンは語り、母親もそれを肯定する。ロンは神に祈りを捧げると、意を決してパーティー会場に向かい、ドナと踊り甘美なキスを交わす。
1967年、海兵隊に入隊したロンはベトナム戦争に従軍し、今はウィルソンをはじめとする複数の部下を持つ軍曹となった。熾烈な戦いの中、誤って乳児を含む民間人を殺めたことにショックを受けたロンは、さらにベトコンの攻撃を受けてパニックを起こし、ウィルソンを誤射して死なせてしまう。その夜、ロンは上官に誤射を告白するが、勘違いだと強く否定される。1968年1月、劣勢の中、遂にロン自身も踵を撃たれ、立ち上がったところでさらに銃弾に倒れる。野戦病院も大混乱で、医師の治療を待つ間、ロンは従軍牧師の祝福を受け(※ 忙しすぎて混乱した従軍神父が、ロンに「塗油の秘蹟」を授け、ロンは)、意識を失う。
ニューヨーク、ブロンクスの病院、そこは有色人種ばかりでギャンブルや違法薬物が蔓延し、ネズミも出る不衛生な場所だった。脊髄を損傷し、下半身不随となり身体障害者となったロンは人間らしからぬ介護を受けていた。アメリカで彼を待っていたものは、国を守る英雄としての賞賛の言葉ではなく、非難と嘲笑の嵐であり、ロンも怒りを露わにする。懸命のリハビリの甲斐なくロンの足は動かず、上半身の力だけで移動しようとし、かえって開放骨折の重傷を負って悪化させてしまう。ベトナム戦争の結果、医療費が圧縮されて満足な治療も受けられず、絶望の日々を過ごす。
1969年、ロンはようやく実家に帰ることができた。暖かく出迎える家族に対し、ベトナム帰還兵をゴミ屑のように扱う世間の目は冷たかった。その年の独立記念日、ロンもパレードに参加するが、ロンをはじめとした軍人たちには罵声や冷ややかな眼差しが向けられる。一方、式典では大絶賛され、ロン自身も勇ましい演説を行おうするが、戦場での記憶がフラッシュバックし最後まで喋ることが出来なかった。ティミーと再会したロンは、2人で戦場の思い出を語り合うが、お互いに心の傷を抱えていた。
1970年、ロンはシラキュースへ向かい、ドナと再会する。ドナはロンの負傷やソンミ村虐殺事件に衝撃を受け、今は反戦運動に参加していた。ケント州立大学での反戦デモにロンも初めて参加し、参加者が弾圧される姿に衝撃を受ける。
一転して「間違った戦争だった」と語るようになったロンは、次第に酒浸りの日々を送ることで精神を病み、ついに母親に不満をぶつける。過度な期待、信仰との矛盾、愛国心を煽り立てる政治家……。ロンは、家庭にも居場所を失い、父親の奨めるままにメキシコへと旅立った。
メキシコでの生活も自堕落なものだった。やがて帰還兵仲間との口論から、ロンは意を決してウィルソンの遺族、彼の両親と妻子に会いに行った。代々戦争に参加してきたことを誇りにするウィルソン家の話を聞いた後、混乱の中でロン自身がウィルソンを誤射して殺害してしまったことを涙ながらに伝える。ウィルソンの妻から、「私はあなたを許さないが、神は赦すだろう」と言われる。さらに、母親からは苦しみを理解される。
しばらくの後、ロンは車椅子を操って反戦運動に加わる。「今すぐ和平を」「ベトナムの兄弟を殺すな」「北爆を中止しろ」――、仲間と共に、シュプレヒコールを上げながら共和党大会に向けてデモ行進をする。1972年の再選を目指すリチャード・ニクソンへの指名が行われる中、ロンたちは激しい罵声を受け追い出されそうになるが、国を愛しているからこそ戦争に反対するロンの訴えは届かず、抗議運動は弾圧を受ける。ニクソンの「国のために戦った者へ敬意を」という言葉も虚しく響くのだった。
1976年、自著『7月4日に生まれて』(Born on the Fourth of July)を出版したロンは、民主党全国党大会で演説の機会を得る。真実を語ろうとする彼の姿を大勢の人が支援するのだった。』
(Wikipedia「7月4日に生まれて」)
主人公のロンは、アメリカの「独立記念日」に生まれて、1950年代に少年時代を過ごしている。
彼は「1947年」生まれで、ベトナム戦争が始まったのは「1955年」だから、「1975年」まで続いたベトナム戦争はまだ初戦であり、引くに引けない「泥沼」に陥ってはいなかった。
つまりロンは、そんな初期の「ベトナム戦争」しか知らずに、友達と「戦争ごっこ」をしたりしながら育ったのである。
「ベトナム戦争」は、「世界の赤化(共産主義化)を食い止め、自由主義を守る」という大義のもとに行われたものであり、アメリカ国民の多くも、当初はこれを信じて支持した。
これは、第2次世界大戦の「戦勝国」であり、自国を戦火に晒さなかった国の国民としては、ごく当たり前の反応だったと言えるだろう。戦場の現実を知っているのは、第二次世界大戦や朝鮮戦争へ従軍した、ごく一部の人たちだけだったのである。
キリスト教・カトリックであるロンの両親も「アメリカの大義」を信じており、「ベトナム戦争」を支持していた。
そもそも、アメリカのキリスト教界も、「正義の戦争」を支持していたのだ。
また、ロンの母親は「勝つ」ことに高い価値を見出す勝気な女性であり、ロンはそんな両親のもとで、「祖国のために命を捧げる」ことも厭わない、真面目な「愛国者」として育った。

