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『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆均衡の証明 【3】

◆ 均衡きんこうの証明 【3】



 参事官の執務室は、外界との感覚を失っていた。
窓の外には薄曇りの空が広がっているはずなのに、遮光ブラインドは半分ほど降ろされたまま、外界との曖昧な空間がそこにできていた。
 机の上には未だ紙の山が整然と積まれ、白い室内灯が冷たい光を静かにそそぐ。
 ファイルの背表紙は角度まで揃えられ、そこから垣間見えるのはまさに「完璧主義者」だということだ。
一つのミスも許さない階級の人物だと言うことが一目瞭然にうかがえる。

一ノ瀬参事官は、書類から目線をあげず、男の名を呼ぶ。

「灰瀬……」

落ち着いた威圧感ある声で名を呼ばれた灰瀬の身体がわずかに強張る。

「例の再検証だが、鑑識の協力を取りつけた……」

 灰瀬は黙ったまま立っている。椅子を勧められることはない。参事官はいつもそうだ。立たせたまま話す。圧ではなく効率をとる人間だ。

「城崎という人物だ」

初めて聞く名だ。

「彼は元研究部門所属。現在は鑑識課だ」

ペン先が、紙の上で一度だけ止まる。

「理論に明るい。お前の……能力についても理解がある」

 ほんのわずかなに、灰瀬は真意を理解する。
その言葉の裏に、どれだけの意味が含まれているのかを―― 。

「お前に紹介する。ついてこい」

 廊下を乾いた音が繰り返す。規則的に床を叩く靴底は、歩幅も一定だ。速くも遅くもない。まるで機械のように寸分の乱れも無い。

 久し振りにきた鑑識フロアは庁舎とは違う異質な臭いがする。
消毒液、古い紙、そして機械油の臭い。冷却ファンの低い唸りが、空気を振動させ震えていた。

 ガラス越しの部屋の中に、一人の男がみえる。
 長い白衣を身に纏い、濃紺のシャツに、グレーのスラックス。袖はきっちりと折り返されている。高身長だが、威圧感はない。
髪には多少の白髪が混じっている中年の男だ。輪郭は削ぎ落とされ、余分な肉はない。目元に深い皺が刻まれているが、それは感情の跡ではなく、長年の集中の跡に見えた。

「城崎――」

 参事官が呼ぶと、男はゆっくりと振り向いた。
視線が交差する。
濁りのない、鋭い眼光が灰瀬に魅入る。

「彼が灰瀬だ」

 城崎は一歩近づくが握手はない。
 ただ、観察でもするかのような目で灰瀬をみつめている。
その視線は、肌の表面では止まらない。もっと奥を、推し測るように……

「君の噂は聞いている」

抑揚のない低い声で短いあいさつをする。

「……そうですか」

灰瀬も同じく短く返すと、城崎は小さく頷いた。

「君の能力は、非常に興味深い」

 興味。鑑識としての好奇心ではなく探求心だった。
参事官が口を開く。

「A種少女事件の再検証を行う。城崎が担当だ」

 少女……。
その単語が出た瞬間、灰瀬の指先がわずかに冷えたが、城崎は違った。大きく目を見開き即座に言う。

「Case-A17かっ」

 迷いなく間髪入れずに少女の「番号」だけを口にする。
そしてその数字だけが空間に散らばっていく……。
灰瀬はその言葉に、瞬きを忘れる。
城崎はそんな灰瀬を気にする素振りも見せず淡々と続けて言う。

「五年前。能力暴走型で安定化実験中に停止したCase-A17 ――」

停止――。

(死亡…とは言わないのか……)

嫌悪感を隠そうとしない灰瀬を参事官が横目で見る。

「データは城崎が保管している。閲覧許可を出す」

 城崎はコクリと頷くと背後の端末に手を伸ばした。
モニターに、無機質な画面が映しだされる。
フォルダには文字が与えられていた。

『Case-A17』ファイル。

 灰瀬は微かに唾を呑み込んだ。自分以外の能力者の存在は初めてだったからだ。
城崎は一ノ瀬の指示に従い説明を開始する。単なるデータ上のものとして……。

「当該個体“Case-A17”は観測時、情動の振れ幅が大きかった。恐怖、罪悪感、自己否定が要因だ。能力の出力はそれに比例して上昇した――」

 画面に観測時の波形が映し出される。荒れ狂ったような山と谷……。

「私は安定化のため、観測強度を上げた」

灰瀬の視界が、僅かに歪む。

「結果、出力は一時的に収束したが、しかし――」

 波形が、突如、途切れ、一直線に流れる線とそれに伴う沈黙が伴う。
そして城崎の指が黒い文字盤の上でわずかに止まった。
それは意識しなければ見逃すほどの短さだったが、城崎はすぐに続けた。

