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【あとがきでBL】宇宙人ポール【noteでBL】


ご挨拶

皆様ごきげんよう、四四田です。

毎月、主宰であるなみさんのくじ引きで決まる、
クレイジーな三つのお題で書かれた、
多種多様なBL(ブロマンス)作品が一堂に会するのを楽しめる企画、
noteでBL。

昨日はその投稿日、でした。

四四田の提出物はこちらです💁‍♀️

久しぶりにコングラボードをいただきました✨



noteでBL、今回のお題は、

「ふと、振り返るとそこには」を書き出しにした
「過去回帰や回想無し」の
3000〜5000字のブロマンス〜BL小説

でした。

あと、個人的に「振り返った先にいたのは宇宙人ポール」という縛りを頂戴しておりました。
いやあ、難しかったですねえ

総勢なんと19名(!!!!)という、大所帯になった今回の参加者による作品たちは、いつもどおり、なみさんがアンソロジーとしてまとめてくださっています!

どうぞこちらもお楽しみください!
なみさん、いつも本当にありがとうございます。

というわけで、あとがき記事です。

お題について

今回は、
『同じ書き出しで書く』という、ちょっといつもと違うお題の形式になっていまして、より一層アンソロジー感ができてすごく素敵なお題だったなあと思っています。

とはいえ、難易度高めに感じたのは何しろ「過去回帰や回想無し」というお題。

なんというか、自分が創作をするにあたっての時間概念をどういう風に持っているのか、に対して意識的にならざるを得ないというか。
今、主人公:一人称視点を持っている存在は、
“どこ”に立っているのか。
を、ものすごく考えました。

今、僕らは何処にいるのか。

例えばなんですが、作中“現在進行形”で物語を書き出していても、途中の場面転換で、
《ということがあって、》
とか書いたら、書いた途端にそこまでの前段は過去回帰に該当するものになるのでは?

などと考えてしまって。
現在進行形が連なって場面転換をするとしても(そして実際そうしたのですが)、その都度過去扱いをするのか、過去回帰になるならないの線引きはどこにあるのか、とかをものすごく意識しました。
こんなに“今現在”を考えながら書いたのはなかなか無い気がする。
手探りながら凄まじいエクササイズでした。

僕自身そんなに普段から過去回帰を駆使するタイプじゃないつもりなので、多分普通に意識しないで書いたら逆に易々とお題に沿った話を書けたのかもしれないなあ、とは思います。
でもね、考えちゃったから。

「バナナについて考えないでください」
という声掛けをすると、バナナのことを前提にして考えてしまって、結局“考えない”ということはできない、という話を聞くけれど、そういう状況というか。

宇宙人とは

そして個人的に追加してもらってしまったお題が、
「宇宙人ポール」という存在を絡めるというお題。
これは、コメントへの僕の書き込みがきっかけになって、なみさんよりいただいた追加お題でした。

これもなかなか考えさせられました。
もうひとつ、示唆されたのが「SFコメディ」というものだったのですが、そっちには振り切れなかったと思います。コメディ難しいです。

コメディにはできなかったけれど、SFを書いてみるとして。

ではSF世界では宇宙人を「宇宙人」と呼ぶのだろうか?という。
それってなんだか不躾じゃないだろうか。

同じ国の同胞ではない人種を、雑多なひとくくりで「外国人」と呼ぶのは、地続きで他国の人間が日常的に通り過ぎる、大陸文化には無い風潮で、とても島国らしい感覚である、
とする説を、以前どこかで見かけたことがあるのですが。

それはなんだか日本人の“ノリ”の中にあるものかもしれないなあ、となんとなく納得がいくものでした。

まあ、島国には島国の研鑽と努力があるので、逆を言えば大陸ノリで、ああしろこうしろ言われても諦めていただきたい、という気持ちはあるのですが。
とはいえ、この無自覚に“わたくし”と“それ以外”という内外へのわりときっちり引いた線みたいなものが、おおらかに内外の交流を果たす側からすれば、とっても排他的に見えてしまうのかもしれないよな、などと思ったりして。

つまり、そういう観点から“宇宙人”という雑多なひとくくりは、
各々生まれ育った星が違うだろう人たちが、
地球上の“外国”なんかよりもよほど広く大きなものの中からやって来る(かもしれない)と考えたときに、
それはSFという、“宇宙人”が地球に来るのが当たり前、の世界設定であればこそ、なおのこと使えない語句になっていくんじゃないだろうか。

