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コーエン兄弟 『ファーゴ』 : 「人間はおかしくて、哀しい」

映画評:ジョエル・コーエン監督『ファーゴ』1996年/アメリカ映画)

独特の味わいがある、とても面白い作品である。
ただ、「面白い」と言っても、当たり前にエンタメ作品的な意味での面白さではなく、あくまでも、その「独特の味」が面白いのだ。これはもう、見てもらうしかない種類のそれである。

実のところ、私は今回、誤って再鑑賞することになってしまった。まだ見ていないと思っていたのだが、見ると間違いなく以前にテレビで見ている。

本作は、公開された年に大変評判になった作品だった。また、その頃の私は自覚的な「ミステリ(小説)マニア」だったので、必ず本作を「見なければならない」と、そう考えて、いつかの段階で、本作を見ていたのである。
一一ところが、それをいつの間にか「まだ見ていない」と思い違いしてしまっていたのだ。

で、そんな思い違いをした理由というのは、再鑑賞してみて、なんとなくわかる気がした。
一一どういうことかと言うと、本作は「筋(ストーリー)」自体はどうということはないのだが、登場人物たちの造形がとてもユニークなのだ。
だがまたそれは、コメディ映画によくあるような、誇張されていて「わかりやすく変」というのとは違い、「リアリティのある変」さであった。
だから、登場人物の「変」さは楽しめるものの、「筋」自体はどうということもないものだから、全体としては明確な印象が残らなかったのだと思う。

(事件前の誘拐犯二人組と寝た、若い売春婦の二人。マージ署長に事情聴取を受けるが、いかにも「いそうな」バカっぽい喋り方)

たとえば、アガサ・クリスティー原作の「本格ミステリ」映画であれば、その「トリック」や「特殊な舞台設定」が印象に残るから、その点で「見た」という印象が残りやすいのだが、本作『ファーゴ』の場合は「全体に変」だから、個別シーンの印象などが、かえって残らない。
本作で例外的に印象に残るシーンと言ったら、誘拐犯の片割れが、殺した共犯者の遺体(下肢の部分)を木材粉砕機(ウッドチッパー)にかけて処分しようとしている、最終盤のワンシーンくらいだろう。

そんなわけなので、本作『ファーゴ』のストーリー紹介は簡単に済ませて、本作の特徴であり美質である「独特の人間描写」の方を分析したいと思う。

なお、本作は、

『同年度のアカデミー賞では作品賞を含む7部門の候補となり、そのうち主演女優賞、脚本賞の2部門で受賞した。その他にもカンヌ国際映画祭監督賞、英国アカデミー賞監督賞など受賞多数。インディペンデント・スピリット賞では作品賞や監督賞を含む、候補になった6部門全てを受賞すると言う快挙を成し遂げた。日本では1996年度のキネマ旬報外国語映画ベスト・テン第4位にランクインした。』

(Wikipedia「ファーゴ」

という、華々しい評価を受けた傑作である。

 ○ ○ ○

本作『ファーゴ』の「あらすじ」は、次のとおり。

『厚い雪に覆われるミネソタ州ファーゴ。多額の借金を抱える自動車ディーラーのジェリーは、妻ジーンを偽装誘拐して彼女の裕福な父親から身代金をだまし取ろうと企てる。ところが誘拐を請け負った2人の男が警官と目撃者を射殺してしまい、事件は思わぬ方向へ発展していく。』

映画.com「ファーゴ」より)

映画の冒頭には、

「本作は、実際の事件をもとにした作品だが、関係者の希望により氏名等は変えてある」

という趣旨のテロップが出る。
だが「Wikipedia」よると、『これも演出の一つで、実際には完全なフィクションである。』とのこと。
参考にした事件は存在するようだが、本作はあくまでもオリジナルストーリーのフィクション作品だと考えるべきだろう。

さて、本作に登場する主たる人物は、次のとおりである。「ストーリー」よりも、こちらの方が重要なのだ。

登場人物・キャスト

(1)マージ・ガンダーソン
フランシス・マクドーマンド
ブレーナード警察署の署長。臨月の妊婦。卓越した捜査能力を持ち、管轄内で起きた殺人事件の真相を追う。

(2)ジェローム・“ジェリー”・ランディガード
ウィリアム・H・メイシー
自動車販売店の営業部長。小心者で、自身が勤務する自動車販売店を経営する義父(妻の父親)には頭が上がらない。多額の借金を抱えており、妻の狂言誘拐を計画する。

