#214 もふもふストーリー
人間が生まれ持つ固有のベクトル、あるいはその後の行動を縛る初期条件のようなものは、往々にして抑圧や制約への反発として後に現れる。私にとってのそれは、「もふもふ」と一般には形容される、質量を感じる毛皮に対する執着だった。
最初の問題は、その嗜好が極めて長い間、公に認められなかったという点にある。子供の頃、我が家において動物やぬいぐるみは明確な禁忌であった。理由は至ってシンプルで、私が重度の喘息持ちだったからだ。ハウスダストや動物の毛は、呼吸器系を簡単に閉塞させてしまうリスクそのものであり、生活環境から徹底的に排除されるべき因子だった。つまり、もふもふしたものとは、私にとって「一番好きで、かつ一番存在を許されないもの」という矛盾のアイコンだった。
そんな中、最初のもふもふは、ある種のエラーのように私の生活に入り込んできた。小学校の遠足か何かのおみやげ屋で、私はどういうわけか、軽くもふもふしていた、モモンガのぬいぐるみをうっかり買ってしまったのだ。単に欲しかったのだと思う。
当然私の体には、何らかの不具合が起きるはずだった。しかし、当時の私はぬいぐるみがあろうがなかろうが、しょっちゅう喘息の発作を起こしていた。皮肉なことに、日頃から何に反応しているのか分からないほど発作を繰り返していたせいで、モモンガが真の犯人なのかどうか、誰にも判別がつかなかったのである。
結果として、私はそのぬいぐるみを「堂々と、しかしこっそりと」自室に隠し持つことになった。家族の目がないときは、ひとり静かにそれを手に取り「ももーん」、「がー」と、想像の中のモモンガの鳴き声を真似しながら、部屋の空間を飛行機のように飛ばして遊んだ。当時は動物の鳴き声なんて簡単に調べられるものではなかった。あのぬいぐるみは、おそらく今も実家の押し入れのどこかで、じっと息を潜めているはずだ。
最初の禁忌がモモンガというエラー起因の例外だったとするなら、二番目のもふもふは、あちらから我が家に突然やってきた。
高校2年の冬のことだ。どこから迷い込んだのか、お腹の大きな黒ねこが我が家に侵入し、あろうことかクローゼットの奥で子ねこを3匹出産したのである。
真っ黒、牛柄、そして、虎ねこ。
突然目の前に現れた、圧倒的な生の質量をもつ毛玉。喘息という身体的な制約はまだ治癒していなかったが、そんなリスク管理はどうでもよくなるくらい、生まれたての子ねこたちは猛烈にもふもふしていた。理性が引いた境界線を、生命の感触が軽々とオーバーフローしていく。私はそれからの1年間、実家を離れる最後の瞬間まで、彼らと濃密な時間を過ごした。喘息の発作の記憶よりも、彼らの体温や毛ざわりの記憶の方が、はるかに鮮明に脳裏に焼き付いている。
大学進学によって物理的な距離が離れてからも、私の内部で動き出した傾倒は止まらなかった。長期休暇のたびに実家へ帰還してはもふもふを補給し、日常に戻れば飢えをしのぐように、ねこグッズを蒐集した。「ねこまみれ」という言葉から適当に切り取った「ねこま」という仮初めの名前を名乗り始めたのも、この頃のことだ。
それ以来、我が実家にはずっとねこ達がいる。ヘッダー画像に入れたのは、数年前の我が実家のソファーの上だ。見えるだけで6匹。人の座る場所はない。

ここ最近のお気に入りはこの子だ
庭においてあるベンチの上でごろりん
そして現在、私の興味の対象は「たぬき」という未知の領域へと至っている。
きっかけは、一本の漫画に描かれた描写だった。一見して、だめそうで、弱そうで、そのくせどうしようもなくもふもふしている。この「脆弱性と体毛の豊かさ」の組み合わせは、私の好みの回路に対して完全に反則的な挙動をもたらした。
たぬきを調べ始めて驚いたのは、日本の野生動物でありながら、意外にも近所の一般的な動物園にはたぬきが常設展示されていない、という事実だ。なんなら上野動物園にはたぬきはいない。彼らに出会うためには、事前の綿密な下調べと、明確な目的地設定が必要になる。
だが、現在の私はその手間の発生を、全く苦にしていない。むしろ、どの動物園にどのような個体が飼育されているかを自分なりに整理し、会いに行くプロセスそのものを楽しんでいる節すらある。もふもふの質量を鑑賞するためなら、大人のリソースなどいくらでも投入できる。
ちなみに、たぬき愛が昂って書いたのがこの記事だ。我ながら愛が過ぎると思う。
モモンガから、ねこへ。
ねこから、たぬきへ。
一見すると、私の興味の対象は時代とともに変遷しているように見えるかもしれない。しかし、少し引いた視点から眺めてみれば、やっていることは子供の頃から何一つ変わっていない。
その証拠が、あの名前だ。ネットワークの世界を泳ぐための、ほんの仮初めのつもりだった「ねこま」というアカウント名を、気づけば30年も使い続けている。環境が変わり、役割が変わり、ライフステージが移行しても、その名前に刻まれたもの、すなわち「もふもふ」への好意だけは、摩耗することなくあり続けた。仮初めのはずのものが、いつのまにか本体を規定してさえいる。
自分の嗜好に、禁忌だとか回帰だとか、後付けの小難しい意味づけをしたくなるのは、認知の癖に過ぎないのだろう。あらゆる理屈を剥ぎ取った後に残る核心は、驚くほどシンプルだ。
私は、ただ、もふもふが好きだ。これまでも、これからも、その事実だけが、私の世界の最も深い場所で、静かに肯定されている。
あと、たぬき漫画と言えば、他にもこの辺りを押さえると良いだろう。
