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CENTRAL MUSIC & ENTERTAINMENT FESTIVAL 2025_CENTRAL STAGE 4/6〜ジャンルとスタンスの関係性〜

*2026 8/9にAI評価をchatGPTからの出力に変更
*11/28 <AI評価>を末尾に記載しました。

<はじめに>


noteの順番がグチャグチャなのですが、どうしても先に書いてしまいたくなったので、4/6に行ったフェス「CENTRAL MUSIC & ENTERTAINMENT FESTIVAL 2025_CENTRAL STAGE Day2」の感想を投稿します。
なぜかというと、予習として聴いていたキタニタツヤ氏の曲にハマりすぎてしまい昔のことを色々と思い出し、<おまけ>として最後に別扱いにしていますが、桜の時期に思い出した昔の音楽のことを今書いておきたかったというのが一番の理由です。
(とはいえ、先週書き終わらなかったのでその桜も終わってしまいましたが。。。)

席はアリーナでしたが、後ろのブロックの下手端だったため、正面は大きなモニターとスピーカー。
勾配が無いアリーナとステージは、私の様に背が低いとステージは人の頭で本当に微塵も見えず、モニターを観るしかありませんでした。
また、曲に合わせたライティングや映像等の演出も素晴らしかった様ですが、立ちはだかる壁のせいで(横に広がる観客席に対して、ステージは中央のみで左右はステージ前面位置に壁が張り出しているため斜めからはステージ奥が見づらい)、モニター上部や照明位は見えるかと思いきや、あまり見えませんでした。
音は最高に素晴らしかったです!


※4/14(月) 23:59までYouTube「THE FIRST TAKE」にてアーカイヴ配信を行なっていました

<角野隼斗>

トッパー(フェスではそう呼ぶらしい事を今回初めて知りました!笑)は角野隼斗氏。
真っ暗な中で登場されモニターに映るまでは定かではありませんでしたが…カスタムアップライトのミュート音が聴こえてきて…「ボレロ」だとわかりました。
会場からも「おお!」みたいな声が一瞬上がりましたが、会場は初めて聴かれる方も多いだろうにもかかわらず静まり返り、オーディオビジュアライザーによる波紋のイメージとともに、会場にその音が伝わっていくイメージがより印象深い演出!
(でも、目の前のモニターで見えるだけでステージでの全体像は見えません)
最近聴く事が多かった短縮版では「ボレロ」という音楽の特別な高揚感=真価が伝わらないと感じていたので、やはり全然違います!
最近はピアノの移動もスムーズで、当初は叶わなかった「圧のキープ」を表現としながらも躍動感も感じる素晴らしさ!!
(2024年のツアー「KEYS」ではピアノ間の移動で曲の圧が抜けてイマイチに、躍動的な表現でその移動をカバーする感じだった)
次はグランドピアノでの「7つのレベルのきらきら星変奏曲.」。
ボレロも含めて「THE FIRST TAKE」からという事なのですが、Level1はその時によって解釈が異なることを改めて感じました。
「THE FIRST TAKE」では、レベルの低さを感じる様な朴訥とした弾き方なのですが、今回のライブでは変奏として最小単位のテーマを聴かせるという意味で曲の美しさが際立つタイプでした(Eight JAMもこのタイプ)。

3曲目はグランドピアノでの「胎動」。
底からうねる様な躍動感が本当に表現しがたい感じですが、PAを通した音響にもすごく相性が良いと思いました。
「ボレロ」が漣の様な細かい波紋であるならば「胎動」は大きな川流れのような全体をも動かす力を感じます。
4曲目はカスタムアップライトでの「追憶」。
これも「胎動」とは逆の意味でPAを通すことに最も適した曲。いえPAを通さないと成立しないと言った方が良いでしょう。
今回は特に「カスタムアップライトピアノ」としての音だけではなく、演奏としての音の多彩さを感じました。
この曲も水がイメージされるのですが、メロディに対して高音でチラチラ〜と入る装飾音が、小さい小川の近くに繁る草木に溜まっていた露が落ちる感覚、もしくは光が入る洞窟で不意に水滴がと落ちてくるようでした。
装飾音・あしらいとしてではなく、ポリフォニーまでではないものの、別の要素としてのメロディと同等の存在感です。
改めてアーカイヴで聴いてみると、メロディ・伴奏・チラチラが同等に聞こえてくるので、まさかの手が3本あるみたい!!笑
「ボレロ」のように伴奏部分を右手や左手に分けて工夫されているのでしょうか??