(3)カール・ショウォルター
スティーヴ・ブシェミ
誘拐の実行犯であるチンピラの片割れ。口数が多く、自身を大きく見せているが実は小物。次第に暴走していく相棒のゲアに振り回される。劇中に登場する複数の人物に「変な顔」と称される。

(4)ゲア・グリムスラッド
ピーター・ストーメア
誘拐の実行犯であるチンピラの片割れ。無口で大柄。人を殺害することに全く躊躇がない異常者で、突発的な理由で次々と殺人を繰り返していく。

(5)ウェイド・グスタフソン
(ハーヴ・プレスネル)
自動車販売店を経営するジェリーの義父。やり手の経営者で非常に裕福。頼りにならないジェリーのことは軽く見ている。

(6)ジーン・ランディガード
(クリステン・ルドルード)
ジェリーの妻でウェイドの娘。夫や父とは違い、優しく素朴な性格。夫が計画した狂言誘拐の被害にあう。

(7)スコッティ・ランディガード
(トニー・デンマン)
ジェリーとジーンの息子。反抗期で両親に対しても反発的な態度を取っていたが、母が誘拐されてからはその安否を心配する。

(8)シェプ・プラウドフット
(スティーヴ・リーヴィス)
ジェリーが勤める自動車販売店の整備工。ジェリーに誘拐の実行犯としてゲアを紹介する。麻薬で仮釈放中。

(9)ノーム・ガンダーソン
ジョン・キャロル・リンチ
マージの夫。売れない画家。

(10)マイク・ヤナギタ
(スティーヴ・パク)
マージの学生時代の同級生。突然マージに連絡してきて、彼女と再会の約束をする。

(※ Wikipediaの「登場人物・キャスト」に、番号を振るなど手を加えた

まず(1)が、探偵役の警察署長マージである。飄々としており、警察官としては有能。
いわゆる「名探偵」的な「神のごとき名推理をする」というわけではなく、警察官としての王道捜査を的確に進めて、最短距離で事件を解決に導く。
注目すべき点は、警察官らしく「必死で事件を追う」というのではなく、「日常業務」的に淡々と捜査を進めていくタイプであり、その点で飄々としているのだが、決して「変わり者」などではなく、警察官らしくないほどの一般人的な「常識人」である。

(2)ジェリーは、小心者のくせに、「狂言誘拐」事件を計画して、みずからドツボにハマってしまう愚か者。

(事件の元凶、ジェローム・“ジェリー”・ランディガード)

(3)(4)「カールとゲア」コンビは、金欲しさから、ムショ仲間だった(8)の仲介で、(2)ジュリーの依頼を受け、「狂言誘拐」の実行犯となる「前科者」の二人。
要は、タイプは違えど、二人とも、人並みの良識や良心などというものを持たない、自己中心的な根っからの犯罪者だ。

カールとゲアの二人。後ろの車は、犯行用としてジェリーに提供させた新車)

(5)は、(3)ジェリーの義父だが、小物のジュリーを見下しているとはいえ、成功者としての傲慢さと自信過剰が鼻につく、独善的な頑固親父である。

(6)は、(3)のジュリーの妻で、ごく当たり前の、気の良さそうな奥さんなのだが、狂言誘拐とは知らされていなかったために、酷い目にあって最後は殺されてしまう、見ていて痛々しくなる可哀想な人物である。セリフはほとんどなく、ただ悲鳴を上げて逃げまわったり、拘束されてもがいたりという哀れな姿が描かれる。

(7)は、ジュリー夫婦の息子。登場時は生意気な少年だが、母が誘拐されてからはその安否を気遣う「普通の子供」

(8)は、上の説明どおりだが、「カールとゲア」の二人組(3・4)が、事件を大ごとにしてしまったために、仕事を仲介した自分までもが執行猶予を取り消されそうになって激怒し、カールに乱暴を働く、典型的な「粗暴犯」タイプの男である。

(9)は、(1)マージに食わせてもらっている「髪結いの亭主」だが、マージはそんな生活感のない芸術家肌の夫から安心感を得ていて、夫婦仲は極めて良く、お互いに愛し合っている。

(10)は、「筋」にはほとんど関係ないエピソードの登場人物だが、その存在意味は、次のようなことであるらしい。

『この映画では、登場人物全員が露骨なミネソタ訛りを話す。また主人公マージの同級生である「マイク・ヤナギタ」という日系人とのシーンは、一見するとストーリーになんの関係も無いように見えるが、この人物の振舞いは"ミネソタ・ナイス"の典型である。アメリカでは、中西部北部/ミネソタ州の人間が、人付き合いが良く外交的で他人に優しい気質を持つが、実際は他人との対立を回避する目的で偽りの善意を装い、裏では他人を卑劣に攻撃するようないわゆる受動的攻撃性を持つことを自虐的に表してこう呼ぶが、マイク・ヤナギタのシーンはこのようなミネソタ州の人間の特質を捉えているだけでなく、映画のクライマックスに影響を与えるマージの視点の変化を、観客に暗示している。』

