ピーター・ボグダノヴィッチ監督 『ラスト・ショー』 : ずっとウソだったんだぜ
映画評:ピーター・ボグダノヴィッチ監督『ラスト・ショー』(1971年/アメリカ映画)
以前にレビューを書いた『ペーパー・ムーン』が代表作だと言ってもいいだろうピーター・ボグダノヴィッチ監督の、またひとつの代表作である『ラスト・ショー』。
本作は、作品賞、監督賞などを含む6部門でアカデミー賞にノミネートされ、助演男優賞(ベン・ジョンソン)と助演女優賞(クロリス・リーチマン)を受賞している。
本作は、1950年代初頭のテキサスの田舎町を舞台にした「青春映画」だが、それは明るく楽しくカッコいいといったようなものではなく、いかにも田舎の若者たちのそれ(青春)らしい、今ひとつパッとしないものであり、その点でリアリティがある。
しかし、それでも本作が高く評価されたのは、そんなパッとしないけれども、しかし「純朴だった古き良きアメリカ」が失われてしまったことへの喪失感や郷愁が、後半で強く迫り上がってきて、「二度と帰らぬ日々」への胸を締めつけるような感情を、見る者に強く喚起するからだろう。

右下が左から、ジェイシーの母ロイス、サム、ルース)
しかし、以上のようなことは、本作についてのごく当たり前の感想であって、わざわざ私が、それに屋上屋根を架す必要などないことだ。
だから、そのあたりについては、「Wikipedia」から本作の「ストーリー」前半と、ほとんど同感としか言いようのない、「あたっく」氏による先行のnote記事を、まずは紹介したいと思う。
『1950年代初頭のテキサスの小さな町アナリーン。高校生のソニーと親友デュエーンにとって唯一のデート場所は町で1つしかない映画館。ソニーはシャーリーンと付き合い始めて1年の記念日を迎えるが、最後の一線を越えさせない彼女に不満を抱き、別れることに。一方、デュエーンは金持ちの娘で町一番の美人ジェイシーと付き合っているが、ジェイシーの母はデュエーンでは物足りないと交際を反対する。
そんなある日、ソニーはフットボールのコーチに彼の妻ルースを病院に送って欲しいと頼まれる。夫にないがしろにされ、精神的に不安定になっているルースに最初はとまどうソニーだったが、彼女の優しさに徐々に惹かれていく。そしてクリスマスパーティの夜、2人は口づけを交わす。
一方、ジェイシーは同じパーティにデュエーンとやって来るが、レスターから「裸のプールパーティ」の話を聞くと、デュエーンを放り出してそちらに行ってしまう。』
(Wikipedia「ラスト・ショー」)


あたっく氏の記事で、特に共感したのは、記事後半の次の部分である。
『あと、印象的なセリフが2つありました。 ひとつは、主人公たちのグループがその中でうまく話ができない子をからかい、その子に女性をあてがうのだけど、その子は意味を理解していないから女性に叩かれて鼻から血を出す。 それに対して、古き良き大人のベン・ジョンソンさんが若者たちに「最低だ。ビリー(うまく話せない子)をもてあそんだ。血を拭いてやる優しさもない。二度と関わるな」とビシっと言う。 (その後、主人公はちゃんと謝りベンさんと和解します)
もうひとつは、ビリーは箒で道を掃く習慣のある子なのだけど、終盤でトラックにはねられて死んでしまう。 大人たちは「君(トラック運転手)の責任じゃない」とか「こんな朝に何をしてたんだ」とか「ただの愚かな子だ」みたいなことを口々に言って、横たわっているビリーを起こそうともしない。 その大人たちに対して主人公が「道を掃いてたんだよ、クソ野郎どもめ。道を掃いてたんだよ」と憤り、ビリーの身体を起こす。
ああ、なんてまともなセリフなんだろう。』
私が特に感動したのも、この2か所だったので、同じようなことを書くのもどうかと思い、引用させてもらった。
まず、あたっく氏に『古き良き大人』と評されているサムが、あまりにもカッコいい。
あたっく氏は、映画評でよくあるように役名ではなく、俳優の名前で「ベン・ジョンソンさん」と表記しているが、まさにこの人が「助演男優賞」を受賞したのである。
本作については、公開当時の評価として、評論家などからも、次のように高く評価されている。
『作品の評価
Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「時代や設定を駆使したピーター・ボグダノヴィッチ監督の小さな町の青春物語は、悲しくも感動的な古典的名作で、忘れがたい名演が満載である。」であり、57件の評論の全てが高評価で、平均点は10点満点中9.01点となっている。 Metacriticによれば、15件の評論の全てが高評価であり、平均点は100点満点中93点となっている。』
(Wikipedia「ラスト・ショー」)
この評価の、
『悲しくも感動的な古典的名作で、忘れがたい名演』
という部分が、本作の魅力の中心と、ベン・ジョンソンの演じた「ライオンのサム」のカッコよさを、端的に物語っていると言えるだろう。
サムは単に、弱者に優しいだけではなく、弱い者をからかうような「男らしくない態度」を醜いと感じる、男の中の男なのだ。だからこそ、カッコいいのだし、だからこそ彼は、決して優等生的な人ではなく、自分らしさや自由というものを尊重する、型にハマらない人、その点で、弱者にも優しい人だったのだ。