「追憶」が終わっても会場には静けさが満ちていて、そのままアップライトでの坂本龍一氏のカバー「千のナイフ」の演奏に。
少し前の公開された「1 minute of "Sakura Sakura」でも内部奏法が結構使われていますが、この状態はまさに「RPGゲームでの新たな武器を手に入れた!」状態で、すで自在に操られている様に感じます。
ルーパーも使われているとは思うのですが、事前プログラムされた様な複数の音も感じましたので、クリックで同期されていたのかもしれません。
ジャケットの右襟の内側にイヤホンが見えているので、左耳だけイヤホンをされている???
「Human Universe」ツアーでもシンセサイザーを使われていましたが、クラシック表現をメインにしているのでここまで複雑な使い方ではない印象でした。
元の動画「坂本龍一 - 千のナイフ (Cover)」はどう考えても多重録音なのですが、同等のものをライブで成立させているかと。。。
ライブ演奏でこれを行うのは結構大きなチャレンジングだったと思われます。
(2月に行ったハニャ・ラニ氏のライブが半分位この様な感じで驚いたばかり)

この後はPenthouseから浪岡真太郎氏と大島真帆氏がスペシャルゲストとしてご登場。
冒頭のMCでは大島氏がオーディエンスに向かってスタンディングを誘い「自由に楽しんで!」と。そして「一難」。
この日の聴衆は結束バンドのファンの方が多かった様なのですが(私の周りはほぼそう)、初見であるはずの角野氏やPenthouseにも集中し応援して下さっていました。
なので、、、、残念ながら冒頭からノリが悪い手拍子が始まり、結局最後まで続いてしまいました。。。
最初から最後まで周りで手拍子されていたらピアノの音なんてほとんど聴こえないのです。。
曲を知らない人がアーティストへのリスペクトを込めて応援しようとすれば、手拍子しかありません。
私は星野氏の様に手拍子やコールを否定している訳ではありませんが、安易な「自由に楽しんで」という言葉は交通量が多い通りで交通整理をせずに混沌としている状態に近いと思っています。
先に書いてしまいますが、結束バンドでは手拍子する場所が音楽に合わせて決まっていて、それ以外はペンライトを振る音が出ない応援だった為、全くストレスフリーでした。
実は演奏中にずっと手拍子され続けていたのはPenthouse「一難」だけで、「恋におちたら」も「NaNaNa」以外は手拍子だったので、結局のところこの日の演奏の中で最も手拍子が多かったのはPenthouseだったということです。
バックがアコースティック楽器だけでコレは本当にキビシイと言わざるをえません。
PAを通しているとはいえ、歌の背景としてコードがなんとなくわかる程度しか聴こえませんから。
ちなみに、「恋に落ちたら」は「NaNaNa」と歌う方はいらっしゃらなかったので、私の耳的にはとても良かったのですが、Penthouseのコンサートなら大合唱になりますから…やはり私がPenthouseのライブに行くのは無理なのだろう…と思います。
ちなみに、YuoTubeのアーカイヴで観たYOASOBIが思いのほか観客に大声を出させる昭和ノリので驚いてしまいました。あれで演奏や歌が聴こえるのでしょうか???

いよいよキタニタツヤ氏とのコラボ!
東大同期の新歓コンパで出会いをユニークにMCで披露された後、1曲目はアップテンポの「Moonthief」。
こういう早い楽曲をピアノの和音だけでダンダンダンダンという伴奏すると、多くの場合は妙な独特のニュアンスが発生するのですが、それが全く感じられない素晴らしさ!
この「妙な独特のニュアンス」というのは、昔の「のど自慢」でアコーディオン伴奏で感じたような質感です。
賑やかにするためにたくさんの和音を使うものの、却って「バンド音楽の簡易版=無いものの不足感」を感じさせてしまうのです。
一方、バラードでピアノソロ伴奏の場合に不足感がないのは、ピアノとしての音楽性がバラードに生かされていると感じられるからです。
今回はテンポが早くリズムが際立つ曲でしたが、ピアノとして最も映える音色・音楽・質感として編曲が行われていると感じました。
アーカイヴで改めて確認すると「伴奏」というよりも「並奏(「伴」が従という意味を含むに対して対等という意味の「並」を使った造語)」に近い感覚なのです。
「Moonthief」にはピアノと歌の掛け合いの様な所がありますし、内部奏法など「ピアノとしての聴きどころ」も多く用意されていますが、そもそも「ピアノ編曲」として曲の捉え方が伴奏とは異なる全体性を持っているのです。
キタニ氏の歌は角野氏の編曲の範疇ではないのですが、仮想的にキタニ氏の歌までも編曲しているかのような視点での編曲とでも言えば良いでしょうか。
だからこそ、「並奏」であっても単独にピアノが前に出過ぎることもありません。
これは、オーケストラ曲をピアノ版に編曲されてきた事の成果かもしれませんし、その場で音楽を作り上げる即興性を生かした表現の結果かもしれません。
もちろん、素晴らしいキタニ氏の歌・存在感あってこそで、とにかくお二方の「並奏」が本当に素晴らしかったです!

