『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆残響が奏でる共鳴 【3】
◆ 残響が奏でる共鳴 【3】
城崎が去った後も二人はしばらく動くことをしなかった。念には念の為だ。外の足音は、すでに遠ざかっている。
だが――
空気だけが、まだそこに残っていた。それはまるで監視されている感覚に近い。
何かを測られていたような、あの気味の悪い視線。
灰瀬は玄関の方を見たまま、動かない。
「……あの男」
抑え込んでいるが、どこか震えているようにも思える声色だった。本能的なものなのだろうか?訓練された者ならば特に自分との格の違いを瞬時に見分ける感覚が鋭いはず。生き残るためには必須の感覚だから。
灰瀬は振り返り、橘に確認する。
「“知ってる”、と言ったな」
橘は頷く。
だが、その動きはわずかに鈍い。
「公安の資料で見たことがある。名前も、経歴も……全部、載っていた」
そこまで言って、橘は言葉を切った。
視線が宙を泳ぐ。まるで何かを探しているように。灰瀬はその様子に再び違和感を感じる。
「……いや」
小さく首を横に振る。
「違う……」
灰瀬は黙ったまま橘を観察する。様子が明らかにおかしい。記憶を辿っているというよりは、混乱に近い。
「“見た”、じゃない……」
橘はゆっくりと目を細めた。
「……“見せられた”気がする」
その言葉に、空気が変わる。灰瀬の視線がわずかに鋭くなる。橘は額に手を当てた。呼吸が少し荒くなる。そして、自分自身への苛立ちにやがて限界が近づいた。
「なんだ、これ……」
絞り出すような声で橘は言う。
「思い出そうとすると……」
言葉が途切れたその瞬間だった。
――パキンッ
乾いた音と共に机の上のカップの縁が、わずかに弾けた。
小さな陶器の破片が、音もなく机の上を転がった。
二人の視線がそこに釘付けになる。
「……今の」
「ああ、触ってないな」
灰瀬が言う。
橘は震える自分の手をみつめる。
(城崎が言っていたのはこのことなのか? )
灰瀬は城崎の言葉を思い出す。
《――安心してください。まだ、壊れてはいない……》
灰瀬はしばらく、橘を見ていた。
橘は低く呻くように小さく呟く。
「……違う。俺は……こんな使い方をしない」
不意にでたその言葉に、灰瀬引っ掛かりを覚える。
「使い方? 」
橘はハッとして顔を上げる。
一瞬、何かを言いかけて――止まる。それは空を噛むような口の動きだった。思考が正常に動いていないのか、言葉がでてこず押し黙ると、唇をきつく噛んだ。
「……」
(能力の自覚はあるのか? )
「……わからない」
灰瀬は机に寄りかかると、落ち着いた口調で更に橘に問いかける。
「任務の記憶はあるんだよな? 」
軽く橘は頷く。
「潜入、監視、接触……」
そこまでは淀みなく出てくる。
しかし、やはり最後の答えは先程と同じだった。
「その先がない」
そう短く断言した。
「爆発の瞬間は? 」
橘の呼吸がほんの一瞬だけ止まる。わずかだが確実に空気を呑み込んだ。
「……白い光。それだけだ」
橘は目を閉じると、もう一度残された自分の記憶と感覚を探っていく。
「音も、衝撃も……ある。でも、その中に――その中に……」
わずかに言葉が止まる。それは記憶の中の“何か”に到達した瞬間だった。
「……誰かがいる――? 」
固く閉ざされていた記憶の扉に歪みが生じた。
そして、一度ヒビの入った場所から、流れる水のように徐々に滴り始める。
「後ろから見ている」
ゆっくりと、的確に言葉を選ぶ。
「俺じゃない視点で――」
空気が静かに歪む。
「……お前じゃない視点で? 」
灰瀬は困惑した表情で橘をみつめる。
だが、それは橘にとっても同じだった。見開いたその瞳には、明確な混乱があった。
「分からない」