Wikipedia「ファーゴ」

(ひさびさの再会を喜ぶも、最初は調子の良かったヤナギダは、途中から「最近、最愛の妻を亡くした」と泣きはじめ、マージの同情を買おうとする)

さて、以上の「登場人物紹介」からわかるのは、登場人物の大半は「現実にしばしば見かけるタイプの人間」だ、という点である。

(2)のジュリーはもとより、その家族である(5)(6)(7)も、若干の「誇張」はあっても、まあ「よくいるタイプ」であり、それはマージ署長の夫(9)も同様だ。
(10)については、誇張が強めだが、しかし、これも「Wikipedia」の説明どおりで「ミネソタ人」の「あるある」的な人物だ。

犯罪者である(3)(4)(8)も、犯罪者として、特に「頭が良い」わけでもなければ「狡猾」だというわけでもない。単に「自分のことしか考えていなくて、粗暴で無計画」といった「必ず捕まるタイプの犯罪者」。
つまり、「ミステリ映画」に登場する、怪物化された「残虐かつ有能な犯罪者」とは違って、とても「リアルな犯罪者」だ。

このように見てくると、登場人物のなかで、「現実によくいるタイプではない」のは、意外なことに、「常識人」である主人公のマージ署長だけだということになる。

では、飄々としてマイペースの「常識人」であるマージが、どうして「よくいるタイプ」には見えないのかというと、彼女は「警察官」らしくなさすぎる、のである。

本作では、(3・4)の「カールとゲア」コンビを職務質問しようとした警察官が、まずゲアに射殺され、さらにそこを通りがかった無関係な一般人2人もゲアに射殺されてしまう。
また、(2)のジュリーが手筈どおりに、(3・4)の「カールとゲア」に「身代金」を渡しに行き、その一部を謝礼として渡す手筈だったのに、(5)の義父が「おまえなどには任せられんから、わしが行く。いざとなったら、犯人を撃ち殺してやる」などと息巻いて、止めるのも聞かずに出ていった結果、逆に、小心なカールを激怒させて、射殺されることになる。
また最終的には、誘拐されたジュリーの妻(6)も殺され、(3)の共犯者カールも分前を巡って、(4)のゲアに殺されるしまう。

つまり、警察官を含めて「6人」もの人間が殺されるわけで、田舎町には滅多にない凄惨な大事件であるにも関わらず、マージ署長はまったく動じる様子もなく、むしろ「飄々」としており、最後まで「平常心」を保ったままなのだ。
一一それが、本作中で唯一「不自然」なのである。

では、どうしてジョエル・コーエン監督は、あるいは、監督の実弟で、本作の「脚本」を書いたイーサン・コーエンは、マージをこのような人物に描いたのだろうか?

こうしたマージの「不自然な、まともさ」が特に印象的だったのは、物語のラストで、最後に残った「誘拐殺人犯」ゲアを一人で逮捕し、自分のパトカーの後部座席に乗せて、自らの運転で警察署まで搬送しながら、無口なゲアに向けて発した、次のような問いだ。

「どうして、あんな無茶なことをしたの? わからないわ。私には全然わからない」

私は、マージのこのセリフを聞いて、「そんなの、こいつらが何も考えずに、衝動的に行動する、犯罪性格者だからに決まっているじゃないか」と、そう思ったのだ。

私自身、大した仕事をしてこなかったとは言え、40年間警察を務め上げた人間だから、犯罪者の多くは「そんなもの」だという「リアル」を、嫌というほど知っている。
こうした種類の犯罪者に「なぜ、そんなことをしたのか?」と尋ねて、「常識人が納得できるような回答」など、返ってくることはない。

つまり、彼らの多くは「こうなったら嬉しいから、これをしよう」と短絡的に考えて行動することが多く、「しかし、不測の事態が起こったらどうしよう」とか、そういうことは、あまり考えないのである。

例えばだが、私の下の記事のコメント欄を「荒らし」に来た、自称「糞リプマン」という人は、逆に私に絡まれ、退くに退けなくなってしまい、自分の記事のコメント欄で、私に延々と揶揄われるという「本末転倒」した事態に陥ってしまった。

そして、そんな「想定外」の事態に腹を立ててはいるものの、私から「貴方は頭が悪んだから、本くらい読んだら」などと言われると、わかりやすく見栄を張ってハンナ・アーレントが愛読書だ」などと言い出し、それで余計に私から馬鹿にされる始末。そのため、意地でも私のことを「読書家だとは認めたくない」状態になっている