次は「ユーモア」。
これはバラードなので、まさにピアノソロにうってつけの曲です。
これは「伴奏」タイプのピアノですが、そのピアノの質感にキタニ氏が寄り添われたことで、音源で聴いていた同曲とは異なる質感を生み出していました。
歌詞は自省的に思い出を語っている内容ですが、ピアノとボーカルという最小編成になったことで、実は却って外への広がりを感じたのです。
演奏としての殻が薄くなった分、より詩・ボエトリーリーディングに近くなり、その場で人が発している印象が強まったのかもしれません。
キタニ氏ファンの方もお二方の「ユーモア」が素晴らしい!というXのポストを投稿されていましたし「THE FIRST TAKEでもやってほしい!」というコメントも拝見しました。
私もぜひやってほしいと思う一人です。

最後は「ショパン:英雄ポロネーズ」です。
実際に生で聴いたのは「角野武道館」以来で、その時にも「(これまで以上に)自然な美しい緩急」を感じたのですが、更にもっと力が抜けた自由な抑揚を感じ、本当に素晴らしいとしか言いようがありませんでした。
もちろん生音ではないPAを通した音ですが、この力強さと優美さと繊細さと軽やかさは角野氏しか出せないものだと改めて思いました。
(これを書くに当たりSpotifyで冒頭30秒位を10人程聴き比べてみた!笑)
また、フジロックを思い出したという角野氏ファンのX投稿を散見したのですが、あの時は受け入れられるかどうかわからないもののロックの精神でロックのフェスにあえてクラシックで通した演奏で、私は今回とは意味が異なると思っています。
フジロックや京都音博を経た私の感覚としては「フェスに集う音楽好きの聴衆にはクラシック音楽の素晴らしさは必ず伝わる」という感覚しかありませんから。
角野氏がどう思われたのかはわかりませんが、フジロックの様な反骨精神ではなく、良い音楽は伝わるという信頼の上でクラシック音楽が演奏された様に思っています。
ただし、その感覚だけではこの「Centralフェス」では不足だったと思っています。
この部分、色々と考えることがあるので全演奏の感想の後<ジャンルとスタンスの関係性>で考えてみます。

<結束バンド>

アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の劇中に出てくるガールズバンドということで、事前にサブスク音源を聴いてみたら、とにかく演奏がめっちゃ上手い!!!
なのですが、独特のアニメ声が私にはキンキン耳に響いてしまい…残念ながら5、6曲しか聴けず、前奏部分だけ繰り返し聴く様な感じでした。
多少心配はあったものの、声優さんもライブでは録音音源よりも普通の地声で歌われることが多いので、まあ…大丈夫だろうと。

最初の1曲、めっちゃ上手いインストで始まりました!そうそう!これが聴きたかった!!!
バンドの方は男性のうえに年齢も結構高めで納得です!
というか、本当にガッツリとロックで凄くカッコ良いのです。・
ボーカルの長谷川育美氏の歌は、予想通りに音源よりも太めになっていたので無問題!
可愛らしさもありつつ、ハードなバックの音楽に負けない迫力!
声の可愛らしさとバックバンドの重厚さのギャップがたまらないのでしょうね。
私の周りはほぼ結束バンドファンの方で手拍子は音楽的にクラップが合うタイトなリズムのところだけ行われ、そこに部分的なコールが加わり、後はペンライトが組み合わされる完璧な応援です!
音楽に乗って踊るだけの楽しみ方をしている身としても、とても心地良くとにかく本当に楽しかった!!
途中でボーカルが青山吉能氏に代わられたのですが、バンドの情報がなかったため、まさかの「早着替え?」と一瞬思ってしまいましたが(モニターではモノクロだったの髪の毛が金髪であることもよくわかっていなかった)歌い方が長谷川よりもやわらかかったので別人!と気づきました。トホホ。。。
一つだけ残念だったのは、長谷川氏がステージの上手には何度も行かれたのに、私の居る下手側には一度も来られなかったこと。
全くステージが見えなかったので「こちらにも来るかも?!」と期待していただけに本当に残念でした。。。

<キタニタツヤ>

冒頭に書いていたように、2週間前からキタニ氏の曲にどハマりし、Spotifyのこのプレイリストばかりを聴いていました。

結果、演奏された全曲ともにサビはほぼ口ずさめる位には体に馴染んでました!!!!
つまり、ファンの方がコンサートに行くのとほぼ同じコンディションです。笑
セットリストはキタニ氏ファンの方々が複数Xに投稿されていたのですが、なかにはSpotifyのプレイリストYouTubeの再生リストを作成してくださっている方も。

  1. スカー

  2. いらないもの

  3. 悪魔の踊り方

  4. Rapport

  5. 人間みたいね

  6. 聖者の行進

  7. 化け猫

  8. 私が明日死ぬなら

  9. ユーモア

  10. ウィスパー

  11. 青のすみか

  12. 次回予告

  13. ずうっといっしょ

実は最初の1曲目が始まって感じたことは‥「ヤバイ!やはり結束バンドの演奏って、キタニ氏のバンドと比べてもやっぱりメッチャ巧い!!!!」でした。笑
特に「スカー」は結束バンド的なザ・ロック!という曲調だったので尚更です。
とはいえ、演奏はキタニ氏の世界観を表現するためのバンドな訳ですから、技巧的はそこまで重要ではないとも言えますね。
<おまけ>にも関係していくるのですが、キタニ氏のインディーズ時代の作品が好きでWikipediaで調べた所、今まで何と呼ぶのかわからかったジャンルも判明して嬉しい限り!!!
初期は「マスロック」の影響が強いとのことで、これをWikipedhiaで調べたら自分の趣味とドンピシャだったのです!

