スローガンの裏にある犠牲
「⚪︎⚪︎人ファースト」というスローガンは、かならず『誰か』の犠牲をともなう。沖縄やアイルランドの歴史、そして幼年期に南端の島で過ごした経験を重ねながら、その危うさを考える。
今日の私たち「日本人」は、日本人も含む『すべての人々』の犠牲と歩みに支えられている。歴史を学び、痛みを理解することが大切ではないだろうか。
戦争追悼八十年
〜 平和を願い、黙祷と合掌 〜
つい最近、沖縄戦の規模について新しく知った。
ベルリンに住んでいた頃、街のあちこちに戦争の傷跡が残されており、気分が重くなったことを覚えている。意図的に残されている場所もあり、戦争の壮絶さを後世に伝えるためだという。

ベルリン戦の凄まじさを映画や現地で知った後、「え、沖縄戦の方がもっとすごかったんじゃないの?」と、欧州の人たちにきかれて戸惑った。多くの人たちが「いやぁ、あの有名な沖縄戦が酷かったよね、日本では…。」
さらには、「オキナワって聞くと誰でも知ってる」とまで言われ、「バトル・オブ・オキナワというゲームまであるよ…。」と、皆で、口をそろえる。

画像ともに、Gamefoundより引用
ここで、改めて気づいた。戦後日本では広島・長崎の原爆の印象が強く、沖縄戦の悲惨さはあまり語られてこなかったような…。

画像・出典:琉球新報
以下、ファクトシート。
沖縄戦(1945年):約13万9千~15万人(推測)の民間人(や沖縄民兵※)が死亡。沖縄戦全体の戦没者は推定20万人以上。
注※:徴兵令下、14歳を超える現地の若者は民兵として前線へ駆り出された。そのため、正確な民間人戦没者の数はわかっていない。
広島(1945年8月6日):原爆による即死者は約7~8万人。放射線や負傷による死者を含めると1945年末までに約14万人。
長崎(1945年8月9日):原爆による即死者は約4万人。放射線や負傷を含めると1945年末までに約7万人。
沖縄戦の民間人死者は広島原爆即死者の2倍以上にもおよび、さらには、とことん『壮絶さ』で悪名高いベルリン戦よりも酷かった。
この沖縄戦、約13〜15万人(推測)の民間人(や沖縄民兵※下参照)を含む死者をだした3ヶ月にもわたる長期戦で、日本本土最後の大規模戦闘。対して、ベルリン陥落(1945年4〜5月)ではソ連軍との戦闘で民間人死者も含め約10万人が死亡、都市も大破壊。しかし、規模としては沖縄戦の方が、民間人への被害を含むと圧倒的に大きい。

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より
ちなみに、沖縄戦真っ最中の5月7日、同盟国ドイツはノルマンディー上陸と1か月に及ぶベルリン戦を経て無条件降伏した。だが日本はなおも降伏せず、激戦と民間人の大量犠牲の中で戦いを続けた。
結論から言うと、これは沖縄を絶対国防圏の不沈空母と位置づけ、劣勢状況で「捨て石」とし、日本本土を守るための「日本人ファースト」戦略の一環だった。日本軍は上陸したアメリカ軍を沖縄にできるだけ足止めし、故意に戦争を長引かせる方針をとった(参考文献)。

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より


この激戦についての自分の無知さに驚いた。欧州の人々の多くはこの事実を知っているのに、なぜ私は知らなかったのか。いや、知ってはいたが、ここまで酷く、世界的に有名な悲劇だとじっくり理解していなかったのだ。
この感覚を、どう表現すればいいのだろう…。
個人的なことと混ぜて恐縮だが、私は70年代に幼年期を沖縄で過ごした。アメリカからの日本返還直後。自分の原風景ともいえる土地でありながら、この、沖縄戦の事実については、ぽっかりと大きな無知があったことに今さらながら気づく。
このポストの背景として、そして戦後80年という節目にあたり、ここに思いを記すことにはたしかな意味があると感じている。
沖縄。
実は、いい思い出はあまりない。
家族の事情で幼年期を過ごす羽目になったのだが、当時の私にはちょっとした試練の連続だった。父は武家出身の筋金入り右翼で、放射線やレーダーの研究に関わり、米軍や自衛隊のインフラ整備の仕事で沖縄に赴いた。

