【第二稿】灰原日誌 第1章
☕1杯目 コーヒーブレイク
コーヒーブレイクにぴったりの話を募集したいんだ。
顎を上げ、大胸筋を見せつけるように胸を大きく開き先を見つめるような目をしたその人から、地に足がついているからこそ発せられる力強い声が放たれた。その威風堂々とした姿を、なで肩で少々巻き肩でもある灰原はパソコンの前に座ったまま羨ましく見上げ、はぁ、と気の抜けたような返事をする。
どこまで大きくなるつもりなんだ。
2025年5月24日に電子書籍を発売、その後、タグ付けワードに過ぎなかった #なんのはなしですか に文字という形を与え商標登録の申請したかと思うと#なんのはなしですか に関連する物販に許可を与え、なんのはなしです課の公式ブランドショップ『なんのはなしですかショップ路地裏🍄本店』を立ち上げた。
コニシ課長の着用しているそのオリジナルTシャツには路地裏と名付けられたわが社の仮想の街がデザインされており、その街のイラストを耳たぶから真っ直ぐ下ろしてきた指でなぞりながら、ここよ、ここ。ここにコーヒーショップができるわけ、と熱く語る。
そう、今度は珈琲ショップとコラボして なんのはなしです珈 をスタートさせるのだ。灰原は目の前に置かれた なんのはなしです珈プロジェクトという企画書に目を通す。
☕「なんのはなしです珈」の珈琲を楽しむ
#なんのはなしですかとコラボしたコーヒーショップがなんのはなしです珈という珈琲豆を発売する。珈琲にはnoteのマガジン【「なんのはなしです珈」な日々へ】 のQRコードが記載されている。
🍄「なんのはなしです珈」という創作ジャンルを楽しむ
珈琲をテーマにした創作やコーヒータイムにぴったりと思う記事をわが社の通信員が #なんのはなしです珈 をつけて投稿する。記事は全てコニシ課長の【「なんのはなしです珈」な日々へ】というマガジンに収録される。創作するもよし、記事を見て読んで聞いて楽しむもよし。楽しみ方は自由である。
📚️「なんのはなしです珈」の作品を本で楽しむ
コラボした珈琲店が【「なんのはなしです珈」な日々へ】のマガジンの中から本にする作品を選ぶ。それをなんのはなしです課がZINEで製本し発売する。
「とりあえずの計画はここまでだ」
「そしてだ。その本にはおそらく私の話が載ることになるだろうな。なんのはなしです珈、作家デビューだ」
コニシ課長はむふふの顔でそう言って、文豪よろしく顎の下から頬に向かって右手を添わせてポーズを決める。
「はぁ…。でもちょっと待ってください。作家デビューは確か以前に·······」
灰原は、またしても気の抜けた返事をしてから、コニシ課長も参加した電子書籍を思い出す。
「······ん?·········ん、ん、ん?」
コニシ課長は目線を上に反らしとぼけたような声を出す。
「なんのはなしです珈のデビューと言っただろ。····禁じゃなくて、···ゴホン···、今度こそ、今度こそ、万人に向けてデビューをしたいんだ」
途中咳払いも挟みながらの、途切れ途切れのくぐもった低い声だった。
「えっ、ちょっと、何言ってるか聞こえません」と灰原は真剣に問い返す。
「聞かなくて大丈夫。それより、読んでよ」
そう言ってコニシ課長は#なんのはなしです珈 をつけて投稿した自身の記事を指し示した。
灰原はこの企画には関わっていない。楽しそうな課長の様子にわざと素知らぬふりをする。本当はもう読んでいるのだけど、読みましたとは口に出さず、初めて読むような顔をして課長の書いた『自然と人の間には』を目で読み進めていく。
課長の前職、地質調査時代の話から始まる。急な斜面を重い機材を担いで上がり、足場を組み立て掘削する。自然を相手に仕事をしていた頃の思い出から今に繋がる。仕事内容を言葉で説明すると機械的に決まった手順で進めていくような無機質な印象を受けるが、ここに出てくる自然は決して無機質なものではない。
