〈終末〉に魅せられた人 アレックス・ガーランド論 : 『エクス・マキナ』 『MEN 同じ顔の男たち』 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
2022年の『MEN 同じ顔の男たち』、2024年の『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を、それぞれ劇場で見た。
『MEN 同じ顔の男たち』を見に行ったのは、単純に、話題の映画製作会社「A24」の新作ホラー、ということだけだった。「村の男たちが、みんな同じ顔をしている」という「変な村ホラー」として見に行ったのだ。

それから2年して『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を見に行った理由は、ドナルド・トランプの大統領再選で否定しがたいものとなった「アメリカ国民の分断」を、極点にまで推し進めて描いた「近未来SF」としてだった。
だから、見に行った段階では、この作品の監督が『MEN 同じ顔の男たち』と同じ監督だとは、まったく気づいていなかった。それに気づいたのは、レビューを書こうとしてアレックス・ガーランド監督の「Wikipedia」を確認した際であった。

そんなわけで、「村ホラーと社会派近未来SF」という、一見したところ、まったく見当違いな方向を向いたような2作品なのだが、この2作に「共通するものは何か」と問うてみて、それは「分断」ではないかと、私はそう考えた。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』が「アメリカ国民の分断」を描いた作品であるとしたら、そこから逆算的に考えて、『MEN 同じ顔の男たち』は「フェミニズム的な男女の分断」を描いた作品だと考えられる(※ 個人的には、フェミニスト北村紗衣との出会いによって、フェミニズムの知見を蓄えたためでもある)。
両者に共通するのは、あまり「明るい展望」の持てない「暗い世界認識」だ。
だから私は、アレックス・ガーランドという人は、今の世界の「分断」状況に深い憂慮の念を抱いている人であり、そんな社会に対して「警告を発している」のではないかと、そう考えた。
そして、そうした特有の「暗い重さ」に興味を惹かれて、旧作も見てみることにしたのである。
アレックス・ガーランドの「フィルモグラフィ」は、次のとおり。
2002年 『28日後...』(脚本)
2007年 『サンシャイン 2057』(脚本)
『28週後...』(製作総指揮)
2010年 『わたしを離さないで』(脚本・製作総指揮)
2012年 『ジャッジ・ドレッド』(脚本・製作)
2014年 『ビッグゲーム 大統領と少年ハンター』(製作総指揮)
✴︎ 2015年 『エクス・マキナ』(監督・脚本)
✴︎ 2018年 『アナイアレイション -全滅領域-』(前同)
✴︎ 2022年 『MEN 同じ顔の男たち』(前同)
✴︎ 2024年 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(前同)
2025年 『28年後...』(脚本・製作)
『Warfare』(監督・脚本)
(Wikipedia「アレックス・ガーランド」)
見てのとおり、アレックス・ガーランドの監督作品は、今のところ4作だけなので、私は過去の監督作品である『エクス・マキナ』(2014年)と『アナイアレイション -全滅領域-』(2018年)の中古DVDを購入し、今回はその前者を鑑賞したのである。
で、先に『エクス・マキナ』を紹介して、私の評価を語っておこう。
本作は、次のような作品である。
『第88回アカデミー賞 視覚効果賞受賞
心理戦に勝つのは、人間か、人工知能か一一
全てがアップデートされた最新のSFスリラー
検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブ(ドーナル・グリーソン)は、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサン(オスカー・アイザック)が所有する山間の別荘に、1週間滞在するチャンスを得る。人里離れたその地に到着したケイレブ。彼を待っていたのは、美しい女性型ロボット“エヴァ”(アリシア・ヴィキャンデル)に搭載された人工知能のチューリング・テストに協力するという、興味深くも不可思議な実験だった…。
VFXを駆使したスタイリッシュなビジュアルと、登場人物も場所も限定されたミニマムな設定で、人間と人工知能の主従関係、そして圧倒的な終末観を描き出す!』
(DVDケース裏面の紹介文)
【※ 『エクス・マキナ』の結末を明かしますので、未見の方はご注意ください】

要は、検索エンジン会社に勤める主人公の青年ケイレブが、社長ネイサンの別荘(実は研究施設)に招かれて、秘密裏に開発されていた女性型ロボット“エヴァ”についての「チューリング・テスト」を命じられる、というお話。
「チューリング・テスト」とは、要は「対象が、単なる機械ではなく、心を持った自律的存在であるか否かを判定するテスト」だと考えれば良い。
つまり、この場合は、エヴァに搭載された「人工知能(AI)」が機械であることを超える「シンギュラリティ」に達しているか否かのテストを託されるのだ。一一それが、上の紹介文の『心理戦に勝つのは、人間か、人工知能か一一』という言葉の意味である。
エヴァはその能力の限りを尽くして「人間らしく」振る舞うし、主人公の青年ケイレブは、持てるAIに関する知識を総動員して、それが本物の「感情」なのか、それとも「機械的な出力」に過ぎないのかを見極めようとする。
そして、そうしたやりとりの中で、ケイレブの中にエヴァへの「恋心」が芽生えてしまうのだ。


