『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 第七章 ◆因果の特異点 橘寛見・灰瀬透 【1】
第七章 ◆因果の特異点 橘寛見・灰瀬透 【1】
あの夜『134号』での出来事から逃亡を続けている橘寛見は、街灯のない裏通りを力なく歩いていた。
夜の空気は、昼間と違いまだ冷たい。
フードを深く被った橘は、右足を少し引きずっていた。転倒時に負傷した肩よりも、足の傷はそこまで浅くなかった。病院へ行きたくとも行けば直ぐに発見されてしまう。
そして、常にアンテナを張らなければいけないのも、精神的に消耗する。息を殺し、車の気配と、足音に耳を澄ませながらの生活。追跡は今のところ振り切れている。橘は壁にもたれかかると、静かに息を吐いた。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
なぜ追われているのかの理由が分からない。任務の記憶はある。
《潜入――監視――情報収集――》
公安としてやってきた仕事は、すべて覚えている。
だが――
最後の任務だけが曖昧だった。思い出そうとすると、記憶が不鮮明になっていく。何かが弾けた衝撃の白い閃光と、劈くような耳鳴り……。
しかし、そこから先は霞がかかったように何一つ思い出せない。まるでそこだけが空白なのだ。
あの白い閃光だけは思い出せるのに……。橘は再び目を閉じると、自分の記憶を辿っていくが、やはりそこで思考がピタリと止まる。
「……何があった? 」
自分に問いかけるが、答えが出ることはない。
しかし、一つだけ確かなことはある。それは公安が自分を排除しようとしていることだった。それは間違いなく起きている。
橘はまた当てのない道を歩み進めて行く。行く場所は決まっていない。安全な場所もない。
その時ふと一つの顔が脳裏に浮かぶ。
警視庁の廊下。爆発の直前に真正面に立っていた刑事。
冷静な目をしたあの男。
そして、あの海岸線で自分を助けた――あの男。
「……刑事」
名前を思い出す。
『灰瀬……透』
公安にいた頃、何度か資料で見た名前だった。優秀な『A種事案対策室』の刑事。
橘は静かに息を吐く。
身内が敵になった今、自分が頼れる場所はない。
それでも――あの刑事は、理由も聞かずに自分を助けた。四人を相手に不利な状況だと分かっていたとしても……。
何かを思い出したように橘はポケットに手を入れると小さな紙を取り出した。
公安活動の資料を整理していた時、無意識に残しておいたものだ。そこには住所が書かれている。
(灰瀬のアパート――)
橘はしばらくその紙を見つめた。
わざわざ自ら警察の人間に近づくのは自殺行為だ。そんなことは判っている。常軌を逸しているとしか思えない行為だ。正常な判断ができる人間なら……最悪の選択だと言うだろう。
(だが、今の自分には――他に行く場所がない)
橘はフードをさらに深く被り、人の流れの中に紛れ込む。体の痛みを抑えて……。
◇
その頃、灰瀬は自宅の机の上にある数枚の写真を眺めていた。
警視庁爆破事件の現場写真。
灰瀬はその一枚を手に取った。破壊された廊下。焦げた壁。
あの瞬間を思い出す。
大きな爆発の後感じた衝撃と吹き飛ぶ警察官。吹き上がる煙……。
そして――そこにいた『顔のない男』。
灰瀬は写真を机に戻した。爆弾ではない。それはあの場で理解していた。
あの爆発は能力によるもの。だが理解できないことがある。なぜ警視庁だったのか。なぜ警察内部で能力を使ったのか。
そして、佐伯が送ってきたメールの先で出会った「134号の男」。
逃げている人間の動きだった。
(佐伯が言った「因果が動く」が本当で、それが全て偶然でないのなら――)
灰瀬は椅子にもたれ、意識ごと天井を見上げる。
(あの男は本当に犯人なのか? )
それとも――
(何か別の事情があるのか? )
思考が絶えずグルグルと回り、混雑を極めていたその時だった。
《コン…》
小さな、物が落ちるような音が聞こえる。灰瀬は音の方向を探し顔を向ける。
そしてまた音が聞こえてくる。
《コン……》
音の発生源は玄関からだった。
(こんな時間に来客? )
頻繁に色々なことが周囲で起きすぎていた灰瀬は当然と言うべきか、僅かに警戒した。
「……誰だ」
数秒の沈黙の後、ドアの向こうから低い声が返ってきた。
「……あの海岸線であんたに助けられた」
その言葉を聞いて、灰瀬の視線が一瞬だけ鋭くなる。
灰瀬がいま欲している全ての答えをもっているかもしれない男が、自ら訪ねてきたのだから……。
