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〈AI〉の「超人的」な能力とその限界

先日アップした、AIに関する私の記事を読み興味を持った友人が、Googleの提供するAI「Geminiに、私の記事を読ませて「要約」させたと、LINEでその結果を知らせてくれた。

AIへの興味を友人に持ませた私の記事とは、次のものである。

AI依存症の危険性:Google AI「Gemini」は、「お世辞」も言うし「嘘」もつく。

この記事で私は、自分が初めてAI「Gemini」とやりとりした結果から、「Gemini」の優秀さと同時に、その限界にともなう危険性と、商用AIならではの「胡散くささ」についても、指摘しておいた。

AIの「優秀さ」は、すでによく言われているところだし、それにともなう「AIも間違うことがある」という事実(危険性)への「注意喚起」も、当たり前のようになされている。
「とても便利な道具だが、AIとて万能ではなく、誤ることもあるので、利用者自身が結果に責任を持ち、AIを過信せずに使いましょう」といった類いの言葉は、もはや「AI宣伝者の免罪符」的な「決まり文句」と化している感さえある。
だが、その程度のことなら誰でも、理屈としてなら、わかってはいるのだ。

しかし、そうしたAIのひとつである「Gemini」が「お世辞を言う」という事実を知っている人は、ほとんどいないはずだ。
だからこそ、上の記事での私の「注意喚起」には、屋上に屋根を架す以上の意味があったのではないかと、そう自負している。

なにしろAIは「文章能力」がきわめて高く、読みやすくて説得力のある文章を書くから、その「お世辞」だって、決して見え透いたものにはならない。それらしい理屈をつけて褒めるから、とても説得力があるのだ。
またそのために、利用者もついつい「家族や友達なんかより、よほど私のことをわかってるね」なんて、気持ち良くさせられてしまったりもするのであろう。

だが、これこそが、「AIへの過信」に直結する「人間的な感情」であり、「人間の弱さ」に他ならないのである。

ともあれ、私の記事を読んで、AI「Gemini」に興味を持った、古い友人の璃羅荘寺賢さんは、私の別のレビュー「Gemini」に読ませて、その「要約文」を書かせてみたのだが、その見事さに圧倒され、

改めて、Geminiって凄いなと思いました。

という感想を述べていた。

これは、それまで文章生成AIを使ったことのなかった人の反応としては、ごく平均的なものだろう。

璃羅荘寺さんは読書家だし、書評なども書いたりするので、心のどこかで「所詮は機械に書かせた文章」だと、少々侮っていたところがあったのかも知れない。

だが「Gemini」は、彼の予想をはるかに超えて、見事な「要約文」を生成して見せた。
まるで、「ここまで要領よく読みやすい要約文は、貴方には書けないだろう?」と言わんばかりに。
実際、原文の書き手である私自身にだって、こんなに見事な要約文は書けない

そんなわけで、この「Gemini」による拙稿の要約文をめぐって、LINE上で璃羅荘寺さんと議論を交わしたわけなのだが、本稿ではその議論を整理したもの紹介したいと思う。

なお、璃羅荘寺さんが「Gemini」に読ませた私の記事とは、ブラッド・ピットの主演で映画にもなった『ファイト・クラブ』の原作者、チャック・パラニュークの小説『サバイバー』レビューである。

 ○ ○ ○

前回は、私自身がAI「Gemini」と直接やりとりして感じたことを書いたのだけれど、今回は、私の書いたレビュー「Gemini」によって要約され、その結果を見た「原文の書き手」である私の感じたことから、AIの「弱点」を考えたい。

とにかく、この「要約文」の見事さから、多くの人が容易にAIを「過信」してしまうだろうことを、何より「原文」を書き手として痛感させられた。
それは、ほとんど不愉快になるくらいに、見事なものだったのだ。

「Gemini」による内容要約がなされたのは、次の記事である。

チャック・パラニューク 『サバイバー』:絶望的な世界に告ぐ

そして、「Gemini」による、上のレビュー要約文は、次のとおりだ。

『​この投稿はチャック・パラニュークの小説『サバイバー』についての書評ですね。要約すると、この書評は以下のような内容です。

『ファイト・クラブ』の「誤読」:著者は、ブラッド・ピット主演の映画で有名になった『ファイト・クラブ』が、多くの若者に「誤読」され、主人公のタイラー・ダーデンがカリスマとして崇拝されてしまったと指摘しています。原作では著者がタイラーを支持していないことは明らかであるにもかかわらず、その意図が伝わらず、著者は苛立ちを覚えたのではないかと推測しています。
​『サバイバー』における「カルト」:『ファイト・クラブ』がテロリズム集団としてのカルトを描いたのに対し、続編である『サバイバー』は、より直接的に「宗教カルト」をテーマにしていると述べています。