マスロック (Math rock) は、ロックの一種。キング・クリムゾンやスティーヴ・ライヒらの影響を受けた複雑で変則的なリズム、ギターを中心とした鋭角的なメロディや不協和音などが特徴である。

「マスロック」Wikipedia

キングクリムゾンは知らないのですが、日本の主なバンドに記載されていたmudy on the 昨晩と凛として時雨は知っていたからです(特にmudy〜は好き)。
冒頭に「昔のことを色々と思い出した」と書いた通りに、キタニ氏の音楽には日本の少し前の時代に存在した音楽が、今の時代に合ったスタイルで新たに息が吹き込まれているのです。それが本当に素晴らしい!!!
過去の音楽の影響が既視感ならぬ既聴感として感じられる場合もありますが、それが今の時代に合っているのですよね。。。
ボカロ的なオタク感とヒップホップ的な言葉のリズムとともに、湿った文学的背景を持つ日本のフォークや歌謡曲がベストな形で一つになっている様に思いました。
文学のことはよくわからないのですが(視覚芸術は文学の影響を受けているのでその範疇での理解)、なんというか…白樺派とダダイズムが一体になっているような感じとでもいえば良いか。。。
カウンターとしてのダダ的な虚無感やシュルレアリスムの無意味さに、達成不能かもしれない希望や理想が添えられている感じがするのです。
理不尽な現実に対して白樺派の様な理想や希望があるからこそ、虚無感や無意味さは青さ(厨二病的)に直結するという意味で整合性がとれているのです。
ただし、その批判性は声高に主張されません。
主観的歌詞とともに不安定な音楽性(不協和音や変拍子や早口でまくしたてるなど)は諦めのような形で表出しているため、批判性と虚無感・無意味さとが自然とつながっていて、内在する批判はその音楽の強さで示されています。
一方、人間の弱さや不完全さに寄り添うバラード調の曲は、文学部ご出身らしくメタファーに彩られ「抒情詩=叙事詩」が成立、本当に日本的です。

ライブでは一つ一つの歌や演奏に深い事を考えずに心地よく身を任せるだけなのですが、既に自分の中にある曲の鑑賞体験がプラスされることで、音楽鑑賞としてのイメージをさらに広げていく感じがするのです。
曲・音楽の解釈は自分の中で固定されているので、一回性にこだわる芸術作品の鑑賞とは異なり「思い込みの世界観」で完結する鑑賞行為でもあります。
今回、芸術としての音楽とロックやPOPSの様な大衆音楽との違いを自分がどう区分けしているのか考えるに至りったので、角野氏の項で「色々と考えること」と書いた内容とともに次項<ジャンルとスタンスの関係>に書いていきます。

ということで、ライブの感想を簡単に。
冒頭の「スカー」「いらないもの」はノリノリで最初から踊りまくり!!!
「悪魔の踊り方」はやはり昔の歌謡曲的で大好き!
「Rapport」聴いていたはずなのに、唯一「知っている」感がなくて知らない曲?と思ってしまった。。。苦笑
「人間みたいね」は、「あなたまるで人間みたいね」からのサビのフレーズがずっと頭に残っています。キタニ氏の「女ことば」の曲、ライブで聴いてもすごくカッコ良い!!!
「聖者行進」、冒頭も王道感のあるサビもどこか既聴感があるのですが、そういうことは余り関係なくただメッチャカッコいい!!!笑
「化け猫」ではちょっと猫歩きをされていて、が音源よりも「媚びてる感」があって可愛かった!
「私が明日死ぬなら」は、重い歌詞なのにリズムに言葉が乗っているので、特にライブでは言葉を意識せず純粋に音楽の高揚に乗れるます。
ただし歌詞を知っていることでその楽しみすら刹那的に感じるというメタ構造に!!キタニ氏の表現として真骨頂と言えるのではないでしょうか。
角野氏とのduoでも披露された「ユーモア」、バンドスタイルの場合は音楽世界によって完結しているため、却って思い出にまとわりつくノスタルジックな質感が提示されていた様に思います。1日で両タイプを聴くことができるなんて、凄い贅沢〜!!!
「ウィスパー」サビの部分で皆と手拍子で盛り上がる感じは、まさに応援歌!
「青のすみか」一斉を風靡したのでさすがに私も前から知っていましたが、改めて聴くと前奏や所々にマスロックの影響が感じられるのですよね。。。ライブではもうただノリノリです!笑
「次回予告」はモニターにもサビの歌詞が投影されたのですが全部歌えた〜〜!
もちろん声を出して歌う訳ではありませんが、口の中で歌って楽しかったです・
最後の曲「ずうっといっしょ」は、前奏がマスロック系からの女言葉の歌謡曲調に。
この辺りの音楽が、多くの大衆に支持されている事が昔を知っている人間からすると不思議な気持ちになるのです。
とはいえ、私が感じる昔の音楽的な要素と若い方が好む今っぽさは違う所にあるので、その絶妙な混在感・バランスが素晴らしいのでしょう。