私は幼くて、父の仕事や思想なんて理解できるはずもなかった。ただ、父はマッカーサー陸軍元帥を敬愛し、米軍の最新戦闘機のプラモデルを並べては悦に入っていた。今振り返ると、なかなか奇妙な人物だったと思う。
母方も日本人だが、日本人にあまり見えない。生まれつき髪は茶色で、私も子どもの頃はかなり薄い茶髪だった。そのため、(何の因果か)、母と沖縄にいるとまるで「ウォー・ベイビー」の子、…か、米軍関係の子どもに見られることもあったよう。実際、母は西日本のごく普通の商家出身で、特別な事情はないのだが。今、考えるとおかしな話。

沖縄の幼稚園では、冷たい扱いを受けた。現地の保母さんでさえ、私にまったく話しかけてくれない。両親も「現地の子と仲良くする必要はない」と言い切る。結果として、友達ゼロ。毎日「孤立まっしぐら」だった。
あの冷ややかさの裏には何があったのだろうか。あれは、私を押し黙らせる重い圧迫感だった。
今思うと、実のところは、悪意があったわけではなく、むしろ「幼い子どもですら『内地人』(日本本土の人)とどう向き合えばいいか分からない」という沖縄の人たちの困惑と切実さの表れだったように思う…(実際、悪意や意地悪さは感じなかった)。
3歳、4歳の頃の記憶は妙に鮮明。周囲の会話は理解していたのに、言葉が出ない。5〜6歳頃までほとんど話さず、ただ固まっていた。

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より
…というわけで、現地の保母さんや子どもたちからは完全にシカト。それに、本土でもよくある「(髪が)ガイジン」や「チャゲ」といったあだ名。周りとちょっと違うだけで呼ばれる、あれ…。
さらに沖縄では、無言の「ないちゃ〜(内地人)」のレッテルまで加わって、まさに見事なトリプルパンチ…。
でも、極めつけは父の一言。「テメェ、いい加減になにか話せ、お前はバカか!」。
これも、はっきり覚えている。言葉は頭では理解できていたのに、口から出てこなかった。本土に戻るまで、私はほとんど喋らなかった。昭和の時代、こういう症状はただ「変な子」で片付けられ、サポートなんて一切なし。
振り返ると、この個人的な体験の背景には、沖縄戦という壮絶な歴史が確かにあったように思える。幼い自分は、知らず知らずのうちに、その歴史による緊張や悲しみ、憎しみの空気を察していた。

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より

また、今になって振り返ると、あの父の無神経さも改めて胸に刺さる。敗戦時の激戦地に、『安保』、つまり米軍や自衛隊のサポートのための軍事関連施設の整備で赴いたのだ。しかも母によれば、父自身が希望して派遣されたという。
人口の三分の一が本土の戦略のせいで犠牲になった土地。そこへ、自ら進んで日米の軍事支援任務のために向かった。いまとなっては、当時冷たかった保母さんや現地の人々への同情の方が大きい。


あの島で、発話障害になった私を責めた父。けれど、今思えば、その父こそ、『次世代に伝えるべき沖縄戦』のことを何ひとつ語らなかった。これは、さらに重く、罪深い沈黙。
…さて、こういった事情もあり、私がこれまで無知だった沖縄戦について。
欧州の公共放送チャンネル、ARTEの戦後80周年記念特別企画で、この沖縄戦記録を閲覧し、しっかりと向き合うことができた。ちょうど1か月ほど前のことだった。
ちなみに、このARTEチャネルとは、(以前のポストでも触れたが)ドイツとフランスの公共放送で、受信料とEUからの資金提供で運営され、欧州議会や欧州委員会からも文化政策の推進機関として支援を受けている。NHKによる紹介はここ。


画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より
このドキュメンタリーでは、当時の敵だったアメリカ軍将校たちの日記もメイントピックのひとつとして紹介されている。その中では民間人の苦しみや戦闘の苛烈さが克明に記録され、生還後も心に影を抱えた元兵士の証言も添えられている。
見終わった直後は、(またしても)固まったように言葉が出ず、ポストに書くこともしばらくできなかった。なんともいえない深い悲しみとやるせなさが押し寄せ、どうしようもない感覚におちいった。
さて、番組の中で紹介された人物の一人は、米従軍戦闘史家のジェームズ・M・バーンズ軍曹。彼の著書『Okinawa: The Last Battle』は、軍人や兵士だけでなく、現地民間人が三か月以上にわたる長期戦の中で経験した苛烈な状況と深い犠牲も克明に記録している。


