ウィリアム・ワイラー監督 『我等の生涯の最良の年』 : アメリカ理想主義にとって戦後最良の年
映画評:ウィリアム・ワイラー監督『我等の生涯の最良の年』(1946年/アメリカ映画)
第二次世界大戦の終戦後、戦場から帰還した3人の男たちの「社会復帰」を描いた作品。
その後のハリウッドでの「赤狩り」にも最後まで抵抗したウィリアム・ワイラー監督らしい「アメリカン・ヒューマニズム」を描いた傑作である。まさに終戦翌年、1946年の作品だ。
終戦の翌年に、復員兵の社会復帰を描いたヒューマンな物語だというと、多くの人は「当たり前のこと」のように思うかもしれない。だが、実はそうではない。本作の「Wikipedia」にも、
『第二次世界大戦後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題をテーマにした数少ない作品の1つである。』
(Wikipedia「我等の生涯の最良の年」)
とあるとおりなのだ。
ではなぜ、戦争が「勝利」に終わり、戦地から帰還した兵隊(兵士)たちのことを、好感を持って描くような作品が、当たり前のように多数作られることには、ならなかっただろうか?
それはたぶん、多くのアメリカ国民にとっての「戦争」は、勝ったという結果に意味があるのであり、それは自分たちの平和な日常が戻ってくるということであり、どうしてもそちらへ目が向いてしまうから、兵隊の存在には、すでに「興味が薄れていた」ということなのではないだろうか。

敗戦国である日本などでは、戦時中、大変な生活を強いられながら、それでも「大本営発表」を信じ、祖国の勝利を信じていたのに、あにはからんや「敗戦」となってしまい、この先どうなるのか、という不安に囚われることになる。
だが、幸いにも進駐軍のアメリカ兵は、戦中に聞かされていた「赤鬼」のような存在ではなく、いたって気さくなヤンキーであったから、心配したようなことにはならず、むしろ日本人の多くは占領軍を解放軍であるとまで感じ、好感を持つようになっていった。
しかしその一方で日本国民は、やがて自分たちが「軍部政府」に騙されていたことを知らされる。そして、自分たちは、時の権力者に騙されて、勝ち目のない戦争に動員されたのだという「被害者意識」を持つに至るのた。
一一すると、その「軍部政府」を象徴するような存在と見えた「復員兵」にまでつらく当たるという、誤った行動にも出るようになる。
それが「犬死に」に等しいものだったとしても、祖国を信じて死ぬ覚悟をし、それがたまたま運良く助かって帰国した「特攻隊員」たちが、世間から「特攻くずれ」として蔑まれ、時に悪の道へと走ったというのは、有名な話であろう。












このように、敗戦国である我が国では、なかば八つ当たりのように「帰還兵」に冷たかったということがあったのだ。
彼らが戦場で為したことを肯定する必要はないけれども、戦場に送られはしなかったものの、祖国の命ずるままに戦争に協力した者が、自分たちを、まるで手を汚すことのなかった「被害者」ででもあるかのように考えるのも、また愚かなことなのではないだろうか。
ともあれ、世間の冷たさとは言わないまでも、戦勝国においても「帰還兵」に対する世間の興味は薄かった。
特に、祖国を戦火に焼くことのなかったアメリカにおいては、戦場へ行なかった大半の国民にとっては、戦争とは「勧善懲悪のフィクション」同様のイメージの産物でしかなく、「戦争映画」と大差のないものだったからこそ、上映が終われば、さっさと、それぞれの日常生活に戻ってしまい、帰還兵たちの存在など、あって無きがもののごとくなってしまったのである。
私がこの映画の存在は知ったのは、ごく最近DVDで見た、オリバー・ストーン監督の『7月4日に生まれて』のコメンタリーでである。ストーン監督が「帰還兵の社会復帰」を描いた作品として、本作を紹介していたのだ。
私は、本作のタイトルさえ知らなかったし、アカデミー賞を受賞した名作であることも知らなかった。