また、それはそれとして、もうひとつ検討しましたのが、
宇宙人だからといって、本当に別惑星の人種、を登場させる必要があるのか。

我々は、ちょっと変わった人間を指して「まるで宇宙人みたいだ」などと言うことがあるのだから、まるで宇宙人みたいな、地球出身の日本人なんかを出して、SFの欠片もない現代劇を構築することもできるんじゃないだろうか。

色々考えた結果。

いやいやSFで宇宙人なのに、宇宙人みたいな人間、にするのはあまりにも勿体なかろう、ということで、宇宙人を出す、ことにしました。

その上で、不躾であることを四四田自身が懸念してしまった語句“宇宙人”を出すのなら、それはもうそういう不躾な話にするしかない。

テーマは言うなれば、別々の立場から見る分断になるな、とこの時点で決まったような気がします(おいBLどこいった)


モチーフについて

ガザやイラン、ウクライナの戦争、エプスタイン事件、マンガワン、未曽有の大災害の日に捨てられる大量の赤飯。
間違いなく氷山の一角だろうに、いつの間にか影が薄くなっている大田区の無効票水増し。
組織票が動いたとして、その狙いが見えそうで見えない新興政党へ、真偽不明のまま愚痴のような追及は溢れ。
DV、性加害、虐待、モラハラ、ワンオペ育児の怨嗟と隣り合いながら、まるで無関係のように流れる、他者に選ばれることであがりになろうとする婚活サービスの宣伝。
客と店員の立場で微笑みかけられただけでストーカーと化すコミュニケーション不全。
多様性の暴論で脅かされる安全。
資本主義の顔をして、一部の既得権益だけが栄える低次元の社会主義。
起きた不都合と臭い物に蓋をしたがる小市民の心理をついて発展し続ける特殊詐欺。
人間が増えない前提に立てないでいる僕らの目の前で、だらだらと手をこまねいている内に溝が広がり続ける地域格差。
所詮自己責任と冷笑に煽られ誹謗中傷が渦巻く情報格差。

宇宙人を“宇宙人”という雑な解像度で見る人間を出すからには、と考えているうちに脳裏に浮かんだのは、
そんな、世間一般で騒がれているありとあらゆる分断と差異と、それに対する僕自身の名状し難い感情でした。

僕自身のイデオロギーのようなものは、実際問題とてもか細く小さいもので。
何しろ不勉強なので、何かを声高に主張はできないけれど、要は好きなことして平和に生きていくのがどう考えても是だよね。と思っている。

自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。

(僕は日本国憲法第14条と同じくらい、フランスの人権宣言第4条も好きだよ)


エッセイのような、ベースとなるリアルな出来事があるものではない。
完全に創作の小説で、そんな思索的アプローチを意識したことがなかったので、書いている間に作品そのものとは直接の結びつきのない思索をずっと繰り広げていたこと自体が、新たな挑戦と言えなくもない。

物語におけるメッセージ性というものについて。
僕は、読んだ人間が勝手に感じるのはいいと思うのだけれど。
メッセージ性を、書いている人間が意識をして要素として書き込むことには、懐疑的な立場を取っているほうだ、と思います。

創作、とくに小説について、僕はその小説世界の中での整合性が整っているべきだ、と思っていて。
メッセージ性への執着は、時にはその、守られるべき作品世界が、作者自身によって容易に捻じ曲げられる……かもしれない。

その物語に対して、作者はコントロール可能であるという支配構造。
アンフェアな状況を生み出す“可能性”があることが、あまり(あくまで個人的好みとしては、だけれど)好ましくはないので、よほど理性的に自分の思索への手綱を取れて、かつ、そのアプローチしたい思想の“メッセージ性”などという不安定なものを表現するのに、これ以上ないほど運命的にぴったりな作品世界があるのだ、という熱烈な確信が持てなければ、物語にメッセージ性をかぶせたりはできないな、と思うのです。
(そういった運命的出会いも無くは無いと思う)

作者自身の脆弱かつ間違っているかもしれない思想なんぞで、物語が毒され歪められてはならない。
僕は、おそらく作者自身よりも、物語のほうを尊ぶべきものとして考えている。

その上で、今回は思索的アプローチで物語を作ることにしてしまったので、ここに自己が意識しているメッセージ性を如何に入れずに、
それでいて、現実に起き得ることを写し取っていけるのか、というところを心がけていきました。

何を、どのように、書くのか

今、何を自分が読むのかと、今、自分が何を書くのかの、
根本的なところをカルチベートしたい、という気持ちは定期的に盛り上がるので、多分たまたまその時期なんだろうなというのもある。