人間を相手にすることに辟易し、働く場を自然に求めてはみたものの、生きる厳しさがそこにはある。そんな中、自然を相手に労を厭わず、海鮮三昧をウミセンサンミと呼ぶ先輩のヒサシさんの存在がとてもいい。温かさがある。
「いいですね、コーヒーブレイク。お二人の話を読んで私も課長と珈琲飲みたくなりました。今、準備しますから付き合ってくれますか」
ゆっくりとお湯を回しかけると珈琲の粉がふんわりと盛り上がってくる。まるで空気を取り込んだ温かな土壌のようだ。
生きていて新しく誕生する運動、 …ブレイクか…。
珈琲という有機化合物である液体を取り込んで「なんのはなしです珈」な日々へのマガジンで人が紡いだ“はなし”を読む。その人の中で珈琲と何かのはなしが混ざり合い土壌がブレイクするように感情が内から沸き起がる。そこから確かな何かが誕生する。
“なんのはなしです珈”がそんなきっかけになる。
#なんのはなしですか から生まれた なんはなしです珈 でわが社がブレイクスルーすることを願いながら、灰原はフィルターに3度目のお湯を回しかけた。
コニシ課長が「いい香りだ」と目を細める。
「ヒサシさんにも飲んで欲しいですね。それにこれも読んで欲しい。駄菓子菓子、ヒサシさんがマガジンを読みにきてくれたとして“海鮮三昧 をウミセンサンミ”という所を“うみせんさんみをウミセンサンミ”と読んじゃいませんか。それだと、なんだか落語みたいですねぇ」
····音声読み上げ機能を利用するかはたまた····。淹れたての珈琲を前にしながら頭の中にはあれこれ言葉が沸き上がってくる。灰原は一度カップに目を移して香りをゆっくりと吸い込んだ。
コーヒーブレイク
今は一旦休息だ、一緒に珈琲を楽しむとしよう。
1杯目の珈琲のお供は
コニシ木の子さん「自然と人の間には」です
(音声でも聞けます)
(灰原メモ)
お前も書いてみるといいよ、といわれた気がして日誌を #なんのはなしです珈 をつけて投稿してみる。課長ははたして回収してくれるのだろうか。
当時の課長にとって自然と人の間には、ヒサシさんがいたのに違いない。一杯の温かいコーヒーのような存在として…。
☕2杯目 ブレンドコーヒー
カラン、カラン
湿った空気に溶けて膨らみを帯びたドアベルの音が店内に響く。その音に「いらっしゃい。」とマスターが呼応し、店に迎え入れたことを告げるように木製の厚みのある扉がパタンと閉まる音がした。
ここは『なんのはなしです珈』を提供する珈琲店
「急に雨が降ってきちゃって···。まだ日傘を持ってて良かった」
ハンカチへ袖に残った雨粒を移すように上から押さえて拭き取りながら、マスターに向けているのか、私に言ってるのかもしくは両方であるかのように自分に降り掛かった雨のことを声に出して伝える。
「ふたり揃っているとこは久し振りだね」
マスターは私と彼女に向けて声をかける。
「そうなのよ。今日は彼が払ってくれるみたい」
「取り敢えずホットもらえる?」
取り敢えずなんて言い方も気にするようでもなくマスターは滑らかに珈琲を立てる準備をする。キャニスターの蓋を開け、匙で一杯半の豆を掬いあげる。するとその豆は大きいミルに入れられ、ゴリゴリッ、ゴリゴリッと砕けて弾ける音を立てる。最後はパラパラッと細かい音になる。豆を挽く音などなかったかのように、店内のざわめきと雨の湿った空気と控えめなクラシックの音楽が溶けあって、いつも以上にこの場所の空気に安堵する。
「それで、企画はどうだったの」と彼女は聞く。
彼とか彼女とか、名前がそう必要ない場面ではそう説明するのだが、いわゆる彼とか彼女の関係であったことはない。しかし、彼とか彼女の雰囲気は纏っていたのだろうと、自分の感覚でもマスターの反応からでも感じているが、彼女に聞いてみたことはない。
彼女の名は降谷 玲花
昔、組んでいたバンドのボーカルで、今は同じ会社に勤めている。会社でもバンド時代のニックネームを使いベルと呼ばれている。同じ会社と言っても彼女は保健ルームでこちらは元·企画室、しかも休職が明けたばかりで仕事で一緒になることはほとんどない。