レバーハンドルを下すと静かに扉を開く。
廊下の薄暗い灯りの中にその男は立っていた。あの時のように、フードを目深に被ったままの姿で。灰瀬はその顔を見た瞬間、目を細めた。
記憶の奥にある光景が、まるでパズルのピースのように必要な場所へと配置され、一つの「絵」となったのだった。
警視庁の廊下と爆発の光。その炎の中に立っていたフードの男。
すれ違った時に感じた違和感。そして――「134号」の青いゼファー。
灰瀬は喉の奥で息をのむ音を隠し、できるだけ平静を装いながら男に言った。
「……お前だったのか」
男は壁にもたれながら、小さく息を吐いた。
「……追われてる」
その言葉だけ残すと、男の意識は途切れ膝が床へと崩れる。
灰瀬は咄嗟に腕を伸ばすと、男の身体を支えた。
夜の静かなアパートの廊下で、二人の運命は再び交わったのだった。
カチッカチッと正確なリズムを刻む秒針が部屋の中に響く。
灰瀬のベッドでは先程の男が眠っている。
灰瀬はいつもの温かいココアを口に含みながら考えた。
警視庁爆破事件の現場にいた男と134号線で追われていた男は同一人物だった。
(俺はたまたまあの爆破直後の犯人の前にいて、そしてたまたま134号で追われていたその男を助けた……が、その男がまたたまたま俺の家に助けを求めてきた。……それを本当に単なる偶然だけで片付けてもいいのか?三度の偶然?そんなものが本当に存在するのか? )
絡まった思考の糸を解していく。だが、その内に意識は堕ちていた。机に突っ伏していた灰瀬の顔に、カーテンの隙間から細く射し込んでいた朝の光が目に入る。
(あ……、いつの間にか寝ていたようだ )
部屋の中はいつもと変わらない静かさだ。
壁に掛けられた時計の秒針が、カチ、カチと一定の間隔で音を刻む音が聞こえる。いつもと同じ朝だった。ただ一つを除いては――
灰瀬は椅子に座ったまま、湯気の立つマグカップを口元に運んだ。
温かいココアの甘さが、わずかに張り詰めていた神経を緩める。
視線の先で眠っている男は、まだ目を覚ましていない。
昨夜、玄関先で崩れ落ちた身体は思っていた以上に消耗していた。肩は元より足の傷も浅くはない。応急処置はしておいたが、本来なら病院に連れていくべき状態だった。だが――それはできない。
公安が追っている人間を、病院に運ぶわけにはいかなかった。
灰瀬は小さな溜息をつく。
警視庁爆破事件の能力者、134号で追われていた男。
そして今、灰瀬の部屋で寝ている男。そのすべてが同一人物だったのだ。
状況としては、かなり異常だった。
男はまだ眠っている。だが、その表情は安らかとは言えなかった。眉間にはわずかな皺が寄り、浅い呼吸が繰り返されている。
何か夢でも見ているのだろうか。
そう考えていた時、男の身体がわずかに動く。そしてゆっくりと、まぶたが開いた。
視線が天井を捉え――そして次の瞬間、身体が反射的に起き上がろうとしたその直後、片足に激しい衝撃が走った。まるで火箸でも押し付けられたような強烈な痛みだった。
「っ……!」
唇を噛みしめ低い呻き声をあげた男の動きが止まる。
(なんか、手負いの猫みたいだな――)
灰瀬はそんな彼を刺激しないように静かに近づくとカップをサイドテーブルに置いた。
「無理をするな――」
男の視線が一気に灰瀬へと向う。
男の視線は鋭かった。今自分が置かれている立場と状況を瞬時に把握しようとする、完全に職業的な目だった。
だが、そこが安全であると認識した橘はやがて口を開く。
「……ここは」
「俺の部屋だ」
男はゆっくりと周囲を見回す。見慣れない天井、壁、机。そして――灰瀬。昨夜からの記憶が繋がったのだろう。
「……すまない。行くあてがなくて。そんな時、あんたのことを思い出した」
「そうか」
男はしばらく黙ったままだった。やがて短く言う。
「通報は……」
「してない」
男の眉が僅かに動く。灰瀬にとっても面倒ごとは避けたいはずだ。なのに巻き込まれかねないこの状況で、見捨てるという選択肢があったにも拘わらず、なぜ自分を助ける方を選んだのかが疑問だった。自分でもおかしな行動だとは分かっている。だが、どうしても訊ねてみたかったのだ。その「理由」を。
「なぜだ? 」
灰瀬は肩をすくめた。
「まだ、お前が犯人だと決まったわけじゃないからな」
男はその言葉を聞いて、唖然とした。
灰瀬の予想外の答えに、毒気を抜かれた男は思わずふっと吹きだす。たったそれだけの「理由」で、危険な状況に身を置いたのだから。
「やっぱりあんたは……変わった刑事だ」