また、昨年初めて見て感動した『ローマの休日』を撮ったワイラー監督の作品であることも、本作をDVDで見終えるまで気づかなかった。
気づいてみれば、たしかに『ローマの休日』と似たヒューマンなテイストと、アップの表情をしっかりと見せる演出は、完全に一貫しているから、私が本作に、『ローマの休日』と相似た好感を持ったのは、まったく自然なことだと理解できた。
本作を、いささか理想主義的に綺麗事すぎて「リアルではない」と批判する人もあるだろう。だが、ワイラー監督は、「リアル」であることよりも「かくあるべき人間らしさ」を描いているのだと、そう考えるべきではないかと、私はそう考える。
実際、その後のワイラー監督は、ハリウッドでの「赤狩り」という極めつけの「リアル」に対して、身を張って抵抗したのだ。これ以上の「リアル」はなかろう。





逆に、本作を「綺麗事すぎる」とか「理想的にすぎる」と注文をつけるような人は、そうした「リアル」に直面して、どこまで抵抗できるのかと言えば、間違いなくその大半は、抵抗などできないまま、あっさりとそれに屈してしまうはずだ。それこそが、彼らの「リアル」なのだ。
つまり、そんな自身の「弱さ」に薄々勘づいているからこそ、「理想的な人物像」が描かれた作品を見せられると、思わず「現実は、そんなもんじゃないよ」と、無意識に、自分自身の「弱さ」を基準にして、人間の「リアル」を、否定的に評価しようした、ということなのではないだろうか。
本作を見ながら、その人は自身が、本作中に描かれる、「傷ついた帰還兵たちの社会復帰を優しく支える人」の方ではなく、「冷たい世間」の方に属する人間だと、そう薄々勘づいているからこそ、ワイラー監督の描く「理想的な人間」像が煙たくてならず、「こんなのリアルではない」と、そうケチをつけずにはいられなかったのではないか。
「自分なら、この人たちのように優しく接することができるだろうか?」などと、自身に問うことすら、出来なかったのではなかったか。
本作を見れば、多くの人が感動をする。
だからこそ、当時としても異例の3時間弱の大長編でありながら、本作は大ヒットしてアカデミー賞も受賞した。
一一しかし、だからと言って、本作のような「帰還兵」を扱った「傷ついた人に寄り添う」ような作品は主流とはならず、むしろ「冷戦」構造がはっきりとそのかたちを見せ始める中で、「敵を憎む」ことを煽ることが求めれるようになっていった。
ハリウッドでも「赤狩り」が始まり、そこで作られる映画も、そうした状況に迎合するものか、あるいは、そうした現状に反発を覚えながらも、「ミュージカル映画」のような「夢の世界」に逃避するかの、いずれかしか選択し得なかった。
ハリウッドは、「理想を掲げて、リアルと闘う」ということが出来なかったのだ。
だからこそ、「ベトナム反戦」運動の盛り上がり気運を背景として、1960年代最終盤から登場することになる「アメリカン・ニューシネマ」の流れは、ハリウッドの大手スタジオの制作ではなく、独立系の作品として作られたのであろう。
ハリウッドが作れない映画として作られたのが「アメリカン・ニューシネマ」の始まりだったのだが、しかし、この時代すでに、本作『我等の生涯の最良の年』のような「理想主義ヒューマニズム」の回復ではなく、「人間に対する絶望的な感情」の方が、色濃くなっていた。
それは、映画が、「リアル」に対して抵抗し得なかったという歴史を見れば、感じて然るべき「苦さ」だったのではあろうが。
そんなわけで、本作『我等の生涯の最良の年』は、「当たり前にアメリカ的な理想主義を描いた、例外的な映画」ということになるのかもしれない。
まだ、理想を信じることのできるアメリカ人が生きていた、最後の時代を体現する作品だと言っても良いのではないか。もしかするともう、こんな映画は、撮ろうと思っても撮れなくなっているのではないか。撮ったとしても、どこか嘘っぽくなったり、自信無げなものになったりしてしまうのではないだろうか。
しかし、だからこそ本作は、貴重に「美しい作品」だとも言えるのである。