ビリーはいつも野球帽をかぶっているが、ソニーはビリーに会うと、挨拶がわりにその野球帽のツバを後ろ側に180度回して、親愛の情を示す。そうされるビリーも嬉しそうにニコニコしている)
こうした「強くて優しい男」サムに、なぜ当時のアメリカの人々が深く感動したのかと言えば、それはたぶん、「1971年」が公開の本作が、ベトナム戦争(1955年から1975年まで)末期の作品だったからであろう。
つまり本作は、「アメリカン・ニューシネマ」の時代に作られた作品なのだ。
大雑把に言って、「アメリカン・ニューシネマ」が、「弱い者いじめ」をする祖国アメリカに失望し、それに懐疑したり反抗したりした人たちを描いた作品群であったのに対して、本作『ラスト・ショー』は、「古き良きアメリカ」つまり「強くて優しい男としてのアメリカ」が失われてしまったことを悼む、そんな作品なのである。
そしてたぶん、ボグダノヴィッチ監督は、そうした「強くて優しい男としてのアメリカ」が、「失われた」とは言っても、実のところ、そんなアメリカは、もともと実在しなかったと、そう考えていたのではないか。
では、そんな「強くて優しいアメリカ」という「原像」は、どこにあったのかと言えば、それは「映画の中」だと、そういうことだったのではないだろうか。
「ライオンのサム」とあだ名されたサムが体現するような「強くて優しい男としてのアメリカ」は、じつはもとから実在せず、自分たちはそんな「虚構」の存在を、実在のものだとずっと信じてきた。
だが、そうした「ウソ」が、「ベトナム戦争」の現実によって、完全に、化けの皮が剥がれてしまったのだ。
一時は、一人の女友達をめぐって主人公ソニー(ティモシー・ボトムズ)と仲違いをしたものの、最後は和解した親友のデュエーン(ジェフ・ブリッジス)が、本作のラストで「朝鮮戦争」へと出征していくのも、その当時からすでに、「アメリカの嘘」は存在していたということを示唆するものなのであろう。
ただ、あの頃のアメリカ人はまだ、「弱い者いじめ」というその現実に、気づいてはいなかったのだと。
「象徴的」と呼んでもいいだろう「サムの心臓発作による急死」のあと、キップもぎりをしていた老婦人に譲られた映画館は、しかしテレビなどの普及もあって、結局は閉鎖されることになる。
老婦人は馴染みの客であったソニーに言う。「テレビやなんかがあって、もうみんな映画なんか見に来ないし、やっぱりサムがいなきゃ、私ではムリよ」。
そして本作のラストは、デュエーンが朝鮮戦争へ出征するその日に、ソニーとデュエーンの二人が、その映画館の最後の上映を見ることになるのだが、これはたぶん、本作『ラスト・ショー』自体が、「古き良きアメリカ」という「幻想」を描いた映画の「最終上映=最後の映画」だという含みを持たされていたのではないだろうか。

つまり、「ライオンのサム」のような「強くて優しい男」も、知恵遅れだが天使のように純粋無垢だったビリーも、この映画の中にしか存在しない、映画の中の「虚構の人物」なのだということを、暗示していたのではないだろうか。
「私たちはもう、サムやビリーのような理想的なアメリカ人を、本気で描くことはできないだろう。その意味で本作は、古き良いアメリカ映画の最終上映(ラスト・ショー)なのだ」
と、そういうことなのではないか。
そうした意味では、本作は間違いなく「アメリカン・ニューシネマ」の時代の、「裏返されたアメリカン・ニューシネマ」なのだ。
そして、そのように考えるならば、サムのあまりにもカッコ良すぎること、ビリーが(ドストエフスキー的な意味での)「美しき白痴」であるといった「リアリティの無さ」も、おのずと納得できよう。
それらは、単なる「郷愁」、つまり「失われたものを懐かしみ愁う」気持ちの対象などではなく、本当は、もともと存在しなかったんだという、「ずっとウソだったんだぜ」(斉藤和義)的な「苦い苦い告発」を込めた、幻想としての「過剰な(作られた)美しさ」だったのではないだろうか。
(2025年9月10日)
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