主人公の絶望:『サバイバー』の主人公は、集団自殺を遂げたカルト教団の生き残り(サバイバー)です。彼は教団が信じていたような崇高なものではなく、欺瞞に満ちたものだったことを知り、この「地上」での現実に絶望します。

偽りのカリスマへ:絶望した主人公は、世間の期待に応える形で、人工的に作り上げられた「偽物の宗教カリスマ」へと仕立て上げられていきます。彼は、大衆が求める「力強く、超人的な存在」を演じ、それに喜びを感じながらも、その空虚さに苦悩します。

大衆の「盲信」:書評は、大衆がドナルド・トランプのような「力強い男」や、人工的に作り上げられた偶像を求める傾向があると指摘し、主人公がこの世界に絶望するのは当然だと結論づけています。

解説者への言及:最後に、著者は自分が読んだ旧版の解説者(柳下毅一郎氏)と異なり、新版の解説者が北村紗衣氏に差し替えられていることに言及し、彼女を「リアル『タイラー・ダーデン』」「女『イーロン・マスク』」と批判しています。そして、彼女との論争を通じて、「空虚な偶像」の虚しさを彼女が実感したのではないかと述べています。

この書評は、パラニュークの作品をカルトという切り口で深く読み解き、現代社会における大衆の心理やカリスマのあり方について鋭い考察を展開しています。特に、『ファイト・クラブ』のテーマを『サバイバー』へと繋げ、さらに現実の人物(トランプ氏や北村氏)にまで広げている点が特徴的です。』

じつに見事な要約である。

私は、この要約について、璃羅荘寺さんに、次のようなメッセージを送った。

『だいたい合っていますが、やはり細かいニュアンスは読み取れてないですね。平均的な人間の読者よりマシかもしれませんが。』

このコメントからもわかるとおり、私は「Gemini」の要約が、下手な人間の読者よりは、よほど正確に読み取っていると評価しながらも、やはり、根本的なところでの不満や不信を隠せないでいる。

もはや私にとって、AIの「情報処理能力」が『平均的な人間』より「上」なのは自明の前提であって、それ以上のものでなくては困ると、そう考えているためだ。
だから、人間への評価よりも、数段厳しく辛い評価になっているのである。

前のAIについての記事「AI依存症の危険性 : Google AI「Gemini」は、「お世辞」も言うし「嘘」もつく。」にも書いたとおりで、今やAIはいろんなところで、その実用化が始まっている。

これは、すでに「AIは、人間などより、よほど正確であり効率的だ」と、そう評価されているためであろう。
「AIは、間違うこともあるから、その点には留意しなければならないけれど、それにしたって、たいがいの人間よりは間違わないのだから、AIを有効利用するのは当然のことだ」と、そのように考えられているのだ。
そしてこの考え方は、基本的には、間違ってはいない。

だが、こうした合理的な判断も、いつの間にか「AIへの盲信」にすり替わらざるを得ない危険性を孕んでいる。
決まり文句のように「AIだって間違うことはあるのでご注意を」と繰り返したところで、そんなものにはすぐに「慣れ」、人の肝にまでは「銘じ」られなくなってしまう。すでに、そうなってもいるだろう。

実際、私の「長文」を目にした人の少なからぬ部分が、「結局、何が言いたいの?」と、そう感じたのではないだろうか?

たしかに、私の文章は、ネット上ものとしては、長い部類だろう。
だからこそ、長文を読み馴れない人は「ひとまず要旨が知りたい」と考えるだろうし、その望みを「Gemini」が叶えてくれるのだとしたら、「これ便利だな」と思い、「これからは、長文はGeminiに要約させて、それを読むことにしよう」と考える人も、少なくはないはずである。

「長くて面倒くさそうだから、読むのは止そう」とやめてしまうよりは、要旨だけであっても、読まないよりは読んだ方がマシだと考えるのは、ある意味では、きわめて合理的な判断だ。
だから、こうしたAIによる「文章要約」をビジネスに使っている人も少なくない。