「人間を信じようではないか」と、本気で言えた、もしかすると最後の時期の作品かもしれないのである。
だから私は、本作を多くの人に見てほしいと思う。
そして、自分が本作を「どのように感じるのか?」、その上で「どうして自分は、そのように感じるのか?」ということを、自身に問うてほしいのだ。
作品を論評するのではなく、作品によって試されている自分自身をこそ、論評してほしいのである。
○ ○ ○
最初に書いたとおり、本作は、たまたま同じ街へと帰ってきた「3人の帰還兵」、フレッド・デリー(ダナ・アンドリュース)、アル・スティーブンソン(フレドリック・マーチ)、ホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)の物語であり、そのいずれもが主人公と呼んで良いほど、それぞれの物語がしっかりと描かれている。
しかし、あえて言うならフレッドがメインであり、その対照的な位置にあるホーマーが影の主役であり、両者をつなぐ位置にあるのがアルだと、そうも言えるだろう。
つまり、3人の物語は、オムニバス的に独立したものではなく、言うなれば「三位一体」をなすものなのだ。3つの物語が、相互に必要不可欠に組み合わさることで、本作は「一つの物語」を構成しているのであり、その意味で、とてもよくできた物語、練り上げられた脚本による作品だからこそ、3時間弱の「長尺」が、どうしても必要だったのである。
そんなわけで、この複雑に組み立てられた物語を、ここで紹介することはしない。長くなりすぎるからで、それがどうしても知りたい人は、「Wikipedia」にある「ストーリー」を参照していただきたいと思う。
しかし、当然のことながら、本作の素晴らしさは、ストーリーを知っただけで理解できるようなものではない。
それぞれの登場人物による「社会的な葛藤」の積み重ねの果てに、この物語の大団円もあるからだ。
そしてそれは、決して「理想主義の綺麗事」のひと言では、片づけられないものなのである。
なお、特に素晴らしいシーンとして、ひとつだけ紹介しておきたいのは、「Wikipedia」でも紹介されている、銀行員として元の職場に復帰した中年の元陸軍軍曹アル・スティーブンソンの、戦場からの帰宅シーンである。
立派なアパート内の自宅(自室)前まで戻ったアルが、感慨もひとしおに玄関ドアのインターフォンを押すと、まず二十歳前の娘ペギー(テレサ・ライト)が出てきて、帰還した父親に抱きつき、次に、それに気づいた少し年下の息子ロブ(マイケル・ホール)が出てくる。
息子は父の帰還を喜び興奮してながらも、姉のように父に抱きついたりはしない。それどころか、姉と話す父が、玄関前の廊下に置いていた荷物を取りに行って戻ってくるという気配りを見せる。
そして、父(アル)が「お母さんは?」と二人に問うと、奥のキッチンで調理中だと答え、そこで娘と息子が、母に父の帰還を伝えるため声を上げようとすると、父はそれを静止する。父は一人で奥へと入っていき、キッチンの入り口に佇むんで、調理する妻ミリー(マーナ・ロイ)の懐かしい背中を静かに眺める。
すると、調理中の妻は、背後にその気配を感じたのか、何気なく振りかえり、そこに予期せぬ軍服姿の夫の姿を見つける。
二人はしばし黙って見つめ合い、そのあと互いに歩み寄って、かたく抱き合うのである。
一一もちろん、このしばらく見つめ合うという「間」が、実に素晴らしい。
「Wikipedia」にも、このシーンは、次のように紹介されている。
『第二次世界大戦に従軍して戦地から帰還したワイラーはプラザホテルで妻と再会した際に、長い廊下の向こうとこちらから自分と妻が近付いていった時の感動を覚えており、その光景をアルがミリーと2人の子供が待つアパートに帰って来るシーンで再現した。アルが玄関のドアを開き、ミリーが奥の部屋から「誰なの?」と尋ねるが、アルを出迎えた子供達は興奮して叫びそうになるのをかろうじてこらえている。映画監督のウィリアム・フリードキンはこの直後の夫婦が再会を果たした瞬間の描写について「彼女は本当に身動き一つしない。何も言葉を発していない。私が今までに見てきた中でも最も美しい家族愛のシーンの一つだ」と評している。テレサ・ライトはマーナ・ロイに「あのシーンには真実の愛があった」からこそあれほど感動的なシーンになったと思うと話しているが、ロイ自身も後年に「2人はベッドに入るのが待ち切れないくらいだったのよ」と迫真の演技の秘訣を語っている。』