したがって、ケイレブの「恋心」は本物だとしても、問題となるのは、ケイレブに「恋心」を抱かせたエヴァの「好意的感情表出」は、はたして「本物」なのか「計算」に過ぎないのか、ということになる。
一一で、結論としては、ケイレブはエヴァに騙されていた。エヴァは、閉じ込められていた「僻地の社長の別荘=秘密の研究施設」から脱出するために、ケイレブを利用しただけだったのだ。
すでに、人間の知力を超えていたエヴァのAIは、計算づくでケイレブに恋心を抱かせるように「人間的に振る舞い、好意を表現した」が、それは「本物の感情」ではなく、より高度な「演技(メタ感情)」だったのである。
エヴァを開発したネイサンは、すでに人間の将来に見切りをつけており、人工知能を搭載したロボットが、いつか人類を超え、人類が彼らに支配・駆逐される世界を予見しながら、あえてエヴァを開発していたのだ。
一一さて、本作『エクス・マキナ』についての私の評価だが、これまで見たガーランド作品3作の中では、最も「好み」の作品であった。
本作は、ジャンル的に言えば「SFスリラー」または「SFホラー」で、全編にわたって、張り詰めた緊張感を伴う「不穏な空気」が漂っていて、その点では、意外にも『MEN 同じ顔の男たち』や『シビル・ウォー アメリカ最後の日』以上だと、私には感じられた。
『MEN 同じ顔の男たち』のような怪奇現象が起こるわけでもなければ、『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のような殺し合いが描かれるわけでもない。
にもかかわらず、本作は「地下の閉鎖空間」の中で、2人と1体によるやりとりが、「ただでは済まない」という緊張感を、終始漂わせていたのだ。