そう答えた後、また記憶の流れが滞り始める。壊れた箇所を修復しようとし始めているのだろう。しかし、一度溢れた記憶は記憶としてそこに残った。
「でも、あるんだ。その記憶が」
確信だけはそこに存在していた。
壁にもたれたかかり、真正面から灰瀬を見据えた。
「……おかしいんだ」
橘は弱々しい小さな声で言う。
「任務は覚えてる。動き方も、判断も全部自分のものだ。でも――……最後だけが違う」
その言葉は、はっきりしていた。灰瀬は何も言わない。橘の中で、何かがずれている。それだけは分かる。
「……俺は」
橘は再び話そうと口を開いたが、またすぐに閉じた。
「……やってないかもしれない」
その灰瀬の一言が橘の消えそうな感情に落ちていく。
部屋の空気が止まると同時に灰瀬は目を細める。
橘自身もその言葉に反応したが、やがて顔を歪めた。
「……いや」
橘はすぐに首を横に振った。希望を抱いてはいけない。最悪の事態を考えなければ。もし、その答えが間違っていた場合、心が崩壊してしまう。
「違う。逃げているだけだ」
自分に言い聞かせるように……。
「記憶がないからと、都合よく考えているだけだ」
握る拳にわずかに力が入ったその瞬間。
――ピシッ
壁の一部に、細いひびが入った。
「ああ、……くそ」
吐き捨てるように橘は言った。
「制御、できてないのか? 」
灰瀬は小さく息を吐く。
そして、あの時に視た紅い陽炎が薄っすらと立ち昇っているのを灰瀬はしばらく観察していた。
(いや、これは違う――)
そう思うだけの確信があった。
(これは暴走じゃない。もっと――浅くて深い、これは――)
「……誰かに触られているみたいだな」
灰瀬は言った。
瞬間、橘の動きが止まる。そしてゆっくりと顔を上げると驚いた表情で灰瀬を見た。
「……なんだ……それは」
灰瀬は軽く肩をすくめる。
「ただの感覚の話だ」
その目は、冗談を言っている訳ではない事がわかるような真剣な眼差しだった。
やがて、橘は自嘲する。自分自身の情けなさと不運を呪う笑いだった。
「最悪だな。自分の中に、自分じゃない“何か”があるってことか? 」
灰瀬は否定しなかった。慰めは慰めにはならない。それよりは、この状況を打開する事を考える方が建設的だったからだ
橘は視線を落とす。
「それより……あの男だ。城崎」
灰瀬が出したその名前が、橘に重く響く。
「ああ、見られていた」
「違う――」
すぐさま否定する。そして橘の言葉を丁寧に言い直す。
「……“見られている”。だ」
灰瀬が発した現在進行形の言葉。橘の顔がわずかに強張った。
そして、その言葉の重さに、橘は不気味さを感じた。今まで自分が任務としてやってきた行動を、自分自身にされることへの恐怖。橘は彼らにとってのターゲットとして“監視対象者”となった。
背筋に冷たいものが這うような感覚がする。
その時、二人がいる部屋の空気が静かに張り詰めた。
灰瀬は念の為に窓の外を確認する。
目で見える範囲では誰もいない……。
だが――
(いる――そこに)
漠然とだがそう感じた。確証はない。それでも確信だけはあった。
橘はそのまま壁にもたれると、目を閉じた。
感情をコントロールし、呼吸を整える。浅い呼吸を繰り返した。
しかし、記憶のその奥にある違和感が消えることはない。
自分の記憶が、自分のものじゃない。
その感覚だけが、確かに残っている。
静かに侵食していく黒い記憶は消えることなく、腐らしていく。
身体の中に感じるもう一つの記憶の蟲は食い荒らそうと蠢いている……。
橘は細胞が音を立てて軋んでいくのを感じた。
次回火曜日21時(数分誤差有)更新:
『糸は繋がった。――引く手が誰のものかを知らないまま……』
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