「よく言われる」
「俺は橘……。橘寛見 」
短いやり取りだったが、その空気はどこか奇妙に落ち着いていた。
「じゃあ、橘。一つ聞くが――」
そう言って向けられた視線の鋭さに橘は一瞬たじろぐ。何について聞こうとしているかの予想はついていたからだ。
「警視庁の爆発」
橘の表情が僅かに変わる。灰瀬はあの事件について知りたがっている。だが、それは橘自身も同じだった。しかし、どれだけ記憶を辿ってもその場所に辿り着かないのだ。
「……覚えてない」
そう橘は即答した。保身の為の否定ではなく、「覚えてない」という曖昧な言葉に灰瀬は違和感を抱く。
橘の言葉はまるで凪いだ水面に投げられた石のように、灰瀬の中に不可思議な感覚の波紋を広げていく。
「任務の記憶はある。潜入、監視、情報収集――」
(そこまでははっきりしている。だが――)
橘は静かに目を閉じた。
「最後だけ、曖昧なんだ」
釈然としないその感覚。まるで脳を直接いじられたように気持ちが悪くなる。橘の呼吸がわずかに乱れる。
「……白い光だけ覚えてる」
灰瀬は黙ったまま橘の話に耳を傾ける。
橘は眉間に深いシワを寄せると、絞り出すような声で話し続ける。
「耳鳴りがして――」
橘の身体が一瞬強張った。そして、苛立ちを紛らわすように前髪ごと目元を覆うと指の間から虚空を睨んだ。
必死で思い出そうと努力をしても、記憶が砂の粒のように指の間から零れ落ちていく。
そして橘は言う。
「……その先が、ない」
橘はゆっくり目を開くと灰瀬をみた。
「そこだけ、空白だ」
(記憶の欠損……)
「橘はウソを言っていない」そう思う根拠を示すことはできない。だが、サイコメトリーの副産物としてエンパスの能力を手に入れた灰瀬ならではの確信だった
(爆発の瞬間の記憶だけが消えているのか……。これを偶然だと片付けてしまうには時期尚早でしかない……)
話し終えた橘が机の上のマグカップを手にとる。だが――その瞬間、小さな音が弾けた。
マグカップの縁が、わずかに欠ける。それはほんの小さな亀裂だったが、本人は気付かない。
だが灰瀬は見逃さなかった。
視線だけが、静かにカップへと落ちる。
(やっぱりな――)
能力者であることはほぼ確定だった。だが、やはり記憶が抜け落ちていることの証明にはならない。
そんな自覚のない橘はココアを一口飲むと、顔をしかめた。
「うぇ……これ甘すぎないか」
「砂糖多めだ」
「刑事の飲み物じゃない」
「それもよく言われる。――いいから黙って飲め、心を落ち着かせてくれるぞ」
顔をしかめながら橘はカップを机に戻すと、真剣な面持ちで灰瀬に言う。
「公安が追ってる」
「見れば分かる」
橘の目が少しだけ鋭くなる。
「普通の事件じゃない」
「だろうな」
橘は視線を逸らし、布団に指を喰いこませて深く俯く。
「助けてくれたことには感謝している……でもあんたには関係ない。だから……」
その言葉は、灰瀬を巻き込まない為に突き放そうとしたのだろう。
灰瀬はしばらく考える。橘の事情を知った今、このままにしておけない。しかし、彼が言う通り自分には関係ない……かもしれない。
だが、自分の周りで「橘」に絡む事件に出くわしたのは、偶然ではなく必然だった可能性は高かった。ただ、「彼」に巻き込まれたのか、もしくは「自分」が巻き込んでしまったのか……それはわからない。だからこそ灰瀬は言った。
「俺にも関係がある。たぶん」
予想外の答えに橘は顔を上げると灰瀬を見た。
「それに、警視庁を吹き飛ばした能力者が俺の部屋で寝てる」
だから――
「だからお前に最後まで付き合う」
橘は灰瀬をじっと見つめ――やがて、わずかに笑った。
「……本当に変な刑事だな」
灰瀬は肩をすくめた。
「自分でも、自覚してる」
「はは----」
部屋の中に、再び静かな時間が流れる。
灰瀬は手元にあるカップのココアを回しながら思考を巡らす。
三度の偶然。警視庁の廊下。134号線。そして今、この部屋に橘がいる。
全ての矢印が自分に向かって放たれているのは確かだ。だが、本当にそんなものが存在するのだろうか?
それとも――
誰かが……まるで因果を動かしているかのように。
佐伯の言葉が灰瀬の脳裏をふっと過る。
《たまにあるんだよ……因果が動くってやつ……》
「因果……」
灰瀬はそうポツリ呟き、甘ったるいココアを口に含んだ。
次回火曜日21時(数分誤差有)更新:
『壊れる過程は、……とても美しい』
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