(私から「本当にアーレントを読んでいると言うのなら、自分の本棚の写真をアップして見せろ」と挑発され、しばらくしてアップされた「糞リプマン」さんの本棚と称する写真。なぜか、私が批判している北村紗衣の著作も並んでおり、いかにも急拵えの感があり、私に「ブックオフで買い揃えたのか」と揶揄われ、その結果、のちに「ブックオフへなんか行かない。近くに図書館がある」と自供することになるが、この写真には図書館本は1冊しかないという不自然さ。新刊も古本も買わないのなら、これらの本は「盗んだのか?」と、また私に揶揄われる)

だが、私の日々アップしている記事を見れば、私が読書家であることは否定しようもないのに、それが認められなくて、子供のように「おまえがエア読書家」だと、おうむ返しに言い募る。

もちろん、知的にコンプレックスがあるからこそ、私が読書家だという事実を認めたくないという「気持ち」はわかるのだけれども、私を攻撃し、否定したいのであれば、私が「読書家ではない」と言って責めるのは、あまりにも無理筋というものであろう。
つまり、普通の人であれば、私を責めるにしても、私が「読書家」であるという事実は認めた上で、その「中身」を否定するというのが、当たり前のやり方なのだ。
本を読まない「糞リプマン」さんには、それが困難だとしてもだ。

しかし、この種の「犯罪性格者」というものは、そこまでは「考えない」
つまり、自分が認めたくない現実は、ただ闇雲に「そんな事実はない」と「否定」しようとし、そうした「子供っぽい身振り」が、「第三者の目に、どのように映るか」までは、考えが及ばないのである。

例えば、気に入らない奴は「殴る」、邪魔者は「殺す」というのと同じで、「そんなことをしたら、その後、自分はどのような立場に立たされるか」までは考えないで、条件反射的に言葉を発したり、行動したりしてしまうのだ。

具体的にいえば、私は先日、

『本の体裁としても、菊版(小説単行本などの四六版よりひと回り大判)の2段組みで、500ページを超える大冊なのだ。定価も、1万円超え』

という大冊を読んで、全3回の記事を書いた。それが、次のものである。

で、この記事を「見た」、「糞リプマン」さんが、何を言ったかというと、こうである。

糞リプマン
> 2025年6月10日 03:22
「ポジショナリティ」
> これ、本当に読んだのか?

糞リプマン
> 2025年6月10日 03:25
> 東京ですら7館しか蔵書してない
> 国会図書館と大学などを除くと3館
> お前の住んでる大阪だと府立のみ。

糞リプマン
> 2025年6月10日 03:27
> 語句を調べたけどお前明らかに歪曲してるよな

糞リプマン
> 2025年6月10日 03:28
> 10450円もする本を買ったとも思えん

(糞リプマンの記事「年間読書人の「無理ゲー」」のコメント欄より)

わざわざ、図書館の所蔵状況まで調べてくれたのだ。
じつにご苦労なことだが、その暇があれば、薄い本の1冊でも‥‥‥と、そう奨めても無駄である。

私が、普通の人は読まない「大部の専門書」を読んだという事実が、「糞リプマン」さんには、どうしても認めがたかったのだろう。
その気持ちもわからないではないが、

10450円もする本を買ったとも思えん

とは、ほとんど笑ってしまうような、言い草ではないか。

自分が、ほとんど活字の本を読まず、仮に読むとしても、「図書館利用者」を自称し公言する人だから、「10450円もする本」を、自分の嫌いな人物(年間読書人)が、買ったなんて思えない、思いたくないという気持ちも、まあ、わからないではない。

しかしながら、私は「初版本コレクター」だった人間であり、長年、毎月新刊書の購入に10万円以上の金を遣ってきた人間だと、記事に何度も書いているのだから、そんな本馬鹿なら、1万円越えの本を買っても、別段不思議なことではないのだが、それでも「自分の視点」や「価値観」でしか物事の見られない「糞リプマン」さんは、「そんなこと信じられない」ではなく、「そんなこと、あり得ない」と、そう「願望充足的」に考えてしまうのである。

ちなみに私は、時価50万円を下らない、夢野久作ドグラ・マグラの初版本(昭和10年刊)を今でも所蔵しているし、最近では、四方田犬彦の新刊『ゴダール、ジャン゠リュック』のような「税込9,900円」などを、読むための本として購っている。