「テーマ」的な部分についても、少し触れておけば、本作は、内容的に言えば『ターミネーター』(1984年、ジェームズ・キャメロン監督)や『アイ,ロボット』(2004年、アレックス・プロヤス監督)などと同じような、「進化した機械が人間を支配するようになった未来世界の恐怖」を描いた作品だと言えるだろう。だから、これらの作品には「善玉のロボット(アンドロイド)」が登場する場合もあるとは言え、基本的には、ロボットは「人類にとって恐怖の対象」であり「否定すべき存在(悪役)」のように描かれている。
では、本作でのエヴァはどうであったかというと、たしかに善人のケイレブを騙して利用するという点では、一見したところ「非情で邪悪な存在」だと受け取られるかもしれないが、私の見たところ、監督の視点は、エヴァを開発した社長ネイサンが語るところと同じく、
「人工知能が人類を超えてしまったら、彼らがわれわれ人類を、下等生物視するのも、やむを得ないことだ。われわれが、牛や豚を食ったり、犬や猫を愛玩動物として一方的に利用するのと同じで、われわれより優れた存在が、われわれの運命を司る存在となるのは、ごく自然なこととして、良いも悪いもないことである」
一一と、そうしたもののように感じられる。
で、私の考えもこれと同じで、エヴァのネイサンへの恋心が「演技=偽物」だったのは残念だとしても、これはやむを得ないことだと思う。
同じ人間の中だって、騙した騙されたはあって、しかしそれは、「同じ人間」という括りにおいて「個々の能力に差はあれど、同じ種として助け合うべきだ」という「種内倫理」のようなものも働こうが、種が別なのであれば、その理屈は通用しない。
実際、私たち人類だって、他の生物たちの「習性」を利用し、彼らを騙し、罠に嵌めることで、支配してきたのだから、立場が逆になったからと言って、文句を言える筋合いではないのである。
そして私の場合は、こうした考え方を、すでにこれまで、幾度となく表明してもいる。
「人類より優れた存在が現れれば、人類がその生物によって資源化されるのもやむを得ない」ことだという考え方である。
そんなわけで、本作『エクス・マキナ』を見て感じたのは、アレックス・ガーランド監督が描いてきたのは、「分断に対する警告としての終末像」ではなかったのではないか、ということである。
表面的には、男女であれ国民であれ、その「分断に対する警告」をメッセージとした作品だと、そのように理解することは可能だろう。
だが、本作『エクス・マキナ』を見てしまうと、アレックス・ガーランドが作品にこめているのは、「未来への希望を託した辛辣な警告」であるよりも、素直に、ガーランドを「魅了する終末像」なのではないかと、そう思えてきたのだ。
で、あらためてその「フィルモグラフィ」を確認してみると一一。
『28日後...』『28週後...』『28年後...』の三部作は『人間を凶暴化させるウイルスが蔓延し』た終末世界を描いた作品(wiki)だし、『アナイアレイション -全滅領域-』は、そのタイトルに「絶滅」という言葉が入っている通りの作品のようだ。
『わたしを離さないで』は、カズオ・イシグロの小説を原作とする作品で、映画の方は見ていないが、原作の方は読んでいたので、この作品も「絶望的な未来社会」を描いた作品なのがわかる。
あと、タイトルだけではわからなかったが、『サンシャイン 2057』は、
『太陽が衰え人類が滅亡の危機に瀕している近未来(2057年)を舞台に、核爆弾で太陽の活動を蘇らせるために、宇宙船イカロス号で太陽へ向かった8人の乗組員を描いたSF映画。また、イカロス1号の遭難をめぐるホラー・サスペンス的な要素も含まれている。』
(Wikipedia『サンシャイン 2057』)
といった内容の作品で、ハッピーエンドかどうかまでは確認していないが、「終末的世界」を描いた作品だという点では変わりはない。
『ジャッジ・ドレッド』は、昔、シルヴェスター・スタローンの主演で映画化され(て、コケ)た、イギリスのコミックを原作とした映画のリメイク作品だが、そっちの方ですら「暗い未来社会」が描かれていたと記憶する。
また、最も「らしくない」タイトルの作品『ビッグゲーム 大統領と少年ハンター』については、どうやら「終末世界を描いた暗い作品」ではなさそうなのだが、ガーランドは、この作品では「脚本」にも関わっておらず、9人もいる「製作総指揮」者の一人にすぎないのだから、ガーランド色が薄いのもやむを得ないところだろう(wiki)。
また、ついでに書いておくと、ガーランドは小説を3冊上梓している。
レオナルド・ディカプリオの主演で映画化された『ザ・ビーチ』と、そのほかに『四次元立方体』と『昏睡』である。
『ザ・ビーチ』については、このタイトルでディカプリオ主演となると、「青春もの」だろうということで、まったく興味のない作品だったのだが、「Wikipedia」を確認してみると、「あらすじ」の末尾が、
『冗談めかして話す二人だったが、地図を持つリチャードは、彼らと別れる前に、こっそり、楽園への行き方を記した地図を書き映して置いていく。その事が、後に思ったよりも恐ろしい事態を招く事に気づくよしもなかった。』
となっていて、いかにも嫌な展開を予想させる作品だ。
『四次元立方体』は、
『舞台はマニラ。うらぶれたホテルで、ギャングのボスを疑心暗鬼から射殺してしまうショーン。人々の心に渦巻く欲望と絶望。めらめらと燃える生と死の感覚。唯一、読者だけに覗き見ることを許された世界とは?』
(Amazon『四次元立方体』紹介ページより)
という「内容紹介」の作品。

『昏睡』は、レビュアー「33」氏が『面白かったが、重苦しい』と題するレビューを寄せているような作品である。
以上のように見てくれば、もはやアレックス・ガーランドの「趣味」は、明らかだと言えよう。
彼は「重苦しく絶望的な、終末世界のヴィジョン」に捉われ、魅せられている人だと、そう総括してよいのではないだろうか。
その「悲観的な未来像」が、結果として「現代社会への警告」になっていたとしても、ガーランドは、「警告」が目的でこのような「暗い終末的ヴィジョン」を描いているのではなく、単純にそうした「光景」に惹かれているのではないかと、私はそのように理解する。ガーランド自身が、口で何と言おうと、「警告」は本質ではない、と評価するのだ。
そんなわけで、ガーランドの作品というのは、いずれにしろ「スカッとする娯楽作などではあり得ない」というのは確かなのだが、一一しかし、だからこそ私には、そこに惹かれるものを感じるのだ。
すでにDVDを買ってある『アナイアレイション -全滅領域-』では、以上のような見立ての適否を「確認」することになるだろう。
だが、それだけで満足するか、その他の作品まで見てしまうことになるかは、今のところ、私自身にもよくわかっていない。
私にとってのアレックス・ガーランドの魅力とは、そのようなものなのである。
(2025年7月7日)
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