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『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 第六章 ◆因果律の告白 【1】

第六章 因果律の告白 【1】


 シュレディンガーの猫が壊した「一本道」を更に壊したのは量子力学の出現だった。ミクロの世界では「確率は重なり合っており、観測するまで決まらない」ことが証明されている。
​ 未来は一本の線(確定したアルゴリズム)ではなく、枝分かれする可能性の束だ。
​「未来が決まっていない」のであれば、そこに人間の「自由意志」が介在する余地があるのではないか?という考えが佐伯の中に生まれていた。

 アルゴリズムとしての「自由」は「世界が物理法則アルゴリズムに従っていても、自由は存在する」。
​それは、「外部から強制される」のではなく、「自分の内部アルゴリズム思考」に従って答えを出したのなら、それは自由と呼べるのではないか?
 そして、「あらかじめ書かれたコード」をなぞるだけの人形ではなく、「計算プロセスそのものに参加する主体」がこの確率を変えるのではないか?と。
 
 ただ、改変した因果律の代償はそれ相応のものが伴うもの……。
 小さければ小さいほうがより無難で好ましい。
 

――――――――――――――――
 

「何か後ろから嫌~な視線を感じる……」
 
くるり、と振り返るとそこには灰瀬の姿があった。
 
「あ……お、おはよう? 」
「なにが、おはようだ。こっちは全身筋肉痛なんだよ?何故だかわかるか?ん? 」
「……」
 
不機嫌さを前面に押し出した顔で佐伯のことを冷めた目でみつめる。
 
「だよな?じゃあ、今日は飯でも奢ってもらおうか? 」
 
 ほぼ命令口調で、佐伯を睨む。『お前に拒否する権利はない』とでも言いたいような表情だ。
 
「……ひゃい」
 
 観念した口調で返事をする佐伯の目の端には少しだけ涙が浮いていた。
 
 昼の警視庁の食堂はいつも通り騒がしかった。
トレイを持ち上げる音と椅子を出し入れする音。刑事たちの雑談。そして食堂には空腹を刺激する独特の香りが辺りに漂っていた。

その一角の片隅では灰瀬が腕を組んで座っていた。

「――遅いっ」
「わるい、わるい」

 軽いノリの声で佐伯がトレイを二つ持って現れる。
灰瀬の前に片方が一つ置かれた。
 いい感じに焼かれた焼き魚定食だった。まだジュウジュウと音が鳴っている。
 黄色い御新香に梅干し、味噌汁の湯気と香りが食欲をそそる。

「今日は俺のおごりだからさぁ」

灰瀬はピクリと眉を一瞬あげると、佐伯を見た。

「なんだそれ」
「昼飯――の焼き魚定食? 」
「見れば分かる」
 
 ヘラっと笑いながら佐伯は向かいに座ると箸を割るが、灰瀬はまだ手を付けない。

「や……やっぱり肉の方が良かったかな? 」

 ビクビクしながら灰瀬の機嫌を窺うように上目遣いで覗き込む。

「違う……お前やっぱり何か知ってるな? 」

 佐伯は気まずそうな顔をしながら手元の味噌汁をすする。

「何を?」
「134号線」
「ぶっっ――!」
 
 不意をつかれた質問に思わず軽くせ返す。咳込みながら胸を軽く叩いた。
 佐伯は少しの間押し黙ると、何かを決心した目で灰瀬をみた。ただ、どこまで話して良いのか思い悩んでいるようにも見える。
 食堂のざわめきが遠く聞こえる。
 真剣な表情で灰瀬は続けて問いかける。