もっとも、こういう高価な本も、昔は「新刊」で買ったが、最近はもっぱら「ブックオフオンライン」に登録しておいて、ワンクッションおいて買ってはいる。とはいえ、半額になるというわけではない。

例えば、前述の、池田緑『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』(勁草書房)もそうで、税込の新刊定価で買えば「10450円」だが、「ブックオフオンライン」に入荷があってから買っても「7,480円」した。
これは、もともと右から左に売れるような種類の本ではないからこそ、むしろ中古価格が比較的安い方なのだが、いずれにしろ「7,500円」の本を買う者などそういない、という事実に変わりはないのだ。

ま、そんなわけで、

10450円もする本を買ったとも思えん

と言いたくなる気持ちはわかるのだが、しかしながら、仮に私が、同書を読まずに上の3本のレビューを書いたのだとしたら、それはむしろその方が、「天才」だということにしかならないだろう。

だから、私のレビューを読んだ人は、私の「読み」の的確さを疑うことはあっても、「通読した」という事実は、決して疑わないはずなのだ。

ところが、「糞リプマン」さん場合は、「自分が、買いもしなければ、決して読まないような大部の専門書」を、憎っくき「年間読者人」が「買って・読んだ」とは、どうしても「思いたくない」
思いたくないから、その「現実」を無理矢理にでも「否定」しようとしてしまう。

しかし、こんな「無理筋の否定・否認」をすれば、自分の方が、他の人から「この人、無茶苦茶だな」と見られてしまうのだが、その「リスク」が発生することにまでは、「糞リプマン」は思い及ばないのである。

つまり、「視野の狭い犯罪性格者」というのは、「目の前のこと」や「自分が見たいと思っていること」しか見ないために、しばしば自ら墓穴を掘ってしまいがちなのだ。自分で掘った穴に、自分で落ちてしまう

だから、それが「刑法に触れる犯罪」だった場合には、おのずとその「穴だらけの行動」によって、警察に捕まる蓋然性も高くなるのである。
(4)のゲアが、やたらに人を射殺して(3)の共犯者カールを「なんてことしてくれたんだ!」と嘆かせたのと、同じことなのだ。

(身代金を渡しに来たジェリーの義父を射殺するも、カール自身も顔に軽傷を負う。奪った金の一部を抜き取って、雪の中に埋めて隠し、残りの金をゲアの待つアジトに持って帰って「山分け」をするが、犯行に使った車を、カールが「治療費がわりだ」と言って持ち去ろうとしたことから、ゲアはカールを殺す)

たしかに、「警察官に職務質問され、誘拐がバレそうになったから」「その警察官殺しを見られたから」「誘拐被害者がおとなしくせず騒いだから」あるいは「カールが、自分より多めに分け前をせしめようとしたから」殺したというのも、凶悪犯罪者の行動としては、わからないものではない。
しかし、彼は「殺しは割に合わない」ということを、一度たりとも考えることはなく、目の前の事象に対し、感情の赴くままに行動してしまう

要は、彼はそういう「わかりやすい犯罪者(犯罪性格者)」なのである。

で、話を戻すと、上のような事情からすれば、警察官として極めて優秀であり経験豊かなマージ署長が、ゲアに向かって「なんで、あんなことをしたのか理解できない」と漏らすのは、一一いかにも「不自然」なのだ。

頭がよく経験豊かな彼女なら「常習犯罪者」というのは、しばしば「そういうものだ」というくらいのことを知っていて当然なのに、なぜか彼女は「素人」っぽい「うぶな感情を持ち続けている」のである。
一一これは、なぜなのだろう?

私はその解答として、監督らが描きたかったのは「普通の人間の奇妙さ(変さ)」であって、「特殊な人間」を描きたかったのではなかったからだと、そう考える。

つまり、「奇妙さ(変さ)を抱えた普通の人間」というものを描くために、その「奇妙さ(変さ)」を際立たせる「視点」として、「完全にマトモ」なマージ、という「不自然」な人物を、意図的に設定したのではないだろうか。

本作の、予告編キャッチコピーは、

「人間はおかしくて、哀しい」

というものなのだが、この「おかしい」というのは、第一義的には、「笑える」という意味ではなく「変だ(奇妙だ)」という意味であり、その結果として、ブラックユーモア的に「笑えないでもない」という「おかしさ」を持つことにはなろう。

しかし、人間はしばしば、不思議なほどに「愚か」だからこそ「おかしい(笑える)」のだとしたら、その「おかしさ」とは、やはり「哀しい」ものでしか、あり得ないのである。

(マージが警察署長を務めるブレーナードには、巨人「ポール・バニヤン」の伝説が残っている)


(2025年6月14日)



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