「これを朗読してくれないか」
彼女に、連絡したのはコニシ課長とコーヒーブレイクしたその夜だった····。
「出してみたんじゃないの」
「今回の通信に向けて、珈琲の企画の一つとして」
その声色からは理解できないという感情が伝わってくる。どんどん曇ってくる表情に慌てて詫びを入れる。当然の反応だ。わたしの起こす行動、発する言葉は時に人を困惑させ、曇らせる。
私の名は灰原 雄三
ニックネームはグレイ 。
「すまない、ベル。間に合わなかった」
コニシ課長の創作した「自然と人の間には」の朗読をベルに依頼し彼女はそれに応えてくれた。その音声データを公開して企画として出そうと思っていたが、結局出すことが出来きなかった。今日はそのお詫びと力を貸してくれたお礼を対面で伝える方がいいだろうと呼び出した。
企画としてはこうだった。まず既に立案している珈琲プロジェクトがある。
1「なんのはなしです珈」の珈琲が発売される
2「なんのはなしです珈」の作品をマガジンに集める
3 マガジンの中からZINEで製本し発売する。
「改めていうけど凄いことよね」とベルが目を輝かせる。
「ああ、企画立案にはなんでも通称 Winged·jewel翼のある宝石 を意味する女性が関わっているらしい。ふわりと優美に企画が舞い上がり俺もすっかり魅せられたんだな。それで何か自分にも出来ないかと思って、その.…」
「分かるわ!私も珈琲豆、注文したもの」
ベルが被せ気味に言う。楽しみよね、という流れになる前に、言葉を繋いだ。
「ああ、俺も注文した」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。何か出来ないかは、何か企画自体に貢献できないかということで。俺は人の企画の紹介すら出来なくて、自分で企画したり実行したりそんな力はないし、何かいい読みものを紡ぎだすなんていうのも出来ないしな」
灰原はベルがくる前に運ばれてきていた、まだ口をつけていない珈琲に視線を落とす。
「だから、朗読だったのよね」
ベルが懐かしそうにいう。
「あなたのファシリテーションルームに朗読企画を持ち込んでさせてもらったコラボやライブ、ラップだって楽しかった。自己満足かも知れないけど、楽しかった。発声練習用のあめんぼの歌の替え歌ができたりね」
「最初は感謝の気持ちをなんて奢りもあったけど、自分たちの居場所を楽しくすることが出来て、それもやっぱり感謝があってのことだけど、とても充実してた。一応、成功だった、と思ってる」
「だけど、今回はそれとは違うのよね」
灰原も答える。
「ああ」
「珈琲をプレゼントされて、QRコードまで読み込んでくれたとして、例えば親とか、俺たちの年代が贈りたい相手って、携帯で物語を読む、小さい文字を端末で見ることはあまり馴染みがなかったりするのかなと思ったんだ。今は読み上げ機能なんか利用する手もあるんだろうけど、人の声で朗読した音声もあるといいなんて思ってしまったんだ。まぁ、それも好き好き、好みがあるだろうけど」
そこまで話して、ベルに珈琲を出すタイミングを図っているマスターと目があった。それを合図にベルの前にコーヒーカップが運ばれてくる。
テーブルの上にカップが2つ。
久し振りだな·····。
冷めているはずの珈琲を温かく感じる。雨も上がり柔らかく光が差し込みふたりの間の空気にも温度を感じる。
「あなた···、ブラックだったっけ」
ふいにベルが話を変える。
「···砂糖もフレッシュも入れずに混じり気のない珈琲が俺にはあっている気がしてね。それにほろ苦さがふと和らぐ瞬間にもう過ぎたことだと安堵するんだ」
別に理由などなかった。甘いものを身体中が欲する程がむしゃらになることもなく、嗜好でしかないので、そろそろブラックにしてもいいかと思ったからというのが正直なところだし、このところの珈琲企画の通信員から上がってくる記事をたくさん読んでいて、誰かの表現が自分の中に取り込まれて出てきた言葉のようにも思える。しかしベルは、誰の言葉なのか、また答えの真偽などには大した興味はなかったらしく気にも止めていないように話を戻す。