そしてその流れで、まだ「志願兵」制度だった時期(後に、志願制を補うものとしての、抽選式の徴兵制がしかれる)に、軍隊の花形である(最も危険な最前線任務にあたる)「海兵隊」に志願して、ベトナムの地に赴いたのである。


だが、そんなロンがベトナムで経験したのは、聞いていた話とはまったく違う、地獄だった。
故意にではなかったにしろ、民間人を虐殺てしまうし、その動揺から、誤って自分の部下を射殺してしまう。
その罪の意識から、それを自ら上官に報告するが、そうした不都合な事実を認めたくない上官は、ロンを黙らせてしまうのである。
その後、下半身付随になって祖国に帰還したロンを待っていたのは、ベトナムのことなど気にもせず、経済的繁栄を謳歌している人々の呑気な姿であり、やがてそれは「ベトナム反戦運動」へと発展していく(と、ロンには感じられた)。
また、自分は戦争で傷を負って下半身不随となり、「男としての機能」まで失ってしまったというのに、帰国してみると「傷病兵」に対する国の処遇までもが、冷たいものでしかなかった。
(※ ちなみに、上に引用したWikipediaの「あらすじ」は、反帰還兵の側面を強調しすぎている。ロンの帰還時、国論が二分されていたとは言え、主流は戦争支持であった。それが後に、逆転していくのである)
つまり、国も国民も、ベトナムで戦争をしている兵隊たちや帰還兵のことなど、本気では気になどしていないという現実を目の当たりにして、ロンは絶望したのである。
無論、建前的には、ベトナム帰還兵は「英雄」として持ち上げられたが、だからと言って、ロンの栄誉を褒めそやす人たちでさえ、「自分も志願しよう」などとは、決して言わなかった。
ベトナムに行くのは、貧しい志願兵であり、要は、貧しくもないのに、志願までして行くようなところではないというのが、人々の本音だったのだ。

若かったとは言え、ロンは、あまりにもナイーブにすぎ、その幼い「理想主義」を、要領よく立ち回る人たちに利用されただけだったのである。
だから、当初のロンは「ベトナムで戦った愛国者」であるという「プライド」にすがりついて、理不尽な世の中に抵抗しようとした。
ベトナム反戦を訴える人たちを「戦場の現実も知らないくせに、反戦を叫んでいるような、いい気な輩」でしかないと、憎悪の目を向けた。
だが、そんなロンが「独立記念日」の式典に「ベトナムの英雄」として招かれ、壇上でスピーチを始めたところ、ロンは、自分が「前線の兵士たちの、意気は高い」などといった「きれいごとの嘘」をついていることに気づいて、自ら愕然とする。

自身は「誇り高き愛国戦士」であるはずなのに、どうして「ありのまま」が語れないのか。一一その時、ロンは自身の「自己欺瞞」に気づいたのである。
そんなロンの「自己欺瞞」の原因とは、「民間人を殺したこと」と「部下ウィルソンを誤って射殺した」という、とても人には話せないでいた事実だ。
混乱を極めた戦場にあっては、どちらも「よくあること」でしかなく、その意味で「やむを得ないこと」だった。だからこそ、上官もそれを、あえて問題にしようとはしなかった。一一のだが、しかしロンは、心の底では、そんな自己弁護の「嘘」を、どうしても認めることが出来ないでいたのである。
だから、苦悩と逃避の日々を経た後、ついにロンは、ウィルソンの両親に、その事実を告白しに赴く。
無論、ウィルソンの両親は、息子の「戦死」について、正確なところを聞かされてはおらず、ただ気休めのような「勇敢な名誉の戦死」であったという、曖昧な作り話を聞かされていただけであった。