画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より
このバーンズ軍曹については、驚くべき事実があったため、以下、別の投稿で紹介した。日本の文献ではあまり触れられていないよう。
『戦闘前から、多くの沖縄の民間人はすでに避難していた。それでもなお、多くが激戦地に残っており、家族とともに洞窟や壕に身を寄せ、大きな危険にさらされていた。
我が軍の(米軍)兵士たちは、なぜこれほど多くの民間人が戦闘地に残っているのかと困惑した。かれら民間人たちは戦闘の真っ只中で逃げ場を失っていた。そのため我らは躊躇し、また、抵抗にもより軍の進行を妨げられた。』
バーンズ軍曹による沖縄戦記録史 14,15,17章からの抜粋意訳のまとめ
また、民間人の犠牲がこれほど大きかった理由は、単なる戦闘だけではないという。
強制的な集団自決をはじめ、当時の日本帝国政府のプロパガンダにより、沖縄の人たちに「降伏より抵抗と死」を迫った。米軍に協力したり降伏を試みた民間人は裏切り者とされ、命を失うことも少なくなかった。

画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より
また、日本軍は沖縄の民間人を攻撃や『降伏阻止の手段』としても動員。琉球人は本土の日本人に比べ十分に優先されず、配慮も欠けたまま、戦闘や犠牲の最前線に立たされた。


画像・出典:ARTE(独仏公共放送)より


戦後80年という年月を経て、日米、欧州を含む多国籍クルーによって制作・翻訳(仏・独語)されたこのドキュメンタリーを通し、私は、幼年期に感じた沖縄での違和感や苦しみの背景を、やっとはっきりと理解できた。

また、なぜこれほどの悲劇が戦後の日本でほとんど報道されなかったのだろう。この疑問も湧いてくる。もちろん、文献はたくさんあるだろうが…。
後世のためのこの番組が制作できた理由のひとつは、民間人の犠牲に目を向け、事実に忠実に記録を残したわずかなアメリカ軍将校のおかげでもある。一方、日本では当時の軍国体制下で、反戦や戦争批判、人道に反する事実は検閲によって抹消された。
この皮肉な現実に、ファシズムの闇に対する怒りが湧いてくる。
このドキュメンタリーには、元日本兵やアメリカ兵の証言も多く収められており、戦後何十年経ってもなお、その記憶に涙する人々の姿もあった。
もしかれらがその記録を残してくれなければ、私自身、あの幼年期の体験の理由すら理解できなかった。



この沖縄戦は、まさしく「日本人ファースト」という思想が形になった戦略の帰結だった。
南端の琉球諸島を防波堤とし、本土の日本人より軽んじられた琉球の人々を、熾烈な戦場に追いやった日本。
本土上陸を遅らせるため、沖縄をあえて犠牲にしたこの戦略は、意図的かつ計算された長期戦。その結果が、この計り知れない悲劇を生んだ。
取り返しのつかない惨憺たる悲哀が、沖縄の人々の命と記憶に染み込んだ。
一方、幼い頃の記憶として鮮明に残るのは、あの島々の圧倒的な自然の美しさと、なぜか崖っぷちによく咲いていた白い花の不気味な美しさ。
あの光景はいまだに頭から離れない。

沖縄のことを考えると、いまでも思考がかたまる。でも、私の中で消えず、原点のようになっていった。
「周りと違う」という感覚と、理由がわからないまま疎外されることのおそろしさ。それらへの、諦めと悲しさが骨の髄まで残っている。
…でも、そのせいだろうか。人に好かれることは後回しで、人と人の間に「なぜ憎しみや確執が生まれるのか」を深く考える癖がついた。また、気づけば、父とはまったく違う道をえらぶことにもなった(散々どつかれたけれども…、 苦笑)。
沖縄でのあの幼年時代の体験は、特殊な場所と時代の産物だった。
また、イギリスに20年以上暮らしていた頃、ふと気になった土地があった。すぐお隣、90年代に争いの絶えなかった「北アイルランド」と「アイルランド」。
このアイルランドと英国の関係も調べてみたが、それがどうにも沖縄と日本の関係にピッタリと重なって見えた。
その中でも、特に心に刺さったのは、アイルランドのトラウマ、ジャガイモ飢饉。19世紀半ば、主食のジャガイモが疫病で枯れ、イギリス(大英帝国)のロンドン統治政府の無策と搾取のもとで100万人以上が餓死し、さらに100万人以上が移民を余儀なくされた。
アイルランド史を、飢饉前と飢饉後に分けるほどの大惨事で、「Great Famine(大飢饉)」と呼ばれる。最悪の年は「ブラック47」と呼ばれ、飢えと搾取に追い込まれた人々の絶望を描いた映画の題名にもなっている(ここ)。