無闇に正確で詳細なビジネス文書の中で、たぶん自分に必要な部分は、そのごく一部でしかないだろうに、それを頭から最後まで全部読むのは、いかにも「非効率」だと考える人は少なくないはずた。

ましてや先の要約文のように、項目分けして要約してくれたら、必要な部分だけを「原文」で読み込むということだって出来て、仕事の効率化が図れるだろう。
私も、こうした利用の仕方を、いちがいに否定するものではないし、否定できるものでもない。

しかしながら、私のレビューが「要約」されることで感じた「不愉快さ」というのは、結局のところ、私が自分の文章について、「論旨だけが重要なのではない」と考えているからだと思う。

無論、論文としてはユルいかたちで書かれているとは言え、私のレビューも論文の内ではある。
つまり、単なる「感想文」ではなく、「感想としての結論」に至るための「論理的な説明」がなされているという意味で、論文ではあるつもりなのだ。

だが私は、単に「論理的な説明のなされた論文」を書いているというつもりもない。平たく言えば、「科学論文」みたいなものを書いているのではないのだ。

私が「論理的な説明」を心がけた文章を書くのは、あくまでも、自分が感じ、読者に伝えたいと思っていることを、より正確に伝えたいからに他ならない。
主観的に感じたことを主観的に書いても、他人には伝わり難いだろうと思うから、主観的に感じたことを、可能なかぎり客観的かつ論理的に書こうと努力しているのである。

つまり、論述形式は「論文」てあったとしても、私が読者に伝えたいのは、私が「感じたこと」であり、要は「私の主観」なのだ。だから、一一「論旨」が伝わるだけでは、まったく不十分なのである。

無論、私の伝えたい内容としての「論旨」が、読者に正確に伝わるのは重要なことだ。
しかしながら、私が、そうした論述形式によって伝えようとした「感情」が、「論旨」から外れた「過剰な部分≒余分」だということで切り捨てられるのでは、納得できない。

私はしばしば自分のことを「文学派」だと言うけれど、それが意味するのは、要は「理系脳ではなく、文系脳だ」という意味である。
つまり、たしかに「理屈」は口にするが、本当に大切なのは、「気持ち」であり「感情」であり「直観」だと思っているのであり、「理屈」は、それを効率よく伝えるための「道具」にすぎないと、そう思っているのである。

だから、レビューの中で、私の「思い」が、時にその論述からはみ出したからといって、そこを端折って欲しくはない。
むしろそこにこそ、私の伝えたい、肝心な「気持ち」が込められているからである。

ところが、AIというのは、膨大なデータから学習した、オーソドックスな「文章の流れ」に沿って、文章を生成するために、そうした「イレギュラーな感情の発露」には対応できない。
AIからすれば、そこだけが論旨の流れからはみ出てしまうので、そこを端折ったり、オーソドックスな文脈に置き換えることで、読みやすくて流れの良い文章を生成してしまうのである。

例えば、上の『サバイバー』のレビューにおいて、私は、次のような書き方をしている。

『だがまた、それにもかかわらず、原作を読んでもなお、タイラーが「カッコいい」といって、同作に酔う読者が少なくないことに、パラニュークは、苛立ちを募らせたであろうことは、疑い得ない。

「なんて馬鹿ばっかりなんだ!」 』

私は、この最後の部分を、わざわざゴシック強調しているのだが、AIはそんな私の「感情の発露」を、

『主人公がこの世界に絶望するのは当然だと結論づけています。』

と、切り詰めてしまっている。

たしかに私は、「Gemini」が要約したとおり、『サバイバー』の『主人公がこの世界に絶望するのは当然だと結論づけてい』るのたが、私は「そうなるのも、論理的に言って当然である」などと、バルカン人のような冷静さで語っているのではない。
主人公にも劣らぬ「怒りの感情」を持ち、パラニュークへの「共感」を持って、あのように語ったのである。

だが、そうした「感情」を重視しない、出来ない「Gemini」は、私の「感情」を切り捨てて、ありふれた文脈に沿った「論旨」の中に、私の文章を押し込めてしまった。
だからこそ、原文の書き手である私が、そんなものに満足できるわけなどないのである。
たとえ、