「停止……」

 再び、その言葉が静かに流れる。
参事官はそんな城崎をたしなめるように口を挟んだ。

「感傷は不要だ。再検証は事実の確認だ。わかるな?」

城崎は一ノ瀬の言葉に軽く頷く。

「感情は解析に不要だ」

瞬間、灰瀬の中で何かが軋む。

「彼女には名前があった」

 声が勝手に口をついて出ていた。自分でも驚くほど静かに。
城崎は灰瀬の顔を見た。瞬きひとつせず。

「名前は……観測に影響を与える」
「影響?」
「共感を生んでしまうからだ。共感は出力を乱し、能力を最大化できない」

 理路整然と、反論の隙がない。だが灰瀬は知っている。
あのコールドケース事件で触れた記憶が戻ってくる。冷たい床、震える指、そして恐怖に歪んだ瞳。

「彼女は、怖がっていた。まだ幼い少女だ……」

城崎は即答する。

「Case-A17は安定化の段階にあった」

だがやはり、わずかな間が存在している。灰瀬はそれを逃がすまいと捕まえる。

「……怖くなかったと?」

城崎の視線が微かに揺れる。

「恐怖は数値化可能だ」

城崎は言葉を選びながら灰瀬に伝える。

「観測されることで制御できる」

灰瀬はその言葉を遮るように、一歩前に出た。

「観測されても、怖いものは怖い。計器の針の届かない場所に“心”は存在する」

 空気が、一瞬張り詰める。誰かの言葉にここまで感情的になったことがなかったが、我慢できなかった。
一ノ瀬は沈黙したまま、ただ二人の出方を静かに見守っていた。
 城崎は灰瀬を見つめたまま、長い沈黙だけが続く。機械の低音だけが、耳の奥で静かに呼吸をする。

「君は……」

先に城崎がその口元を動かす。

「完成に近い……」

 灰瀬は背中に冷たいものを感じる。何を言っても……、どんなに情に訴えても……通じない人間がいるということに。

「観測と同調を同時に行える。理論上は最適だ」

(またか……今度は最適だと?こいつの情緒はどうなってるんだ? )

「だが――感情の振れ幅が大きすぎる」

 城崎がデータを見るように促す。そこに現れた波形が、灰瀬と少女の画面に重なる。

灰瀬おれのデータ――)

「不安定だ」

言葉は柔らかいが、そこに感情はない。

「君は崩れる可能性が高い」

排除ではなく単なる評価と分析からの城崎の判断だった。

「君が危険だとは言わない。ただ、壊れやすいだけだ」

 その瞬間、灰瀬の胸奥で何かがひび割れた。少女の波形と、自分の波形が重なる。
大きく揺れ動く線。

Case-A17彼女も、同じだった。感情が均衡を崩した」

 城崎は初めてCase-A17少女を“彼女”と呼んだ。
その言葉が引き金に、灰瀬の呼吸が乱れ始める。
 触れてはいない、データ上だけのはずが視界の端で何かが揺れる。
城崎はそっと画面を閉じる。

「観測は暴力ではない。未観測のほうが残酷だ」

 その言葉が、胸の中に沈み込む。
重く、冷たく、ゆっくりと感情のおりのように底に溜まる。
灰瀬は思い出す。“Case-A17”として初めて接触したあの日のことを……。
触れた瞬間の熱、叫び。「助けて」、と。
観測されていたはずだ。なのに――!
何故止まらなかった? いや、観測者は敢えて止めなかったのか?

「……それでもっっ」

感情が抑えれず声が震える。

「彼女の痛みは消えなかった……」

 消え入るような微かな声で訴える。だが、それに対して城崎の指は机の縁をわずかに叩いた。

「痛みを消すための理論ではない。これは社会の……いや、国全体の均衡を保つための理論なのだ」

 均衡……。社会の安定性。異能力者の犯罪に対しての ―― 。
天秤を揺し続ける皿――。
灰瀬の頭の中で、彼女の顔が浮かぶ。
名前を……思い出せない。自分も、番号で見ていたのか?
胸が締めつけられる。
城崎は静かに言う。

「君が崩れれば、多くが崩れる」

 それは灰瀬を心配してでた言葉ではなく「事実」としてそこにある危機だということ認知しろということだった。

「だから私達は観測を続ける」

灰瀬の膝が、わずかに震える。

(そうか……自分も、実験体か。なぜそのことを忘れていたんだ……)

 城崎は目を逸らさない。
その目の奥に、ほんの微かな影がある。しかしそれを認めない強さ。
理論で押し固めた揺らぎを灰瀬は理解した。

 城崎は知っている。観測しても痛みは消えないということを。
それでも理論を守る。
守らなければ、Case-A17少女の死は無意味になる。その事実に。心が崩れてしまう。そのことに気付いてはいけない。気付かない振りをしなければならない。狂ってしまえば心は守られる。

視界が狭まる。参事官の声が遠くに感じた。

「灰瀬――」

名を呼ばれるが現実が、まだ戻らない。

少女の波形。
自分の波形。
重なる。
同じ軌道、同じ崩壊――。

「……にげられない……」

 無意識に、漏れる言葉。
そして灰瀬は再び理解した。自分もまた、観測の中にいる実験体。逃げ場はないということを。
『均衡の証明』。その証明に、自分の存在が使われているということを。
 城崎も参事官も何も言わない。だが、そんな灰瀬をただただ観測するだけだった。こんな時でも、灰瀬の崩れかけた呼吸を。震える指先を…。それが理論の正しさを示すかのように。

 だが、ほんの一瞬だけ城崎の目が揺れる。
誰にも気づかれないほどの微細な揺らぎ。
認めてはいけない。灰瀬の苦しみを認めれば、城崎もまた崩れる。

 灰瀬の視界が暗転し、よろめく。だが、決して倒れることを許さない。
倒れてしまえば、「崩れる」証明になってしまうからだ。
踏みとどまる。痛みを抱えたまま。

「観測」の外へまだ出ることはない。均衡は保たれている。
そう、今は。
 
(俺は……まだ……まだ大丈夫だ。必ず、証明してみせる――)


次回金曜日21時(数分誤差有)更新:

『きっと、触れれば声が聴こえてくるだろう。でも触れることができるのは声だけ……。だから、今日は触れないでいようと決めていた』

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