『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆揺蕩う心 【2】合同検証会議:警察庁警備局・警視庁公安部
◆ 揺蕩う心 【2】
救急灯が回る。遺体には白布が静かにかけられた。
灰瀬は凝視したまま黙って動かない。
その姿が、佐伯には余計に苦しかった。まだ涙を流してくれた方が扱いやすい。
なのに何もかもを諦めたような……、運命から決して逃れることはできないと悟ったような……感情が消えた表情。
「対象は拘束済みだ」
佐伯はそんな感情を押し殺し事務的に話し、灰瀬は無言のまま力なく頷く。
たったそれだけの短いやりとりが精一杯だった。
佐伯の胸の奥底で凍てついた氷の鎖が絡まり合う。
今回の事案は偶然ではなかった。そう感じる根拠が佐伯にはあったのだ。
三地点での同時発生。そして誘導。
段階的引き上げが行われたのだろう。灰瀬は試され、皮肉にもその領域に自ら踏み込んだ。
自分は何をした?
支えたのか?
押したのか?
それとも――見ていただけなのか……?
リブラの影が、脳裏をよぎる。
あの時みた金髪の男は十中八九観測者だろう。
佐伯はその時初めて、微かな疑念を自分に向けた。
自分は、どちら側に立っている?
灰瀬か?組織か?遺体を見送る灰瀬の背中が、小さく感じる。
夜風に乗って炎の匂いが漂ってくる。
佐伯は小さく呟いた。
「……すまない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
昨日の事案から灰瀬はあまり言葉を発しなくなった。
常に必要最小限の会話のみ。
能力は一段上がった。
国家にとっては最高の仕上がりだ。だが、灰瀬にとっては?
警視庁本部庁舎は、いつも通りに見えた。硝子張りの外壁に朝日が反射し、ロビーの床は磨かれた光を返す。
しかし、心なしか落ち着きのない雰囲気が漂っている。
足早に歩く足音と小さな声でヒソヒソ聞こえてくる会話。
三地点同時事案の件だろう。前代未聞の爆発、崩落、地下鉄構内事案。
死者一名。未成年。重軽傷者二十七名。
その数字が、廊下を歩いている。
「あの噂の“A対”だろ?」
「あぁ、そうらしいけど“A対”って結局どんな仕事をしてるんだ?単なる陰謀論じゃないのか?」
「実際、どうかは判らないが、でも子供は――」
灰瀬の気配に気づき、言葉を止める刑事部の人間たち。
灰瀬は足を止めない。
すれ違いざまに視線が一瞬交わるが、すぐに逸らされる。
敬意でも軽蔑でもない、“距離”……。
事情も知らない彼らが“距離”を取るのは刑事的直感で何かを感じ取っているからなのだろう。
だが、それは正しい直感だ。未知の者に対して本能的に警戒するのは当然のことだから……。
俯き加減で入退室ゲートのIDを読み取らせる。
電子音の一秒が長く感じる。
『管理対象』
刑事であり、監視下にある存在。灰瀬はそれを敢えて気にしない。
そう……気にしないようにしている……だが、あの時の声が耳にこびりついてまだ離れない。
《――たすけて》
切実に懇願する声。一瞬、足取が重くなる。
だが、今は合同検証会議が最優先事項だ。どれだけ滅入っていたとしても参加しなければ。
「灰瀬透、入ります――」
【2-1】合同検証会議 警察庁警備局・警視庁公安部
長机の上に並ぶ資料は整然としていた。
写真・図面・数値。
崩落地点の俯瞰図。
地下鉄構内の動線。
炎の発生源の推定。
すべてが論理的に配置されている。
「地下鉄構内への追跡を優先した理由は? 」
警備局幹部の声は穏やかだ。
“A対”について彼らがどこまで周知しているか判らない限り、下手なことは言えない。
灰瀬は視線を上げ、幹部の問いに答える。
「三地点は誘導でした」
スクリーンに動線を映す。
「炎と崩落は注意を分散させるための配置。主動線は地下鉄側でした」
「だが、崩落現場には未成年が取り残されていた」
その言葉が灰瀬の心に静かに、重くのしかかる。
室内の空気が一気に張り詰めた。
灰瀬は目を伏せ、その事実を正面から認める。
「はい」
一切の否定も言い訳もしない。
「地下鉄側を逃せば、二次被害は拡大していた可能性が高かったからです」
「可能性――でしかないがな。だが……」
スクリーンに数字が示される。
被害予測曲線。
抑止効果。
警備局幹部は資料を閉じる。
「非常に冷静且つ合理的だ――」
その言葉の後に短い沈黙が流れる。
「だが警察は合理だけで動いているわけではない」
視線が灰瀬を射抜く。