「間に合わなかったのは残念ね。それともまたあれこれ考えすぎて動けなかったのかしら」
「··動いてたら何か変わっていたかもしれないのに」
ベルがコーヒーカップで顔の半分を隠したまま、目で何かを語るようにしてポツリと言った。
含みがあるように感じるのは、いつもの気のせいだろうか。そういう時は気のせいということにして話の先に進むことにしている。
「ああ、それについては協力もありがとう」
「テスト録音してもらった朗読音源は無事にコニシ課長に渡したよ。企画としては君の想像通り出せなかったし、回収期間には間に合わなかったけど」
「今度は俺の自己満足かな、それに付き合ってくれてありがとう」
「そっか···」
また一口、ベルは珈琲を口にしてから声をワントーン上げて言った。
「自分が満足できたならいいじゃない」
「貢献なんて、誰かの何かになったなんて、相手にしか分からないものよ。それに私は久し振りの朗読、楽しかった。人の人生を追体験するような、もちろん体験までは到底いかないんだけど情景が浮かびあがるというか。それにお互いの会話ややり取りから関係性に思いを馳せる豊かな時間を持てた。読むのは、例え本にして数ページ分だとしても、声に出してみると積み重ねてきたものが感じられるというか。私自身が朗読によって、文章に宿る大切なもの、時に乾きだったり潤いだったりするかもしれないけど、人として大事なものを掬い取れるような気がしているの。そんないい機会をありがとう」
「でも、もし企画とするには【「なんのはなしです珈」な日々へ】への投稿作品を全部朗読とか、時間を考えてもとても無理だし、ZINEに載せる作品は書籍になるのに音声があると販売に支障があるんじゃないか、とか今後の状況にもよって考えることもでてくるでしょうしね」
そこまで言って少しトーンを下げて今度は冗談混じりに言う。
「それにしても、何も混じり気のないブラックなんてマスターに失礼じゃない。既にここに出された時点で、いや珈琲豆がミルで粉砕されたときから、もう混じり合っているのよ」
「わかる?豆自体も個性があってブレンドされてることも多いし、更に偏りがないようにちゃんと挽いて混ぜ合わされてるの」
「あなたみたいな豆もまた味わいになっていると思うわ。大丈夫、配合はもちろん、挽き方で、抽出具合できっと美味しくしてくれるわよ」
よく分からない慰めの後、今度は落ち着いたトーンで言った。
「そういえば、むかしよくサイフォンで珈琲を淹れてくれたわよね。ルワンダの雫が届いたら、改めてご馳走してよね」
“改めてご馳走してよね。”
その言葉のトーンにどこまで真剣味がブレンドされているのだろうか。目には含みはあるのか、その目を直視しようか悩みながら、残りの珈琲を飲み干した。
この時の2人は出された珈琲が『ルワンダの雫』であることをまだ知らない。
ただひとつ、灰原にブラックで飲む珈琲を好きな理由がまた増えた。それだけは言えるようだ。
その夜、コニシ課長から連絡が入る。
“ 無事、記事に音声貼り付けました。”
記事とは、物語が読める珈琲の企画「なんのはなしです珈」に寄稿された作品『自然と人の間には』であり、そのコニシ課長本人の手によって貼り付けられたベルの朗読音声を早速、再生する。
懐かしい…
目を伏せて灰原は、バンド時代に彼女のデモテープを何度も聴いていたことを懐かしく思い出していた。「どう?!」、と決まって聞く彼女の言葉のトーンからはその言葉自体が持つ相手に評価を委ねるような態度は微塵もなく、私が一言答えると、大抵の人間は私が一言発すると表情が固まりコンクリートのような顔色になるのだか、ベルは頬が上気して私は、ここはね、と熱く語りだすのだった。
しかし、今回の朗読音声について彼女から感想を聞いてくることはなかった。自分の表現を追い求めるのではなく、作品に対して真摯に向かいあった結果なのだろう。『作品を読む』のに朗読というスタイルを選んだ一読者ということか。