これまで書いてきたものは大抵の場合、風景がまず見えていて、
僕は観客として目の前に見えている映画を映しとるだけ、みたいな書き方を基本的にはしているのだけれど、じつは今回は何も見えていませんでした。

ほとんど風景の無い、誰もいない空間に、現実世界の分断のリアルなエピソードだけが浮いていて、その散り散りに浮かんでいる情報の中で全く無関係の物語を「書く」という作業をする。
これに近い書き方をしたことは、これまでにも無くはないのだけれど、パーセンテージとしてはとても低いように思う。
難産と言えば難産だったかもしれない。

いかにモチーフとして現実世界が横たわっていても、
散々前述もしている通りで、
僕は作者たる僕自身の思考の範疇を大きく逸脱できない不完全な“解”を、物語の中に描写するのは、読み手に対する不完全な思想の強要になりかねないんじゃないかと思っている。

文学に許されるのは、あくまでも書き手からの示唆程度のもので、
文学の皮を被って、思想のアピールをするのは、多少卑怯なんじゃないか、と思っている(そういったものを何もかも否定したいわけではない。要は面白ければなんでもいいのだから)。

文学はあくまでも、独自の閉じた世界に納まるべきだ。
思想の強要の為の武器として使われる立場に甘んじてはいけない。
世界のサンプル、箱庭としてそこにあるからこそ、現実を生きる我々が、その箱庭からの、箱庭を逸脱しない発信に対して、個々の立場からの“解”を自由に持つことができる。

もちろん完全にフラットな状態の書き手なんていないし、
好き好んで創作に向かっている人間に、何も感想や思考が無いわけが無い。
だからそういった本人が信じていたり、愛していたりするものが、作品から感じ取れてしまうのは、もちろんそれこそが醍醐味だと思うので、有りだし。
要するに、すべてはバランス、ということかもしれない。

……ま、結局はなんだって構わないんですけれども。


上位存在と下位存在の分断

描くべき物語の映像が見えてこない以上いつものようなアプローチでは書けないと早々に見切りをつけて、
かなり自由に思考を動かすことに時間を使っていたら、結局、書き出すのが投稿日の前日となりました。
ここまでの思考をとにかく自由に漠然と散らせておいて、書く段になったら、そこから作品に使うべき上澄みだけを丁寧に掬い取っていくような気持ちで書きました。
なんか、書く、というよりはもうちょっと肉体労働的な作業をしているくらいの気分だった。

ほっこりした、という感想をいただけたのは嬉しかったです。
それも目指したところです。彼ら自身のやり取りは、的外れで、分かり合えなくて、それでいて小市民的に平和だと思う。

本編の最後にも書いたのですが、やってみたいと思ったのは、古今東西の物語にも出てくる、上位存在と下位存在の話です。わかりやすくそれを書こうとしている、ということが伝わればと思って《神隠し》という用語を挟んでみたりしました。
本当は、ああいう説明的な単語を置かなくても描ききれればと思うのですが、なかなか難しい。

ほっこり、を目指しつつも、あのやり取りを描いている時にずっと、脳内にリピートさせていたのはとにかく上位存在の搾取、です。

ジェントルな上位存在からの搾取の実態に、
下位存在が自ら気が付くには、
自分自身が下位存在に過ぎないことへの自覚抜きにはできないことで、
それは自尊心のある生き物にはなかなかできないんじゃないだろうか。

だから、対等だと信じていた相手が、自分を支配下に置けるだけの、場合によっては虐げられるだけの、構造的な何らかの“パワー”を持っていて、
自分は上位存在に支配される下位存在の側なのだ、ということに気が付くのが、
多大な、手遅れな犠牲を払った後である、ということは現実に置きがちなことだと思います。

そういう危険な状況に、作中の“僕”はいるんですよね。
だって、手を触れただけでその場にあるものを消滅させられる相手なんですから。今回無事だったのは、宇宙人の気まぐれなだけで。
くわえて、自分が今回見逃されたのだ、ということにこの期に及んで気が付いてはいませんので、彼がこの後も無事だとは思えない。
けれど今日この瞬間は平和です。

BL的には、上位存在宇宙人が、かなり捕食対象的なものとして、作中のバイトくんを意識しているところを、BLとして考えています。

作中小道具とイメージソースについて

作中に出てくるカップ&ソーサーは、イギリスの陶磁器メーカーの老舗《ウェッジウッド》の、コーヌコピア、というシリーズをイメージして書いています。とくに《キャン》型というコーヒー専用カップのイメージ。
すでに廃盤ではありますが、美しい柄です。
コーヌコピア=豊穣の角は、ギリシア・ローマ世界のもの、つまり多分に神話的モチーフなんですよね。
神的な上位存在の立場の暗喩にもなれば、と思って選びました。こういうの考えて盛り込むのが好きな四四田です。