「都民を……さらには国民を、“救えたかどうか”で見る」
灰瀬の喉がわずかに動くが、言葉を呑み込むしかなかった。
昨日の瓦礫の感触。途切れた鼓動。少女の未来が潰れる音。
「……承知しています」
声の質は崩さない。
だがほんのわずか、呼吸が遅れた。その様子を佐伯は隣で見守った。
警察庁企画課(通称ゼロ)が口を開く。
「“拡張”許可の発信源は? 」
一瞬の沈黙と「拡張」の謎の言葉に他の公安部たちがざわめく。
(能力のことを知っているのか?……それともブラフか? )
「規定内です」
佐伯が素早くフォローする。だが、それ以上は答えない。
「君には聞いていない、佐伯君。勝手に口を開くことを許可した覚えはないぞ」
ブラフの可能性が有る以上、詳細は言えない。
そして、その後の会議は険悪な雰囲気の中での追認で終わった。
今回の“A対”の判断は刑事である以上正当であり、書類上は、完璧だった。
だが退室する背中に向けて、誰かが小さく漏らす。
「……結局、切り捨てだろ? 」
小さな声。だが確かに届く問責する声。
灰瀬の足が一瞬だけ止まる。
だが、決して振り向くことはない……。
何を言われようと振り向いてはいけない。
それは甘んじて受け入れなければならない「事実」だったから―― 。
―――――――――――――――
この日も外は晴れ模様だった。東京の空は昨日となんら変わらない。
まだ残る煙の臭いと残骸以外は……。
佐伯が灰瀬の横で呟いた。
「気にするな」
灰瀬は無表情で答える。
「気にしてない」
そう、これは嘘ではない。だが、完全な真実でもない。
佐伯は足を止め灰瀬の肩に両手を置く。
「お前は刑事だ」
灰瀬がわずかに視線を向ける。
「いまこの瞬間は管理対象でもなんでもない。刑事だ。だから……」
(そんな目をしないでくれ……)
喉まででかけたその言葉を佐伯はそのまま呑み込んだ。やりきれない気持ちと一緒に……。
灰瀬はしばらく俯き、そして言う。
「俺は結果的に、人の命を推し秤って選んだ―― 」
佐伯は静かに頷く。
「分かってる」
「でも……」
“でも……”その言葉が何を意味するのか佐伯は理解している。
佐伯の視線が一段鋭くなる。
「……あれは国家の合理性だ」
落ち着いた静かな声で灰瀬を慰めるようにして話す。
「お前の考えじゃない」
そう、これは歪な組織がもたらしたものだ。
だから、それ以上は何も言えない。しかし灰瀬は懺悔のように吐き出し続ける。
「だとしても、俺は目の前の小さな命を救えなかった」
それは自分自身に対する事実の確認だった。
「あの行動が本当に正しかったかどうかも、俺にはもう分からない」
一瞬、声のトーンが低くなる。
「でも、俺はきっと納得していない」
それは初めての告白だった。
家族を救えなかった自分への罰として多くの人を救う。
そして組織として迫られる選択。
だが、自分はそのどちらでもないということへの違和感だった。
佐伯の胸の奥でまた何かが軋みだす。彼自身を守りたい。
だが同時に、その気持ちの正体が分からず恐れていた。
その違和感は、国家の理念と衝突する。
「……お前はどうしたい? 」
思わず口を突いて出てきた言葉。
灰瀬はすぐには答えなかった。
窓の外に目をやれば、遠くのビル群。組織に護られる均衡の都市東京。
「分からない」
それが正直な答えだった。
「でも……」
呟くような小さな声で灰瀬は続けて言った。
「次は、目の前を取るかもしれない」
それは宣言ではなかった。これは予感だ。
佐伯の背筋を冷たいものが走る。
それは国家の論理を外れる一歩に近づいたことを示している。
小さな、しかし確かな亀裂が灰瀬の中で生じ始める。
遠くで庁内放送が流れる。
通常業務開始。
世界はまだ整っている。
だがその保たれていた均衡は、小さな歪みと共に崩れ始めているのだ。
佐伯は灰瀬の横顔を見る。まだ壊れてはいない。
だが、確実で微細な変化を感じとった。
守る側に立つか。
観測する側に立つか。
彼の選択はまだ先だ。
だが佐伯にとっても既にそれは他人事ではなくなってしまった。
灰瀬が歩き出す。その背中は静かだ。
しかし昨日までとは、ほんのわずかに違う。罰ではなく、そこには明らかな意志が混じり始めている。
享受された均衡ではなくその外側へ、無意識に一歩だけ踏み出そうとしていた。
次回金曜日21時更新:
『みえない鎖は、引かれるその日まで――音もなくそこにあった』
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