しかし、当時のイギリス政府は飢饉の最中もアイルランドから穀物を輸出し続け、直接的な食料援助をほとんど行わず、救済を制限した。
地主の利益を優先し、土地を持たない小作農にはわずかな支援しか届かなかった。これにより多くの人々が飢えと貧困に追い込まれた。
こうした冷徹な政策は、アイルランド人の命よりイギリス人の経済的利益を優先した典型的な植民地統治だった。
つまり、外からの統治政策によって生活基盤を壊され、膨大な犠牲を強いられたという点で、このアイルランドの過去はまさに沖縄の歴史と重なる。
これで思い出したのは、アイルランドの(過激な)鬼才、故シネイド・オコナーが、90年代に「ファミン(飢饉)」という歌でこの悲劇に触れたことだった(歌詞はここ、英文のみ、長い歌詞なので下に短い意訳要約)。
その中で、米陸軍の「国民の10%を殺せば、憎しみと恨みでその後の統治が難しくなる」という戦闘ガイドを引きつつ、アイルランドではそれをはるかに超える犠牲が出たと歌った。そのうえ、「この国はいまだ癒えていない」とまで言い放つ。

画像・出典:NPR
今日はアイルランドのことを話す。特に「飢饉」。でも実際には、本当の意味での飢饉なんてなかった。アイルランドの人たちはじゃがいもしか食べられず、肉や魚、野菜は武装兵に守られてイギリスへ運ばれ、人々は飢えに苦しんだ。さらに、子どもたちにアイルランド語を教えないようにお金まで出されて、歴史まで失った。
わたしたちはボコボコに殴られた子どものように、恐怖で記憶を閉ざさざるを得なかった。でも痛みは消えず、依存や暴力、自滅に向かってしまうこともある。
もし本当に癒されたいなら、まず思い出し、悲しみ、それから許すこと。知ること、理解すること、これがその第一歩。
この曲は、英トニー・ブレア首相による1997年のジャガイモ飢饉公式謝罪の3年前にリリース。謝罪は飢饉から150年周年記念式典で行われ、英愛関係や和平プロセス、後には両国経済にも前向きな影響を与えたと評価された。
さて、私は特にファンでもなかったのに、ブレア首相の公式謝罪前の1994年、この曲を収録したアルバムを買ってしまった。沖縄戦のドキュメンタリーを観たとき、ふと、そのアルバムからの曲、「Fire on Babylon 〜 バビロンの炎」を思い出した。(下:ちなみに、歌詞は家庭内虐待、表現はバビロンの黙示録…、激戦の歌)。
アイルランドの人々は、この「イギリス人ファースト」によって膨大な犠牲を強いられた。
沖縄戦と同じく…、だった。同様に、沖縄でも、このシネイドが引用する米陸軍の「殺戮の上限」10%をはるかに超え、実に30%もの人びとが犠牲となった。
その恨みは、幼かった私にさえ、しっかりと感じ取れた。20年、30年経っても、まったく消えていなかった。沖縄の人々にとっては、それはいまも癒えない傷だろう。今年の夏に、沖縄で骨を拾い続けることに一生を捧げた男性の動画が英国の新聞に掲載された(下)。彼の人生はただ、戦没者の骨を探し、集めることだけだった。
だからこそ、「日本人ファーストのどこが悪いのか?」と威勢よく叫ぶ人々に言わせていただきたい。
それを本気で言うのであれば、せめて歴史の事実を知り、その言葉がどれほど人々を傷つけるか理解したうえで、責任を持って言ってほしい。
もし本当に、それを主張するなら、まず過去の悲劇や犠牲者の声を学び、その重みを理解したうえで責任を持って発言すべきだ。無知のままおごり高ぶるとすれば、それは単なる暴言に過ぎず、許されない行為となる。
私たち「日本人」が今日ここにいるのは、日本人も含めたすべての人々の犠牲と歴史に支えられているからだろう。
(冒頭画像出典:南アフリカ、アパルトヘイト博物館より)
戦争追悼八十年
〜 平和を願い、黙祷と合掌 〜