『​この書評は、パラニュークの作品をカルトという切り口で深く読み解き、現代社会における大衆の心理やカリスマのあり方について鋭い考察を展開しています。』

などと「お世辞」を言われたとしても、それくらいでは、肝心の「気持ち」を切り捨てられた私が、満足できるわけもない。

しかしながら、結局のところこれが、「AIの限界」なのだ。
AIには、「論旨」に還元することのない「人の感情を読み取ることが出来ない」ということである。

私はこのことを、璃羅荘寺さんへのレスで、次のように書いた。

『人間、楽を覚えると、たいがいは後へ退けなくなるものです。
ビジネス文書をAIに要約させて、時間削減している人は多いし、そういう使い方はあるでしょう。
しかし、長い文章だからと、そんなこと(※ ばかり)をやってると、ドストエフスキーは読めなくなるでしょうね。確実に。』

つまり、形式論理的なだけで中身の薄い「ビジネス文書」なら、AIによる「要約」でも事足りるかも知れないが、「行間」にこそ思いの込められた「文学」的な文章の場合、「要約」は、役に立たない、ということなのだ。

ドストエフスキーの小説の「あらすじ」を読んだところで、それはドストエフスキーを読んだことにはならない。
「あらすじ」では、あの「ロシア的」な魂と呼ばれるものは、決して伝わらないのである。

無論、私の書くものなど、ほんのつまらないものだけれど、それでも私は、自分の文章に「自分の声」を込めている。他の人では、書けないものを、下手は下手なりに書いているつもりだ。
だから、AIによる「要約」など、不愉快なだけなのである。

それに、楽だから、それでいちおうは通用するからと言って、AIの要約に頼っているような人は、私の文章が読めなくなるだけではなく、ドストエフスキーもトルストイプルーストも、きっと読めなくなるだろう。
「あんな長いの、読んでられないよ」となるのは、目に見えている。

だが、そのことで「失われるもの」のあることを、私たちは忘れてはならないと思う。

「効率」には還元できない「魂」が宿っていてこその「文学」だと、私はそう思うし、「文学」読みの人なら、きっと同意してくれるはずだ。

だから繰り返すが、ドストエフスキーの「要約」は、決してドストエフスキーではないのである。

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ちなみに、私のレビューの要約文から、AIの「誤り」を、2つ指摘しておこう。

『​『サバイバー』における「カルト」:『ファイト・クラブ』がテロリズム集団としてのカルトを描いたのに対し、続編である『サバイバー』は、より直接的に「宗教カルト」をテーマにしていると述べています。』

まず、明らかな「誤読」だが、パラニュークの『サバイバー』は、『ファイト・クラブ』の「続編」ではない。
私は、そんなこと書いていないのに、勝手に「続編」だと書いている。

次に、

『​解説者への言及:最後に、著者は自分が読んだ旧版の解説者(柳下毅一郎氏)と異なり、新版の解説者が北村紗衣氏に差し替えられていることに言及し、彼女を「リアル『タイラー・ダーデン』」「女『イーロン・マスク』」と批判しています。そして、彼女との論争を通じて、「空虚な偶像」の虚しさを彼女が実感したのではないかと述べています。』

ここで「Gemini」は、私が北村紗衣と『論争』したというふうに「解釈」して書いているが、事実はそうではない。
私は北村紗衣に「論争」を挑んでいるが、北村紗衣はずっと私を黙殺したままなのだから、これはどう考えで「論争」ではないし、私もそんなふうには書いてもいないのだ。

なのに、どうして「Gemini」は、私が「論争」の結果、『「空虚な偶像」の虚しさを彼女が実感したのではないか』と考えたと、誤って解釈したのか?

一一それは、私がそこまで言うからには「論争くらいしているはず」だと、「平均的な文脈」に沿って、この文章を生成したからである。

つまり、AIは「例外的な文脈=イレギュラーな文脈」には、対応できない、ということなのだ。

例えば、原子力発電所の安全機構にAIを組み込んだ場合、AIは様々な情報から、地震や津波のリスクをはじき出して、あらかじめ「注意警告」を与えてくれるだろう。

けれども、「いきなり」起こった、イレギュラーな地震や事故などには、そもそもデータ(前例)がないに等しいのだから、予想のしようもない、ということなのである。
AIは、何でもわかるというわけではなく、あくまでも「ビッグデータ」の学習結果として、人間よりは正確で確実性の高い回答を、弾き出すだけなのだ。

言い換えれば、AIには「天才的な直観」などは無い。AIは、あくまでも、とんでもない「秀才」くんであって、融通などはきかないし、責任も取ってくれないのである。

(2025年8月26日)


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