宇宙人のビジュアルは一種の異形頭というか、
明確に誰の作品をイメージした、というわけではないのですが、コラージュ作品とかそういうものを脳裏に浮かべながら構築しました。

彼の顔が変わり続けるたびに声も変わっているんですが、
技術的なイメージとしては、彼らにはおそらく地球で活動するにあたって、地球上の様々なデータを収集していて、それを高速で変換しながら言葉とか見た目とかに出力しているんだと思うんですよね。そういう技術なんだと。

これは、現在使われている生成AI、人工知能の比喩のつもりもあります。

生成AIという人類の技術の進歩を否定する気はありませんし(僕自身ChatGPTは使ってみましたし)、
非常に便利、というか面白いものではありますが、
これまでの人間たちが作り上げた情報を大量に投入したものを動力源的に使っている現状は、下手な使い方をすれば、どこかからの借り物を集めて、その場しのぎのものを創り上げていくだけ、になってしまう懸念はあると思うのですね。
そういう「本当にこれは信じて良い言葉なのか?」という問いをひとまずこちらの心の中には置いておいてもいいんじゃないか。
そんな存在として作ってみました。
ただこれはあくまでも書いてる僕側の心構えであって、宇宙人ポールは宇宙人、なんですけれど。

あと、フランス映画「アメリ」の中で、
主人公のアメリがつぎはぎで仕立てた“とあるもの”が、劇中で披露されるときに、バックに流れている音が、全部違うんです。
(あまり言うとネタバレになってしまうので、ネタバレを避けて説明してみている)
バックに流れている、小川の音とか、教会の鐘とか、人の話し声とかは、アメリがつぎはぎにする前の元ネタのときの音で、それをつぎはぎで使っているから、それを表現するために、一気に色んな音がするんですね。
その場面も、イメージソースのひとつです。

宇宙人ポール

分断とズレ、ディスコミュニケーションを越えようとするちぐはぐなコミュニケーション、
対等だという勘違いの断絶と、
断絶さえ愛玩対象になる支配構造、
そういうものの、越えられない違いを、重くない形で作れたらなあ、と思って書いたのが宇宙人ポール、でした。

あと、ポールが「名前を名乗った」というのは誤解でして、
あれは、要はバイトの彼を好き勝手持ち帰ることへの重要事項説明の要約を自国(自星)の言葉でやってるんですよね。
都合の悪いことは小さい文字で分かりづらい言葉使いで書いて説明も早口でするに限ります、というのの一番ひどいやつだと思ってください。

だいたい上位存在は下位存在にわざわざ名乗らないんですよ。対等じゃないんだから。
それなのに、下位存在が対等に友達付き合いしようとして名前だと思って一生懸命覚えようとするから可哀想になって、ポールはポールを名前ってことにしたのです。だからあのように雑なのです。

名づけの魔力、というものについて今結構考えていて。
名付けられた時点で、あるいはバイトの僕と宇宙人ポールの関係性は逆転したのかもしれない。

名付けられた宇宙人ポールは、ポールの名において、バイトの僕に従する部分がほんのわずかながら生まれたのではないか。

そのうえ、バイトの僕も下位存在の矜持として、自ら下位存在には甘んじないで、対等に、なんなら上位側だと思って、これからも対峙しますので、
この二人はそのうちにきっちり関係性が築けると思います。
そういう、絶対の支配を越えていく力が個人にあってもいいはずだ。

誠実さは支配を越えていくのではないか、という願いのような気持ちで書いています。


創作は思想のアピールであってはいけない。
とは思うけれど、願いや祈りは込めざるを得ない。
このバランスをどう取っていくのかが、僕自身の課題でもあります。


いつもながらあとがきがひたすらに長い。

ここに書いたのは書いた人間の考えであって、物語自体とは何一つ関係ない、とも言えるんです。
だから、読んで思った通りに捉えていただければ幸いです。が、あとがきにまでお付き合いくださった、今読んでくださっている貴方に感謝を。

FFの月さんが《思考の奔流》と呼んでくださったのが嬉しかったので、気兼ねなくあとがきを書き綴ってしまいました(突然の他責)。

BLつってんだろうが、というご指摘もごもっともなものを今回提出してしまった気もしているので、一か月精進に励んで、次回のnoteでBLに備えたいと思います(それ毎回言ってやしないか)。

ああ楽しかった!!!!!!!!!!

※見出し画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしています。

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