したがって、ロンの告白を聞かされたウィルソンの両親とウィルソンの妻は、衝撃の事実に言葉を失うしかなかった。
もちろん、息子を殺したロンの「誤ち」を許すことはできない。けれども、目の前の男もまた、息子と同じ戦場で戦い、心と身体に深い傷を負って帰還し、ずっと葛藤を抱えてきた、一人の哀れな若者にすぎない。
だから彼らも、そんなロンを責めることは出来なかったのである。
ロンは、ウィルソンの両親への告白を済ませた後、やっと本当のことを語れるようになる。つまり、
「私たちは騙されていた。ベトナム戦争は、共産主義の陰謀から自由主義を守るために、アメリカが誇り高くひき受けた神聖なる戦い、などではなかった。それは所詮、帝国主義的な派遣を目指して、ベトナムを属国化しようするものでしかなかったのだ」
と、言葉激しく批判するようになるのである。
つまり、物語の終盤は「ベトナム反戦運動の車椅子の闘士」となったロンの姿が描かれる。
ある意味では、彼は「著名人」となり、「社会的な成功者」にさえ見えるようになった。
だから、本作を見ていても、物語の終盤、こうした「政治運動家」となったロンの姿に、ある種の抵抗を覚える人もいるだろう。
「苦悩する青年」という、いかにも映画的な主人公が、最後は「著名な政治運動家」になってしまうと、「結局はそれか」という印象を、ややもすると受けてしまいがちだからだ。

しかし、原作者のロン・コーヴィックはもとより、オリバー・ストーンが描きたかったのは、「フィクションとしての感動」ではなく、「現実の勇気」だったのである。
だからこそ、ロンは、運命に翻弄された「悲劇の主人公」では終わらなかったのだ。
私は、本稿の最初の部分で、この物語を、
『本作は、1950年代のアメリカに育ち、1960年代にベトナム戦争とその後の地獄を体験し、1970年代には「新たな戦場」を見つけることで復活したロン・コーヴィックの姿が描かれている。』
と書いたが、本作を評価する上でのポイントは、ここで書いた「新たな戦場」の発見ということである。
タイトルの「7月4日」は、ロンの誕生日であるとともに、アメリカの「独立記念日」だ。つまり、アメリカがイギリスから独立した戦勝記念日である。
そして、アメリカ人が「独立記念日」を祝うのは、単に「戦争に勝ったから」ではなく、「自らの手で、独立を勝ち取ったから」なのだ。
「7月4日」は、単なる「戦勝記念日」などではなく、「独立の精神」を称揚する日なのだ。
「独立と自由を守るためであれば、我々は銃を取ることも辞さず、命を賭けて、自由の国アメリカを守るだろう」と、そういう意味なのである。
つまり肝心なことは、「自由(を求める精神)」であって、「国家」に「縛られること」ではないのだ。
「愛国心」とは、「時の政府の言いなりになる」ことではなく、その「愛国心」のゆえに「なにが、真に祖国のためになるのか」を、真剣に考えて行動することなのである。それが出来る「自由な精神」の持ち主を、「愛国者」と呼ぶのだ。
つまり、根っからの「愛国者」であるロン・コーヴィックは、「祖国アメリカ」のために「ベトナム反戦運動」に身を投じたのである。
そこが、彼の「新しい戦場」だったのだ。
物語の終盤で、ベトナム戦争を正当化してそれを推進する「共和党」の集会に、仲間とともに乗り込んでいったロンは、マスコミの前で「私は愛国者だ」と、堂々と宣言した上で、
「1000年もの間、独立を勝ち取ろうと戦い続けている、尊敬すべきベトナムの兄弟たちへの攻撃は、許されざる暴挙だ。」
という趣旨のことを訴える。

そうなのだ。アメリカの「ベトナム戦争」とは、「自由を守るための戦い」などではなく、イギリスがアメリカを属国のままにしておこうとした戦争と同じ、帝国主義的な「支配」のための戦争だったのである。
今やロンは、その事実をハッキリと理解したのだ。
「ベトナムのことはベトナム人の選択に任せるべきであり、他国が口出しすべきことではない。彼らが、アメリカの政治的干渉に抵抗しているのだとしたら、それは彼らが彼らの「自由」のために戦っているということなのだから、アメリカがアメリカのための「自由を押しつける国」であってはならない。我々アメリカ人が、真に自由の戦士なのであれば、我々は、アメリカの政治的干渉に抗うベトナム人にこそ連帯すべきなのだ。抵抗を諦めないベトナム人こそ、我らの兄弟であり同志なのである」
と、そういうことを、ロンは語ったのである。
「7月4日」の「独立記念日」に生まれたロン・コーヴィックは、何ものにも、つまり「祖国の政府」にも縛られない「自由の戦士」として、「ベトナム反戦運動」という「新たな戦場」を見つけ、昔と変わらぬ誇りを持ってその戦場を志願し、その最前線に立ったのである。

(2025年5月19日)
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