「“何か起きる”ってメール――」

 佐伯は箸を止め、また少し考えてから肩をすくめる。この仕草をするときの佐伯は、何かを隠しているときにする動作だった。

「勘――」

 灰瀬はため息をつく。分かっていてもしらを切り通し、敢えて普通の返しをしてくる。

「ただの“勘”で人を動かすな、刑事をなんだと思ってるんだ? 」

 佐伯は小さく笑う。

「怒るなって。ほら~、昼飯おごってるだろ? 」
「……これで終わりじゃない」
「ぐっ……分かってる」
「次は寿司だ」
「え゛っっ、回る寿司じゃダメか? 」

灰瀬は魚をほぐしながら言う。

「ダメだ、回らない寿司だ。命の値段だからな」

 その言葉で二人の間の空気が少しだけ緩む。しばらく無言で飯を食べていた灰瀬が話を切り出した。

「昨日の男……」

 佐伯の手が一瞬止まる。

「青いバイクのやつか? 」
「ああ……」

 灰瀬は視線を落としたまま小声で話し続ける。

「多分、公安に追われてた。それ自体が普通じゃない」

 佐伯は黙ったまま、無言で食事を口に入れる。

「お前、本当に知らないのか?違うよな?俺はバイクの色までは言わなかった。一体何を隠してるんだ? 」

 佐伯は静かに箸を置くと、視線を上げ灰瀬をみつめた――。
 その瞬間、周囲の世界がわずかに揺れた。
 佐伯の動きがピタリと止まる。
 食堂の光景が一気にスライドされ消え去る。

 代わりに視えたのは――。

 夕暮れの海と静かな田舎道だった。そして僅かに嗅覚に届くのは潮の匂いだった。
遠くで波の音がする。その道を二人の男が歩いていた。
 一人は灰瀬。もう一人の男は、少し前を歩いている。
顔は視えないが、露出した肩口に古い傷跡があった。
 二人とも振り返らない。
 まるで“何か”から離れるように……逃れるように歩いていた。

 そして、その光景が消えた瞬間、食堂の音が徐々に戻ってくる。
佐伯はゆっくり息を吐いた。
 
(こんなタイミングでいきなり視えるとか……)
 
 胸の奥が少しだけ重たい。因果の揺らぎが起こっている。
未来の断片……
 だが、それでも――。

(まだ……灰瀬は生きている)

 それだけでほんの僅かだが安心できた。
 灰瀬が怪訝そうな顔で佐伯を見つめる。

「どうした?目の焦点が合ってなかったぞ? 」

佐伯はすぐに笑顔を作る。

「いや、味噌汁が少し熱かっただけだ」

 灰瀬は納得していない顔だった。だが、それ以上は追及しない。
そんな灰瀬を見て、やがて佐伯がぽつりと言葉を落とした。

「灰瀬……」
「なんだ?」
「たまにあるんだよ……」

 いつになく真面目な表情をしながらも、心を落ち着ける為なのか、せわしなく箸を回しながら話を続ける。

「流れが変わる瞬間……」

 灰瀬は眉間にシワを寄せると、言葉の真意を測りかねるように首を傾けた。

「?」

 佐伯は少し考え、言葉を慎重に選びながら灰瀬に言った。全てを話すのは危険だからだ。もちろん、灰瀬を信じていない訳ではなかった。ただ、話した事で因果律が変わってしまうことを恐れているからだった。

「人の流れとか、事件とか……全部が少しだけズレる」

 灰瀬はそのまま黙って聞いていた。佐伯が何を伝えたいのかを理解するために……
 佐伯は自嘲気味じちょうぎみに小さく笑うと軽く肩をすくめた。

「そういう時、大体ロクなことが起きない」

 灰瀬が言う。

「それを“勘”って言うのか? 」
「どうかな。まあ、それで納得しといてくれよ」

 少し、切なそうに笑う。まるで世界から隔離された存在のように。

「因果が動くってやつ」

 灰瀬はため息をつくと、ぬるくなったお茶を口に流し込んだ。

「意味が分からん――」

「さてと」と言い立ち上がると、自分のトレイを灰瀬の方に移動させる。

「昼飯おごっただろ?」
 
 仕方なく受け取る灰瀬はニヤリと笑う。

「次は寿司だ」
「覚えておく」

 こんなただの会話も愛おしく感じるのはなぜなのか。
廊下の窓から射し込むまぶしい昼の光が佐伯を照らす。
 前を歩く灰瀬の背中を見つめながら、あの時の情景みらいを改めて思い出す。
 そして心の中で静かに呟いた。

(……まだ先の未来だ。それまで俺がお前を――)

 あの夕暮れの海――。
 あの静かな道――。
 そして、あの男……。

「因果はまだ未完のままだ――」
 
 

次回金曜日21時(数分誤差有)更新:


 『まるで何かに導かれるように、その男は辿りついた』

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