で、凄く盛り上がったのに観客はあっさりとしていて、すぐに明るくなり拍手が引けてしまいました。
会場では???と思っていたのですが、ライブ中の撮影はOKの一方でアンコールをしないのがキタニタツヤスタイルという事を後で知りました。
なるほど、ある意味では石原裕次郎や山口百恵など昭和スター路線ってことですね。そこもカッコいい!!

いずれにしても、3組とも聴き応えのある本当に素晴らしいステージでした!!!


<ジャンルとスタンスの関係性>

感想を読まれた方の中には、この見出の唐突感に驚かれる覚える方がいらっしゃるかもしれません。
角野氏の演奏は、それを目的として出向いた甲斐があったと感じられるほどの素晴らしさでしたが、他のお二方に比べるとフェスとしては違和感がありました。
フジロックを思い出されたというファンの方の投稿も拝見しましたが、エンタメとしてのロック&JPOPのフェスにクラシックを持ち込んだ点は共通だとしても、Penthouseやキタニタツヤ氏とのコラボも行われている以上、あの時のようなアウェイな状態が前提ではありませんし、角野氏も度々「楽しんでますか?」と聴衆に問いかけていました。
今回は、フジロックのような「聴衆と距離のある孤高な存在」ではなかったのです。
一方、聴衆とともに音楽として聴衆とともにその場の音楽シーンを一緒に作り上げていくのが大衆音楽としてのライブ・コンサートとして考えると、聴衆への寄り添い方が不足していて角野氏の音楽性を言葉やメッセージで伝えようとする意思が感じらず、そのスタンス・立ち位置が、とても中途半端に感じられたのです。
中間領域として両者のメリットを体現するのではなく、どっちつかずでどちらにも属することができない中途半端さを感じたのです。

そもそもこの「CENTRAL MUSIC & ENTERTAINMENT FESTIVAL 2025(以下Central フェス)」というのは、今年から始まったSonyのフェスで、日本の音楽をそっくりそのままの形で海外に輸出(紹介)するというのがコンセプトです。
キタニ氏はヘッドライナーとして、「ゴチャゴチャのメチャクチャ感、共通性がなさそうな所が日本文化的、それをそのまま海外に紹介する」という様な意義・コンセプトをしっかり説明されていました。
結束バンドも日本のアニメから世界への広がりをMCで語られていました。
アーカイヴで見た、Creepy Nutsも日本語のラップを海外に届ける事の意識や、YOASOBIは洋楽だけではなく演歌や歌謡曲を受け継いだ上での日本のJ-Popについて語っていました。

角野氏はこ「楽しんでますか?」「楽しいですね!」というばかりで、「Centralフェス」について何も言及されることはありませんでした(アーカイヴで観るとなんとかの一つ覚えの様に感じるファンとしての残念さ)。
主催側が何を期待して角野氏をブッキングしたのかはわかりませんが、単に音楽的バリエーションと集客のためというよりも、ヨーロッパ発祥のクラシック音楽を日本人だからこそ自在に表現できる、その部分を期待していたからだと思うのです。それはPenthouseのメンバーとしての活動も含めて。
「THE FIRST TAKE」ではSony系のアーティスト以外の出演を「例外扱」としている事を考えれば、Penthouseのゲスト出演は角野氏がSonyから特別扱いされている事の証でもあるはずです。
Penthouseには英語的発音を用いた日本語や日本語的発音を用いた英語など、「Central フェス」のコンセプトを体現できる作品があるのですが、そういう選曲ではありませんでした。
この日はどんな音楽も受け入れて下さる素晴らしいオーディエンスでしたが、私は性格が悪いので、もし他バンドのファンなら「まだ売れてないバンドの宣伝ね。だってここに出演する必然性がないし」と白けていたかもしれません。