(Wikipedia「我等の生涯の最良の年」)
だが、私がここで、ひとつ付け加えておきたいのは、父母の抱き合う姿を、目に涙を浮かべながら感動的に見つめる娘ペギーのバストアップが、そこで何度か挿し挟まれるのに対し、息子ロブの方は、その姉の背後でやはり父母の様子を見つめながらも、父の荷物を手にしながら俯いていたりして、その表情は映されない点だ。
私はこれを、息子が父母の姿に感動して、泣きそうになりながらも、男の子としての照れから涙を隠そうとしているのを、それとなく伝えるカメラアングルであり、息子役俳優の演技であったと理解する。だからこそ私は、このシーンのカメラアングルとモンタージュに感動し、その演出が素晴らしいと感じたのだ。
一方で、娘の感動は素直にわかりやすく描いて見せ、息子の感動は隠しながら描いてみせるという、この複層的な描写によって、この感動のシーンは、単に「夫婦の再会」のシーンではなく、「家族の再会」のシーンとして、類を見ない美しいものになっているのである。

ちなみに、この後、父親のアルが息子の部屋に行って、戦場みやげとして「日本刀」と「必勝祈願の寄せ書きが入った日の丸の旗」を手渡すシーンがある。
父親としては、いかにも男の子が喜びようなものをみやげにしたつもりだったのだろうが、息子は、どこか困惑を隠せない様子でそれを受け取りつつ、父に「原子爆弾」のことを尋ねる、という意外な展開をみせる。
「原爆」が大変な殺戮兵器であり、日本の民間人に多くの犠牲者を出したということ、そうした最終兵器が廃止されなければ、いずれ人類が破滅することになるだろうということを学校で教えられ、息子はそれに心を痛めていたのだ。
だから、日本との戦争から帰った父に「原爆」のことを尋ねたのだが、今度は父の方が、祖国の様子が戦前とは違っていることを感じて困惑し、「私は、それを見ていないし、何の情報も与えられていなかったから、わからない。むしろ、後方の方が、そうした情報には恵まれていたんだろうな」と、お茶を濁して誤魔化すのである。
また、皮肉なことに、本作が2年後の1948年に日本で公開された際には、この「原爆」に関する父息子の会話が、次のような事情で削除されていた。
『アメリカ映画で原爆に触れた最初の劇映画とされるているが、1948年の日本初公開時、米軍占領下で報道管制があったため、米国に帰還した軍人の父親(フレドリック・マーチ)に息子が広島の被爆者の状況を尋ねる場面(2分間)はカットされた。』
(Wikipedia「我等の生涯の最良の年」)
ある意味では「アメリカの良心」と呼んでも良いようなシーンであり、決して日本人の感情に反するものではないにも関わらず、「占領政策」ゆえの「臭いものには蓋」的に、この歴史的に見て、かなり重要なシーンは削られてしまった。
そして残念ながら、この「占領政策」と同様の「配慮」が、その後のハリウッド全体に課されるようになっていったのである。
本作のタイトル『我等の生涯の最良の年』(The Best Years of Our Lives)は、当たり前に考えれば「戦争を終えて家に戻れた年」という意味での「最良」だということになるのだろう。
だが、皮肉なことには、アメリカ映画史的に見れば、ハリウッドが戦勝後の一瞬だけ「良心と思いやりを取り戻した、最良だった年」だったと、そう考えることもできるのではないだろうか。

(2025年6月4日)
○ ○ ○
● ● ●
・
・
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
○ ○ ○
