『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆~一ノ瀬参事官編~ 【2】
◆ 警視庁に潜む秘密組織リブラ (天秤の眼) ~一ノ瀬参事官編~ 【2】
秘密裏に設立されたA種事案対策室、Awakened(覚醒者)またはAbnormality(異能・変異体)を指すA対部署を置く警視庁内の責任者一ノ瀬の喉元に冷たく鋭い刃が正確に喉元へ当てられていた。
冷たい金属が皮膚を押しこむ感触……。
あと数ミリでも動かせば血が滲む距離。それでも一ノ瀬参事官は書類から視線を上げない。執務室は静けさとペン先が走る音のみが聞こえる。
いつもは狙撃を警戒して降ろされているブラインドもこの日は違った。あけ放たれた窓ガラスからは午後の光が射しこみ、机上のファイルを照らしている。
A種事案対策室――通称「A対」。
公には存在しない部署。だが国家内部では、確実に機能している。
小さく息を吐くと、眼鏡を外し招かれざる客に問いかける。
「何しにきた。報告は逐一している」
冷静で低く、抑揚のない声。しかし、場は確実に一ノ瀬の殺気で張り詰めている。
背後の男が笑う。
「ちょっとなー。暇だったから揶揄ってみただけさ。相変わらず冗談が通じねーな、あんたは」
手に持ったナイフを玩具でも扱うように器用に回しながら下卑た笑いをあげる。
金に染めあげた髪の隙間から覗く耳元のピアス。黒いジャケットの袖から覗く手首にはタトゥー。
だが、一ノ瀬がなにより不快なのは敬意すらないその軽い口調。
「用件を言え」
「上からの指示だ。もうじき、ある事案が発生する。A対絡みだ」
一ノ瀬はゆっくりと視線を上げる。
「それは予測か? 」
「いや、観測だ」
男の表情に変化が表れる。
先程までの軽い口調は顔を隠した。
「三地点、同時刻。微弱だが異常が出る。失踪が一件。能力保有者の可能性が高い」
その言葉に反応するように机上の端末が静かに点灯する。
『速報通知』
一ノ瀬は視線を落とす。
――都内三箇所で監視映像に歪み発生。
――街灯の瞬間的消失。
――記録媒体の数秒間欠損。
「発生の本番は今夜だ」
男は矢継ぎ早に内容を伝える。
「それに灰瀬を投入しろという指示だ。段階を一つ上げる」
その言葉に一ノ瀬は沈黙する。
「サイコメトリーは接触型だけじゃない。広域残留思念の検知が可能になる。今回の痕跡は分散している。通常出力では追えない」
一ノ瀬は慣れた手つきで端末を操作する。
表示されるのは灰瀬の能力推移。
――情動変動値――
――負荷耐性――
「根拠は? 」
「観測ログ。佐伯との接触で安定域が拡張している。精神負荷の臨界点が後退した」
(佐伯の存在……)
一ノ瀬が一瞬だけ瞳を細める。
男は更に続けて言う。
「Case-A17より条件は良い。今回は崩れないだろう」
「保証は?」
「ない」
男は即答した。
「だが、確率は高い」
一ノ瀬は立ち上がり、窓際に立つと何かを思案するかのように目を閉じた。
「灰瀬が壊れた場合の代替は? 」
「三案。一つは既に確保済みだ」
「そうか。なら継続可能だ」
男が呆れたような表情で一ノ瀬を見た。
(完璧主義者だということは聞いていたが……)
「徹底してるな」
「効率の問題だ」
端末に新たなセルコールが入る。
『同時多発事案発生。失踪者一名。能力登録歴あり。痕跡は三地点に拡散。意図的だと思われる――』
一ノ瀬は即座に判断する。これ以上、この件に時間をかけるのは非効率だ。
「A対を待機。灰瀬を投入する」
『出力は? 』
「通常域で接触。状況次第で拡張を許可する」
男は一ノ瀬と同じ窓際へ歩くと眼下の街を見下ろす。
けたたましい音の中に赤色灯が方々に散らばっていく。
「条件付き自発……か」
「本人の選択に委ねる」
「環境は整えるくせに」
一ノ瀬はそれを否定はしない。「国家」は直接命令を下すことをしない。だが必要な状況は作る……それが国家だ。自分たちは常に陰の中に隠れながら ―― 。
「能力拡張後の制御は? 」
「リブラが補助する」
「いや、このまま国家の管理下に置く方がいいだろう」
一ノ瀬の返事に男が鼻で笑う。制限のある国よりも自由度の高い組織の方が機転がきく。効率を第一に考える一ノ瀬なら組織を選択したはずだ。
「管理できると思ってるのか? 」
静かな初めての対峙。
国家と観測組織は敵ではない。お互いの利益のための相互利用の仲だ。
「犯罪抑止は我々にとって最優先事項だ。これだけは譲れない」
一ノ瀬は淡々と男に言う。
「利用できるものは利用する」
「同じ思想だな」
一ノ瀬の意向を確認した男は扉の前で振り返る。
「発生のピークは二時間後。このまま観測は続ける」
そう言い残すと、男は扉の音と共に静かに消えて行った。
しばらくの静寂の中、一ノ瀬は灰瀬のファイルを開いた。能力推移グラフ。精神負荷指数。「A17」の波形と並べ比較する。
(数値評価は……)
「耐性は上回っている」
そこに感情は存在しない。判断だけだ。ペンを取ると、段階引き上げ条件付き承認の署名をする。
灰瀬が壊れた場合、代替案は三つ。
国家がその機能を停止することは決してない。
個体は代替可能。代わりになる実験体を探せばいい。
その後は壊れた個体の能力を遺伝子レベルで抽出するか、同じ環境下で再度育てるか……。
それがいつもの原則。
室内灯の灯りが机上の写真を際立たせる。
新品の活動服を着た無表情な青年の顔。どこか両親の面影のある瞳。
(芯の強そうなところは、父親に似てるな……)
一ノ瀬は静かに写真を伏せると、目頭を指で押さえて目を閉じた。
「私情は不要だ」
書類をファイルに閉じる。
(これでいい……。均衡は保たれる。今はまだ……)
始まりの合図が、高層ビルの一室に鳴り響く。
セルコールと共にモニターに映し出された三地点のデータが並び始める。
――情動変動予測
――負荷上昇曲線
「始まったか ――」
同時に携帯が鳴る。先程の男からだ。
『予定通りだ』
「逸脱は? 」
『許容範囲内。観測をこのまま続ける』
画面に灰瀬の顔と観測モニターが表示される。
「踏み込むかどうかは、あいつ次第だ ――。信じてるぞ、灰瀬」
慌ただしくなっていく周囲の状況。爆発音を伴いながら炎があちらこちらで猛威を振るう。
彼らは観測を続けながら干渉は最小限に留め、灰瀬の能力を試した ―― 市民の犠牲を引き換えに……。
「さあ、どうするサイコメトラー」
次回金曜日21時(数分誤差有)更新:
『正しい選択など存在しない……。ただ、失ったものだけがその手に残った』
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