しかしながら最も違和感が大きかったことは、角野氏が「千のナイフ」の曲説明をしなかったことに尽きます。
坂本龍一氏の第一作目が「千のナイフ」なのですから、「Central フェス」の1回目に相応しい楽曲なのです。
意図しての選曲だとは思うのですが、それを語らずにいた事は主催側が角野氏に期待していた役割を一つ放棄した事に近いと私は思うのです。
後に詳しく書きますが、芸術的鑑賞スタイルの「多様性を確保すること」や「押し付けを排除する」という配慮の結果なのかもしれませんが、だとしたら「楽しんでますか?」という問いかけやキタニ氏やPenthouseのコラボとは矛盾してしまいます。
結束バンドの若いファンの方々は坂本氏のことは余りご存知ないはずで、日本人として世界で活躍した氏の存在と坂本龍一個人名義の作品として初めて世に出たその作品の意義を彼らに知らせて頂きたかった。というか、彼らに知って欲しかった!!!
「千のナイフ」はSonyから出ていませんが、Penthouseという別レーベルの作品を発表できる自由を得ているい今日、問題なく紹介できるはずです。
「自由に楽しんで」という言葉はその音楽を自由に楽しめるバックボーンを持った場合にのみ成立する言葉なのです(実は能楽も「自由に楽しんで」と常套句の様に使われるのですが、何も知らない人が自由に楽しめる訳ない)
キタニ氏が度々責任という言葉を用いていましたが、クラシックを背負っているはずの角野氏はその責任を放棄しているかの様な気がした程です。
普段聴かないタイプの音楽を真剣に聴いて下さった方々の「知る」という機会が失われたのは、とても残念です。
ただ、これをなぜ私が「違和感」と書いたのかというと、、、
クラシック界における角野氏の存在は、聴衆への働きかけが最も大きいタイプの演奏家であるも関わらず、この場ではなぜそれができなかったのか‥という疑問なのです。
一回目のフェスのトッパーとして、他の方がどういうスタンスでステージングをされるのか見当がつかなかったという可能性がありますが、角野氏ファンとしては「引けている」感じがして、本当に残念でした。

なぜこの様なことが起こったのか、クラシックとエンタメ系大衆音楽との違いがここまで明確に出てしまった要因は何なのか、ここからがこの項の本番です。
私は経験値の問題だけだとは思えなかったのです。
角野氏の演奏は確かにボーダーレスなのですが、そういう観点とは異なる別のベクトル、両者を分つものが別なるのではないか…と。
頭の中で思っていると、不意にSNSにおすすめに流れてくるのが最近多すぎて本当に恐ろしい。。。
とあるThreadsの投稿(しかもリプ)が数日遅れで流れてきたのです。

この二つ目のスレッド(リプ)の方!!!

ここではロックとPOPSが分かれていますが、ここはたぶん大衆音楽として一緒にできるので同じ扱いにします。
また、クラシックとジャズの違いも、どちらも発信側に主体があるのでその違いはそこまで大きくはありません。
が、大衆音楽になると、主体がいきなり受容側になるのです。
表現主体はどのジャンルでも表現側にしかないはずなのですが、大衆音楽の場合は聴衆を含めた「ミュージックシーン」を主体に扱わないと成立しないという意味だと思います。
クラシックは大衆支持が大きくなくとも作品を主体とする批評家やコンクールでの専門家の評価がありますし、ジャズは売れなくても演者同士で互いの演奏を認め合いながら細々と活動を続けることができますが、大衆音楽は大衆支持がなければ活動を続けることができないという意味でも、主体は受容側の聴衆になると言えるのかもしれません。

この部分、複雑で混乱しがちなので少し整理します。
私は広義芸術としてクラシック音楽を受容しています。
主体は作品にあると考えていますが、上演芸術としてその表現者の解釈や演奏技術も作品として含んでいるのです。
ですから、広義芸術への対峙と同じく正誤はありませんし、自分の好みとその時々の自分のコンディションによる影響は鑑賞の前提です。
一方、古くからのクラシックファンの方は主体を曲という作品に置くため、再現表現において「正誤」が発生するのです(この思考モデルが理解できた事が今回一番の収穫!)。
ただし、作品の概念は異なるものの私と古くからのクラシックファンの方とは「主体は作品にある」という意識では同じと言えるでしょう。
一方、大衆音楽の場合はその主体は聴衆にある訳で、これがちょっとややこしい。。。

主体が聴衆にあるという事を分解すると、その主体は聴衆が作り上げた仮想イメージだと考えられるのです。
このイメージは、表現性と表現作品とともに表現者のキャラクターや容姿も含んだものとして、聴衆の中で形作られていきます。
エンタメ界の表現者の存在は、聴衆によって記号化されたイメージであり本人そのものではありません。
聴衆によって記号化されたイメージ=偶像です。
主体=鑑賞の対象は表現者としてのキャラクターと表現性と作品作品とが一体になった聴衆が抱くイメージなので、それらを分解して切り離すことができないのです。
たとえ表現者本人であっても、そのイメージをコントロールできないという意味でもあり、その主体は聴衆にあるということができるでしょう。

角野氏の音楽性が素晴らしいと感じた結果としてファンになっているのにも関わらず、クラファンの方々が「アイドル的」と角野氏ファンを揶揄する要因は、たぶんここにあります。
クラファンの方の鑑賞対象は作品(曲)にあり、音楽解釈の基となる奏者であってもそのキャラクターは主体とはなり得ないからです。
また、私が「〜日本道館」「〜ウィーン放送響」に書いた様に、角野氏個人を讃えるファンダムの動向に違和感や疎外感を覚えるのも、主体としている対象が異なっていらからだというのがわかります。
これは、良い悪いの問題ではなく違いです。

