『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 第二章 ◆~佐伯紫苑編~ 【1】
第二章 紫煙に隠した真実 (認識阻害能力の女) ~佐伯紫苑編~ 【1】
海を近くで見渡せる見晴らしの良い場所にそれはあった。
この時期になると灰瀬は両親の墓参りにきていた。
墓地は緩やかな丘の上にあった。石段を上るたびに潮の匂いが濃くなる。
白い波は規則正しく岩肌で砕け、空は春の光を優しく反射していた。
灰瀬は無言で歩く。
両手には白菊、紫菊。白菊には『悲しみ』、そして紫菊には『私を信じて』の意味をもつ。いつも同じ本数……同じ花を供える。
幸せだったあの時間を思い出しては、繰り返し、繰り返し、その瞬間を嚙みしめる。
「今年も来たよ……父さん、母さん……」
墓前で膝をつき、そう呟く声は、風に混ざる前に石へ吸い込まれる。
線香にそっと火をつける。
煙は風に乗り、香りは細く空へと昇っていく……。
佐伯は少し離れた柵の前に立った。
海を背にする灰瀬の後ろで内ポケットから煙草を取り出す。
「一本だけ」
灰瀬は振り向かずに頷いた。
佐伯がおもむろに火をつけたその瞬間、波音がわずかに遠のいた。
風が数秒止まる。
煙は風の吹く方向には流れず、まっすぐ上へ伸びる。
「……予想より遅い到着だったな――」
「……」
佐伯は視線を海ではなく、何もない空間へ向ける。
そこに立っている存在は、佐伯の同業者だ。
黒く長い艶やかな髪に紅く染められた唇。妖艶な肢体をもつこの女の名は東雲。そしてunnoticeable所謂(認識阻害能力)をもっている。
東雲は、最初からそこにいたかのように静かだった。
風に揺れる黒いコート、整った輪郭。だが輪郭の縁はわずかに“薄い”。空間から半歩ずれている。
「久しぶりね、佐伯」
鈴の音のような澄んだ声は、波音よりも穏やかだ。
「状態報告……しばらく怠っていたわよね?」
佐伯は煙を吐く。
「報告するようなことはなにも無い。彼は安定してる。均衡は保っている」
東雲の視線が灰瀬のいる墓の方へ向く。
落ちた線香の灰を指で整えていた灰瀬の指先が僅かに止まる。
「情動値が上昇しているわ」
「この時期はな……」
「これは任務に含まれるのかしら?」
佐伯は鼻で笑う。
「含めるしかないだろ」
東雲は瞬きもせず佐伯を凝視する。
「佐伯、あなたは観測者よ――? 」
「それは理解している」
「観測者は対象に干渉してはならない決まりがある」
言葉は冷たい氷のように感情がない。
その口調が佐伯の胸の奥の何かを微かに軋ませる。
灰瀬は壊れやすい。だが同時にしぶとい。誰かを救うことで、自分の崩壊を遅らせているのは確かだ……。
それは果たして偶然なのか?それともその“存在意義”が彼を強くしているのか?
「Case-A17の時と似ているわ」
東雲の声色から灰瀬に対して危機感を感じているのが窺える。だが、それは灰瀬を心配しての言葉ではなかった。ただ、任務に支障が生じることを恐れている言葉だった。
佐伯の指先が止まる。
「A17」……終了番号。死亡扱い。存在しないはずのデータ。
だが組織の保管庫には、未だにその観測記録が残っている。
「A17は崩壊した」
東雲は言った。
「感情の混入が原因だった」
佐伯は忌々しそうに煙草を噛む。
「あれは……違う」
「違わない」
間髪入れない即答だった。
「観測対象に対する過度の愛着は、均衡を歪ませる」
均衡……。東雲はいつもその言葉を使う。
「リブラは均衡を測る」
東雲は佐伯の発言を制する勢いで続ける。
「救済ではない。裁きでもない。ただ、世界の釣り合いを保つために存在する」
その思想は冷酷だ。だが正しくもある……少なくとも組織にとっては、だ。
「灰瀬は貴重なデータ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
東雲の視線が鋭くなる。反論は決して認めない、と言う口調だ。
「崩壊寸前で均衡を保つ個体は、極めて希少よ」
佐伯は灰瀬の背中を見つめる。風に揺れる黒髪。墓石に向かう横顔。だが、そこにあるのは悲しみではなく、慈愛の表情だった。
「……個体、ね」
「何?」
「いや……お前には永遠に判らないだろうな。何が人間を強くするのかを――」
「私をバカにしてるの?」
凄みを効かせた顔で東雲が佐伯に一歩近づいたその瞬間、灰瀬がわずかに眉を寄せていた。
「……なんか寒気がする」
感覚を頼りに振り返るがそこには佐伯の姿しかいない。
「どうした?灰瀬」
「いや、なんでもない。気のせいみたいだ」
灰瀬は首を傾げるが、深くは追わない。
認識阻害の能力で身を隠す東雲は灰瀬を“観測”しながら淡々と話す。
「感覚閾値(リミット)が上がっている。観測に気づきかけている可能性がある」