あのデスボイスのベルがなぁと思う。二回繰り返し聴いたところでベルから着信が入る。
「ねぇ、ルワンダの雫届いたんだけど」
「貴方は今日お暇?」
先日の「改めてご馳走してよね」にはやっぱり真剣味がブレンドされていた。
「ああ、こちらにも届いた。家にくるか」
含みのない直球を受けストレートに投げ返した。
☕3杯目 コーヒー ティスティング
休みの日にはいつもまとめて洗濯をする。よく晴れた日はベランダに出てシューズだって洗う。
いつの間にかこんなにも空が高くなっている。
そろそろベルが着く時間だな。一仕事を終えて伸びをした後、駅からの道に視線を移す。案の定、マンションに向かって歩いてくるベルと目があった。上に向かって振る手に応えて軽く手で合図する。
「今日はありがとう。お昼は買ってきたわね」
「でも先ずはやっぱり珈琲、飲みたくない?」
洗濯機を回している間にもうセッティングはしてあったが、そのテーブルの上を見てベルは不思議そうに尋ねた。
「···サイフォンじゃないのね」と少しがっかりした様子のベルに語りかける。
「サイフォンも手離してはいないんだけど、最近はハンドドリップがしっくりきてね。こう、円錐形のフィルターでゆっくり濾過されて一雫ひとしずくごと落ちてくるのを見ているのもいいし、時間をかけて自分で淹れると出来上がった珈琲をゆっくり味わおうという気にもなるんだ」
「まあ、しばらく仕事も休んでたから特に…かな」
「ベルの方はどうだ。忙しかったんだろう」
仕事、と聞くとベルは少し早口になって話し出す。
「そうなのよ。今の上司、自分の仕事のスタイルに自信がある人で…もうこの間もぶつかってデスボイスでシャウトしかけたわ。その人なりの表現を伸ばそうとしてくれるコニシ課長みたいな人、ほんと居ないんだからね」
灰原はコニシ課長の煙でも吐くような『まあやってみなよ』という声が聞こえた気がして苦笑した。
「シャウトか、懐かしいな。今朝も聞いてたんだ。コニシ課長の作品を、ベル、君の声で。とても落ち着いてた。デスボイスでシャウトなんて想像できないほどに」
そう言われて、ベルもまんざらでもない顔をした。
「朗読って不思議なのよ。私じゃなくなる感じ。実はじぶんでもよく聞き直すの。自分の声じゃないみたいでほんと不思議。自分の外にでた声は、今の自分じゃなくて過去の自分の一部なんだわ。過去の私が、声だけが、フワフワと言葉と共に空間に漂っているの」
そんなことを話しながらも珈琲を淹れる準備をする。
珈琲を入れるためにお湯を沸かす傍らでベルが珈琲のガスバリア袋の封を開けた。秋の空気が風のようにスルリと先に入り込み、押し出された爽やかな香りがふわりと舞い上がった。それをベルはハミングでもするような表情で深く息をしたあと「お先に香り戴いたわよ」と言って袋を鼻元にもってくる。すぐ近くにあるベルの顔には「どう?!」と見覚えのある表情が浮かんでいた。
この香りはWinged jewel が運んできてくれたんだな。
サーバーにお湯をゆっくり回しかける。フワッとした珈琲雲を潜り抜けて円錐形のフィルターの先から一雫の珈琲が落ちてくる。それが先に落ちていた珈琲に混ざりあっていく。
それを見てベルは、『かがみの海』のお話みたいね。TABBY's COFFEE ROASTERさんの『なんのはなしです珈』に入っていた物語。
心もとない一雫の今の私の足元に広がる過去の私に出会う瞬間。溶け合う瞬間。きっと大丈夫と受け入れてもらえるようなそんな瞬間のお話。
「どう?!」と聞いていながらいつものベルだなと思いつつ、曲のアレンジを考えるように頭の中でイメージする。
「どうだ、ベル」
「もう一度、朗読してみないか。この物語を。交渉なら俺がするから」
サーバーに満ちた珈琲を2つのカップに灌ぐ。
「ドリップを終えた珈琲が過去であるとするならば…」
「分かち合える過去があるっていいわね」
「それに、共に語り合う今があるという事も」
珈琲の湯気と香りが二人を少し高揚させた。
この珈琲を飲み終えたら、彼女はきっと「いいわ」と応えるだろう。
ただ、今はこの一杯の珈琲を。
未来を語るにはまず“今”を味わう必要があるだろう。
一週間後、灰原がベランダから中に戻るとメッセージが届いていた。
わたしも無事記事に貼れました♡
♡がついたメッセージはベルからではない。貼れた、というのは 「なんのはなしです珈」の珈琲『ルワンダの雫』に添えられていたお話『【fiction】珈琲の音を聴く。』をベルが朗読した音声だ。“本当にありがとうございます。”と続くコメントに灰原は、このアカウントでおそらく初めて使うであろう文字を使って打ち返す。
こちらこそ♡
ハート使ってもいいですか、と多少遠慮がちに、でもこの高ぶる気持ちをしっかり込めて♡マークを送信する。これが、浮かれずにいられるか。相手はあのWinged jewel なのだから。
思い付いたのはおれだけれど、自分で直接知らせしなくていいのかと問うてみた。
ベルはそれに答える。
「今回は“なんのはなしです珈”の朗読だから」
「お店のカードに添えられた【fiction】珈琲の音を聴く。には作者は載ってないでしょ。この珈琲豆にだって産地や種類の名前があって美味しさへの技が沢山鏤ちりばめられているけど、目の前に出された一杯はその裏側を見せず、まずはテイスティングして頂戴とでもいうにように艶やかな瞳が誘うように深い色を湛えている」
「私の記事に載せた音声からじゃなくて、やっぱり作品を、その文章をその語句を目でも味わってから耳で聞いて欲しいの。まずは一口飲んでから、口の中を潤して喉元を通り過ぎてから、朗読を聞いて、そうあなたはそんな風に感じて読んだのねって対話するようにその人なりの感じ方が広がっていってくれたらそれ以上のことはないでしょう」
「だけど、連絡手段は必要ね」
「今回はお願いしてもいいかしら」
よくは分からないけどWinged jewel ウィングド・ジュエルに連絡できるのは役得だ。
「ああ、分かった。朗読音声は俺から届ける」
「朗読は作品掲載記事に貼り付けてもらう、だな」
その結果の♡ハートの交換だ。しかしベルにはそれを伏せ無事に届けられたことを伝える。ベルは「なんのはなしです珈」な日々へを訪れる沢山の人に届くといいわと嬉しそうに微笑んだ。♡が少しだけ後ろめたく感じた。
ところで、と気になることを聞いてみる。Winged jewel から透明感があって潮騒が聞こえるとの感想を預かった。ベルは感想は届けなくていいのか、ということだ。
「珈琲の“美味しい”を、その感動を伝えることは私には難しいわ。口に含んでゆっくり味を確かめるようにテイスティングして言葉にする。そんなことができたらいいとも思ったのだけど…」
「だけど?」
「とても綺麗だったのよ。たくさんの柔らかいベールにとても大切に包まれているようでもあるし、丁寧に濾された果汁を瑞々しさはそのままに宝石のように輝き透き通るゼリーにでもしたような。すっとスプーンで掬い上げて、弾力がありつつも艶やかにするりと入ってくる口触りを、気持ちの良いさらりとした温度をそのまま喉に運んで気持ち良さを味わいたい、自分の中に取り込みたいそう思ったの」
ただ、そのままに。
テイスティング
味わい方は、人それぞれか。
「ああ、やっぱり言葉にするのは難しいわね。」
「私の場合は、朗読は作品掲載記事に貼り付けてもらう、感想は記事にはしない、だけど時々あなたには話すかも」
「あなたの感想は…、今は聞かないでおくわね」
そういって通話を終えた後、クセになりそうなほろ苦さと甘さが喉元に少し残っていた。
珈琲とゼリー 似ているかもな、
もう一度 Winged jewel の【fiction】珈琲の音を聴く。を味わおう。
目の前の一杯の珈琲と共に。
(灰原メモ)
一杯のコーヒーを珈琲の音を聴きながら·····。日誌をつけるのも難しい。書き進める前に若干手直ししました。ここまでで一万字超です。