私自身、角野氏の様な芸術基盤のスタンスで他の音楽を聴いていないことに気づきました。
キタニ氏のライブでは、音源で聴いていた自分の楽曲解釈を音源とは異なるライブの演奏に投影しながら鑑賞しているのです(感想をみればお分かりだと思います)。
この鑑賞構造が一回性を重視する芸術的鑑賞とは全く異なっています。
また、その場限りでしか生まれ得ないセッションを環境として楽しむジャズとも違います。
芸術としての音楽鑑賞の場合、いかに自分の思い込みを排除しその場で奏でられる音楽を鑑賞できるかが重要で、やり直しがきかない一回性の真剣勝負の様な所があるのですが、私にとって大衆音楽のコンサートは自宅で音楽を聴いている延長線上のままライブの臨場感や会場での一体感を楽しむ感覚なのです。
つまり、表現者だけの問題ではなく音楽作品においても先に記号化・特定のイメージ化を行なった上でライブを鑑賞するのです。
だからこそ、決まった所で声を出したりクラップしたり手を振ったりすることが楽しい!
主体が聴衆にあるということは聴衆が形作る記号性=イメージが主体であると言う意味で、聴衆に主導権がある以上は表現者本人にも厳密にはそれをコントロールができません。
ちなみに、ジャズは異世界に没入し深く思索することは少なくただ心地よさに身を任せるので最も自分の好みに影響されるかもしれません。
ちなみに、私自身もある程度は自己イメージの投影として大衆音楽のコンサートを鑑賞してはいるのですが、何をどうしても「そこで奏でる音楽が第一優先」というスタンスは最後まで抜けないのです。
だからこそ、その場で流れている音楽が阻害される音に不快感が募るのです。
他の方は、そこで聴こえてくる音楽が手拍子や掛け声で消されたとしても、自己イメージと一体となったイメージの中で音楽の楽しさを味わうのが鑑賞ですから、それが最も楽しい状態と言えるのではないでしょうか。
とはいえ、一体化する楽しみがある事も知ってはいるので。。。
わがままな事を言えば、音楽的に同期するのに適したサビの一部だけが手拍子や掛け声が掛かる程度で他はペンライトかダンス等の音が出ない応援を求めてしまう訳です。

話は表現側になります。
聴衆のイメージは表現者ですら完全なコントロール不能だとはいえ、何もしなければ「聴衆と表現者によって作られるイメージ=包括的な音楽氏シーン」は成立しません。
というか、そのイメージが聴衆側に形作られなければ「売れない」という事です。
だからこそ、聴衆への働きかけやイメージづくりが必要になるので、それは聴衆に媚びている訳ではありません。
音楽表現とともに表現者が聴衆への働きかけた結果、聴衆に生まれる「聴者のイメージ=偶像」が主体という事です。
私生活への賛否に口を出したくなっていまうファン心理も、聴衆側が作り上げたイメージとの相違が生じた場合に起こり易いのではないでしょうか。
しかも、記号化されたイメージと聴衆とは接している・同化していると言い換えることができるので、同化的な意味でエロスが大きくなるのも必然と言えるでしょう。

ここまで書けば角野氏のその存在をどう受容するのかは大きく三タイプに分かれるといえるのですが、それぞれの受容スタンスがくっきり分かれている訳でもないので、角野氏に対する反応はザワついて当然と言えるでしょう。
ファンの方々が語る「先駆者は批判される」という意味が無いとは言いませんが、そこを評価している私自身が他ファンの方との違いを実感するので、そんな単純な話ではないと思っています。
まあ、そのザワザワする状況自体が現代の先駆者の有り様だと言えばその通りではありますが、音楽のジャンルがますますボーダーレスになっても、(表現者・鑑賞者ともに)無意識に生じている主体の違いは簡単になくならないでしょうね。。。
なので、この話は結論はありません。
皆様がそれぞれのスタンスで鑑賞・受容していくしかないという事です。
とはいえ、大衆を主体とした受容はマスメディアが発達した後のものでしょうから、ジャンルレスになる一方で大衆の好みが分散化する状況に見合う「緩やかに統合する新しいスタンス(発信側も受容側も含)」が今後成立する可能性が無いとは言えません。
まあ、私には皆目見当がつきませんが。笑