「お前が気づかれるようなコントロールしかできていない証拠なんじゃないのか?」
「……っく。わたしを侮辱するのかっ」
佐伯の脳裏に別の記憶が浮かぶ。
――守れなかった。
あのときも、自分は“観測”していた。崩れていく様子を、ただ記録していた。無感心で……。
手を伸ばせば届いたかもしれない距離。だが命令は“監視のみ”だった。
結果、「A17」の観測は終了した。そう…終了と言う名の“死”。
それが正解だったのか俺は未だに分からない。
「あなたは灰瀬に愛着をもっている」
東雲は断言をするかのように言った。
そして佐伯もその言葉を否定することはしなかった。
「観測対象への関心は自然だ」
「それは本当に任務なのか?」
また、その問い……。任務、任務、任務 ―― 。壊れた機械のように何度も何度も同じセリフを吐く彼ら。嫌気がさす。
佐伯は目を硬く閉じる。
これは本当に任務なのか?それとも―― 。心の中で言葉を反芻する。
「……俺は」
佐伯は言葉に詰まったその時、灰瀬が立ち上がり、こちらへ歩いてくる音が聴こえる。
東雲の輪郭が陽炎のようにユラリと揺らめいたかと思うと、その姿はさらに風景と同化し始めた。
「時間ね」
「まだ話は――」
「監視はこれからも滞ること無く続く。佐伯、あなたは“観測者”。くれぐれもそのことを忘れない……ように…」
東雲の姿が、静かに海の光へと溶け込んでいく。
止まっていた波音は耳に戻り、煙は今まで通り風に流され始める。
世界は再び動き出し灰瀬との時間に戻っていった。
「佐伯?」
灰瀬が近づく。
「誰かと話してたのか?」
「独り言っっ」
「長かったようだが?」
「くっ、何が言いたいのか判ってるよっっ!歳取ると増えるんだよ、独り言がっ!」
灰瀬は少しだけ笑う。
「まだ若いだろ?」
「あー、はいはい。お前とそんなに変わんねーもんなっ」
笑い合いながら並んで海を見つめる二人。水平線は光に照らされ淡い銀色にみえた。
「ここは、嫌いじゃない。両親との思い出で溢れてる……」
微笑みながら灰瀬が言う。
「静かで、穏やかで…嘘のない、俺だけの場所だ……」
穢されながらも無垢な心を維持しようとする灰瀬が痛々しく、そしてそんな自分に罪悪感を感じていることに佐伯は気付く。
(――嘘のない、か……)
この世界は嘘だらけだ。
観測という名の監視。
均衡という名の管理。
幸せの為の犠牲……。
「あの少女は守れなかったけど……」
そう言いながら灰瀬は真剣な面持ちで佐伯をみた。
「せめて、同じ目に遭う人を減らしたい」
決意に満ちたその声は強く、そして折ることのできない意志だった。
佐伯の胸に、また小さな痛みが走る。
(お前は、壊れかけているのに……まだ他人のことを気にかけるのか?)
「……灰瀬」
「ん?どうした?」
「無理はするな」
佐伯からの珍しい気遣いの言葉。
灰瀬は目を瞬いた。
「それを、お前が言うのか?」
「俺は無理してない!」
「嘘つけ、毎日目の下にクマを作っているクセに――」
そう言うとお互いに顔を見合わせ同時に「ふっ」と笑う。少しだけ、空気が柔らぐ。
海風が菊の花弁を攫うように吹き込んでいく。
佐伯は思う。俺は紛れもなく“観測者”だ。干渉はしない。そして選ばない。均衡も崩さない。
だが、もしも――もしも、あの日の「A17」に、もう一歩踏み込んでいたら結果は変わっていたのだろうか?
灰瀬が言うように、「人」として扱っていれば、あの少女は壊れることも無く今も存在していたのだろうか?
東雲の言葉が蘇る。
《――選択を誤るな》
“誤り”とは何だ?
感情か?救済か?それとも、無干渉か?
いや――今は考えるのをよそう…。
今の俺にできるのは……。
「おこちゃまな灰瀬のために、ココアでも飲みに行くか」
佐伯は言う。
灰瀬は一瞬驚き、そして笑う。
「奢りか?」
「半分」
「ケチだな」
「薄給だからな」
職場では見ることの無い素の灰瀬の軽い笑い。愛想笑いでもなく、誤魔化しの笑いでもない本当の姿……。
その横顔を見て、佐伯は理解する。
これは任務ではない。しかし、任務でもある。
灰瀬は貴重なデータだ。それに変わりはない。
しかし同時に「守れなかった過去」の、やり直しのようでもある。
海は何も知らない顔で白い波を泡立たせながら繰り返し押し寄せては去っていく。揺れていく……。
観測はこれからも続く。灰瀬が生きている限り……。
実験体との均衡は保たれる。
だが佐伯の内側の天秤が、わずかに傾いていた。
それは、崩壊の兆しか。
それとも――選択の始まりか。
風が強くなり、煙は空へ溶けた。
次回:
『彼らの瞳に映る自分は、怪物なのか……それとも人間なのか』
←前のページ 次のページ→
※ #創作大賞2026 応募作品です
いいなと思ったら応援しよう!
サポートをありがとうございます!