今回の角野氏の演奏は本当に素晴らしくコラボも含めてとても満足できる内容でしたが、私は特に角野氏の文化的側面を重視しているという事もあり、「あれほど特別扱いしてもらっていたのに…」という残念な気持が最後まで残ってしまいました。
第一回の「Centralフェス」のメインステージのトッパーとして、その役割は果たせていなかったと言わざるをえませんでしたから。(Yoazobiの赤レンガ倉庫でのライブでは、トッパーを務める事の意義もすごく言及されていました)
これは、フェスとして大衆音楽を鑑賞するスタンスから角野氏のステージを観ていたからで、角野氏の通常のコンサートを鑑賞するスタンスとは私自身が一部異なったということです。
一方、この日の素晴らしい聴衆の皆様でなければ角野氏ファンとしてこんなに楽しめなかったかもしれず、それには本当に感謝しています!!!
自己イメージを大切に音楽を楽しむ一方で、フェスの場で出会った音楽を受け入れ・楽しむ理想的な聴衆像だと感じました。

<おまけ>

予習として聴いていたキタニ氏の音楽から、15年位前にインディーズのロックバンドが好きで極小ライブハウスに通っていた頃に好きだった音楽性・質感を感じて本当に驚きました。
バンド名を出すと身バレするリスクがあるので好きだったバンドをαとしておきます。
(ちなみに、このnoteでは学生時代も含め音楽を聴く趣味はなかったと書いていますが、それは嘘ではなく、2008年頃からちょっとした縁がありロックバンドとジャズ系のユニットのライブに行く様になったにすぎません)
今回はそのバンドαではなく、音楽性は異なるものの互いに実力を認め合って研鑽に励んでいたバンド達です。
私にとっては、ヒットチャートを賑わしている当時のどんな音楽よりも彼らが奏でられていた様々な音楽が本当にカッコ良かったのです。
ちょうど、レーベルを経ずにCDやiTunesで音源を発売できる様になった頃で、今でもそれらの作品は愛聴しています。
Centralフェスの当日にキタニ氏がNHKに「Venue101」に出られ、最初に出演したライブハウスとして80人規模のSHIBUYA DESEOをが出ていましたが、私的には上等な売れ線のライブハウス!。笑
私が観ていたライブは、対バンは4〜5バンドで観客なんてまとめて20人いれば良い方で、リリパだと3マン程度のお付き合いで30人位という感じでしたから。笑

バンドA
特に思い出したのは本文でも書いた「悪魔の踊り方」で、キタニ氏が他とは異なる裏返した発声や巻き舌で歌われ、楽曲的にも昭和の歌謡曲的な曲調などから思い出されました。
https://www.youtube.com/watch?v=1cuPF-8t1Ek
調べてみたら「全裸監督」に使われていたそうで、余りのカッコ良さに調べたという熱のこもったnoteもありました!(上記とは異なるMVあり)
このバンドはデビューアルバムリリース直後に活動休止してしまったのですが(解散というアナウンスもなくフェードアウト)、驚く事に2013年発売なのにタワレコでは今でも買える??「全裸監督」の効果?(いや、でも取り寄せなので実際には買えないかも)
「全裸監督」公開の方がキタニ氏の「悪魔の〜」収録デビューアルバムよりも遅いので、こういう系列は昔からあったのだろうと思っています(イエモンや椎名林檎氏等もその路線と言えなくはない)。

バンドB
当時は湿った四畳半フォークの世界観+変拍子ロックという感じだったのですが、これもマスロックの影響という事を今回知りました。笑
https://www.youtube.com/watch?v=EK3PtStKL2U
そうそう、このボーカルの方は確か東大ご出身です。笑
動画では結構観客がいる様に見えますが、前に詰めているだけで10~15人位。後ろはガラガラ。笑

バンドC
ジャズっぽアレンジもあったりして、ノスタルジー溢れる湿った質感をおしゃれに音楽にしているバンドでした。
「ユーモア」の様に昔の事を思い出す「叙事詩が抒情詩になっている曲」凄く素敵な曲があるのですが、残念ながら検索してもネット上にはありませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=gyln7jdb6Ok
https://music.apple.com/jp/artist/seseragi25/321207679
※このバンドは割と早めに解散してしまったので、バンドAのメジャーデビューアルバムはこのバンドのドラマー。

キタニ氏の素晴らしさは、昔の様式から確実につながっているだろう少々オタク気質の音楽性を感じつつ、現在進行形で「キタニタツヤ」としてのスタイルを成立させている所です。
私的には、フォーク・演歌・歌謡曲から続く日本独自のロックの流れを現代らしい新たなサウンドとして蘇らせてくれたとい感動がとても大きい!
まさに「Centralフェス」のコンセプトを体現している気がしました。

コンサートの翌日に桜の花びらが散るなかで彼らの音楽を聴いていたら、懐かしさと切なさでなんともいえない気持ちになりました。
どれだけ一部の人(専門家含む)に評価が高くとも、大衆音楽は売れなければ続けていくことはできない、売れることが必要条件なのです。
そういう意味でも主体は聴衆にあるということです。

新_AI評価(Googleドキュメント)_chatGPT

AI評価(Googleドキュメント)
Geminiでは論としての形式的整合性と安易な褒め批評にしかならないため、chatGPTによる新たなAI評に変更しました。
評論文自体は記録として残しておきます。

■AIによる全記事の概要と評価へのリンクはこちらからご確認ください


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください