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音楽を好きになるという事(本文)

まず、初めに重要なお知らせです。

記事<音楽は果たして「エンタメ」として考えて良いのか?>のタイトルを変更させて頂きます。
新しい記事タイトルは<「音楽」は果たして「エンタメ」なのか?~「アート」がなぜ「まなび」に?>と致します。
タイトル変更の理由は、この問題を継続して提起したいからです。ご了承頂きます様お願い申し上げます。

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【記事本文】

今回は楽曲ガイドから離れて、私が音楽を好きになった理由や環境をここに記したいと思います。メンバーの皆さんの音楽ライフの参考として頂ければ幸いと思います。

なお、https://note.com/music_player/n/n758b29b4030fの公開記事もお読み頂けると幸いと存じます。

私は学校教師だった父と農家出身の母との間に次男として誕生します。まだ就学前ですが、ヴァイオリンを習わせようと父がヴァイオリン教室に私を連れて行った記憶があります。私はあまり気乗りせず、生まれて間もない子猫をもらって帰宅した記憶があります。子猫は残念ながら、間もなく死んでしまいました。

それから数年、私は家にあったレコードに興味を持ち、当時家にあった真空管式の電気式蓄音機でレコード(SP盤/LP盤)を聴き始めます。その中で頻繁に聴いていたのがSP盤でした。特に興味を持ったのが、赤いPOLYDORレーベルの14面のベートーヴェンの第九だったのです。演奏者はハッキリは覚えていなかったのですが、調べてみて初めてオスカー・フリート指揮/ベルリン国立歌劇場管弦楽団&ブルーノ・キッテル合唱団https://www.youtube.com/watch?v=_ObkX7fa3VAと分かった次第です。

第九は他にもフランツ・コンヴィチュニー指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウスO盤(PHILIPS)https://www.youtube.com/watch?v=t8FCGs0Sfpgとシャルル・ミンシュ指揮/ボストン響盤(RCA-Victor)https://www.youtube.com/watch?v=BlzB8KYnR8E&t=7sのステレオLPレコードもありました。

小学校入学後の記憶ですが、昭和41年5月28日にNHKが主催した、京都市交響楽団(京響)の「第九」コンサートに家族4人で出掛けたのです。第3楽章で気持ちよくなって眠りかけた記憶があります。もちろん、あのファンファーレでハッと目が覚めましたけどね(笑)。

その前後だったと思いますが父親が市民オ-ケストラに参加したのです。何とパートはファゴットです。期間は1~2年間だけだったと思いますが、その練習はもちろん、楽器を一生懸命手入れしたり、リード作りを観ていた記憶が私にハッキリとあるのです。

その後、不思議と自然に(?)音楽が好きになっていたのでしょうね。家にはピアノがあって兄はピアノ教室に通っていましたが、私は特に習い事にも通ってはいませんでした。ところが兄は私が小2の時に突然ピアノを辞めてしまいます。家で弾き手の無くなったピアノを私が適当に弾いていたのを覚えています(笑)。

私は既に音楽が好きになっていたので、小学4年で初めてピアノ伴奏をします。楽曲は「緑のそよ風」です。なんとかそれを弾きたいと思って、猛練習した記憶があります(笑)。それをきっかけに、翌小5で合唱部に入りますが、ピアノ伴奏からは遠ざかります。でも何とか弾きたいという気持ちからNHK合唱コンクール課題曲「空がこんなに青いとは」の伴奏の練習はしました(笑)。当時新設された民放テレビ局の少年合唱隊(現在は少年少女合唱団)にもボーイ・ソプラノで参加しました。

その翌年、小6で初めてピアノの先生に師事する事となったのです。もちろん、合唱部もそのまま続けます。NHK合唱コンクール課題曲「地球の子ども」の伴奏を弾く事になります、翌年は中学校へ進学します。

中学校へ進学して驚いた事は、中学校には合唱部が無かったのです。恐らく担当の先生の趣向と関係していると思うのですが、その先生は合奏中心だったのです。学校にチェロやホルンなど幾つか楽器があった記憶があります。

一方で、ピアノを師事し始めた先生はピアノ以外の話題は殆どありませんでした。しかし私は、レッスン曲とは別に、自分が弾きたいと思った楽曲の楽譜を父親の楽譜棚から幾つか見つけては、自己流に弾き始めていたのです(笑)。そこにはベートーヴェンの『悲愴』や『月光』ソナタ、に加えてシューベルトの「未完成交響曲」(ピアノ・スコア)。さらにはメンデルスゾーンの『紡ぎ歌』、ブラームスの『2つのラプソディ』、ショパンの『英雄ポロネーズ』、リストの『愛の夢第3番』や『ラ・カンパネラ』、ラヴェルの『水の戯れ』などが掲載された春秋社のピアノ楽曲集もありました。

今になって振り返ってみると、ただ純粋に音楽を楽しみたかったという気持ちが、それだけ強かったのだと思います。そうした中で、中2になると中学校の音楽環境は一変しました。新しい音楽の先生が赴任してきたのです。しかもその先生が学級担任になったのです。

もちろん学校に合唱部ができましたし、中3の時には私も伴奏する事となったのです。

さらに個人的に弾きたい曲として、この中学時代にはベートーヴェンの『皇帝』、チャイコフスキーの1番、シューマン、グリーグ、ラフマニノフの2番などのピアノ協奏曲の楽譜(オーケストラパートをピアノ譜として記載した練習用のピアノ・スコア)を、自分のお小遣いで購入して個人的に弾いて楽しみました。同時期に購入していたレコードや録音テープと同じ感覚です。

もちろん、いずれも最初からすんなり弾ける訳ではありません。最初は部分的に弾くことから始めましたが、結果的にそれが自身の読譜力や初見能力を鍛えてくれたと思います。

日本楽譜出版社の『運命』のピアノ編曲スコアや、ムソルグスキーの『展覧会の絵』も購入しました。

こうして、楽しい2年間と高校受験を迎えたのです。

余談ですが、ブラームスの1番の協奏曲は高校時代に、ショパンの1番の協奏曲は大学入学後に、MMO(ミュージック・マイナス・ワン)のLPレコードを購入した際に付属したピアノ・スコアを入手します。

高校進学は大きく迷いました。音楽は続けたいのですが、市内の県立進学校は競争率も高く、その後の大学への道筋も見えない状況です。一方市内の某総合大学付属高校なら大学進学への道筋はハッキリ目標が観えます。最終的に大きな経済的負担を掛けますが、後者の私立高校への進学を決断しました。

しかし、そこには大きな誤算もありました。入学してみたら、音楽の授業は一切無いのです。あるのは書道のみだったのです。更に部活動も音楽が関係するのは吹奏楽部だけだったのです。それは高校の歴史上、応援部と並行して作られた部活動だったのです。つまり、本来の音楽としてのアンサンブルを楽しむ形である以上に、学校応援の一部として優先された存在だったのです。

私は既にオーケストラの魅力に触れていましたし、絶対音感も身に着いていたので、C 管であるフルートを選んだのです。もちろん、吹奏楽と言う限られた楽器範囲での合奏を経験する事となったのです。

一方のピアノも続けますが、ピアノを師事している先生は、相変わらずピアノ中心の話だけです。私がブーレーズ指揮/BBC交響楽団のコンサートを聴きに行くと言う話をしても、あまり関心が無い様だったのです。もちろんそこにはブーレーズの日本初演となる「リチュエル(ブルーノ・マデルナの追悼のために)」が含まれていましたけどね(笑)。そして、プログラム後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」全曲だったのです。

でも、あのコンサートに出掛けて本当に良かったと思っています。それがきっかけで音楽観が大きく広がったのですから。それが無かったら、ELPや冨田勲との出会いも無かったかも知れないのです。それが、きっかけでストラヴィンスキーをはじめ、プロコフィエフやバルトークやブリテンなど数多くの現代作品への扉を開ける事となったのです。

更に高2の時ですが、バンドジャーナルと言う吹奏楽雑誌にモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466の第2楽章(ロマンス)の吹奏楽編曲のスコアが掲載されたのです。私はこれを利用して市の吹奏楽祭での演奏に挑戦してみたのです。(スコアからパート譜を作り、指揮は進路が決まった卒業間近の3年生にお願いしました。)

その後、私は1978年に総合大学の音楽学科へと進学します。この音楽学科で出会った2人の作曲科の同期生をはじめ、同期の友人から大きな影響や刺激を受ける事となりました。大学進学後は、中学時代にピアノ・スコアで親しんだ協奏曲などをポケット版のフルスコア(総譜)で買い直したり、新しくプロコフィエフの3番、ラフマニノフの3番、パガニーニ狂詩曲のピアノ・スコア、さらにはシューマンの『ピアノと管弦楽のための序奏とアレグロ』などを精力的に購入していきました。

オーケストラのピアノ編曲という意味では、R.シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』(1台用)やラヴェルの『ダフニスとクロエ』(2台ピアノ用)の楽譜を購入したのも大学在学中だったと思います。

そして悩みに悩んだ末、長年親しんでいるピアノ演奏を核にする事を決断してピアノ科に転向します。在学中から卒業後にかけて、私はピアノを単にソロ楽器として演奏するだけでなく、「伴奏」という形を通して他者の音楽と深く交わる機会を数多く得る事となります。ある時は器楽奏者と対峙し、ある時は声楽家のブレスに寄り添い、また学内では合唱団やオペラの巨大なアンサンブルをピアノと言う代替え楽器の音で支える。丁度コバケン(小林研一郎氏)の第九の殆ど初見だった臨時伴奏依頼もこの時期です。

また、同期の学生を通して法政大学交響楽団の定期演奏会にチェレスタとオルガンで出演する事になります。(指揮は当時N響第1トランペット奏者だった福井功氏)それぞれの現場で、演奏家の卵たちが発する生のエネルギーや呼吸、そしてスコア全体の構造を、文字通り一番近い場所で常に浴び続け、少しは身に着いた事と思います。

同時に、日々の生活の中では膨大なレコード録音やFM放送から流れる古今東西の多様な演奏に日常的に触れる事で、自分の周囲にある音楽の範囲を、古典から現代、器楽から舞台音楽に至るまで、より広大に、多面的に広げ続けてきたという事になると思います。

更に、学内で受けたある講義がきっかけで「拍子感」の西洋と日本(東洋)の決定的な違いも、より明確に意識する事となったのです。

つまり、幼少期に実家で童謡と共に聴いたSPやLPの音楽、小学校1年生のあの日の体感を根底に植え付けられた『第九』の生演奏、高校時代の吹奏楽の経験とブーレーズが鳴らした現代の鋭利な音響体験。そして、大学以降の圧倒的な数の伴奏現場での実践と、放送や録音を通じた絶え間ない音楽環境。これらすべての経験と感受性、そして演奏家たちの演奏の記憶が、何層にも積み重なって、現在の私の音楽的視野を形作っていると思うのです。

卒業後も研究生として大学に残り、様々な音楽活動に挑戦しました。コスモポリターナ合唱団へのエキストラ参加や東京ムジカクライスの学校公演、そして東京アルテシェニカ研究所等の伴奏を含めた経験が私の音楽経験をより豊かなものとしてくれました。最終的に演奏家としての道を諦める事になりましたが、決して後悔はしていません。

ピアノ科出身でありながら、なぜ私がオーケストラや声楽、合唱、オペラといった音楽全般を、それぞれの様々な視点で立体的に語る事ができるのか?その答えは、これまでの歩みの中で、本物の音楽と本物の距離で実感を伴いながら生活してきた、この膨大な経験の中にあると思います。

こうした私自身の過去を振り返ってみると、自分の音楽に対する興味がどの様に芽生え、育まれて来たのかがよく解ります。そうした音楽に対する興味の芽生えと育みがあって今日に至っていると思うのです。しかし、なぜ、それを事細かに分析してここで説明しているかと言うと、それを意識している方が殆どいないからなのです。

多くの音楽ファンは、こうした経験(体験)の積み重ねを「自然で当たり前の事」として頭の隅に片付けてしまっているという事だと思うのです。だから、その重要性を改めて十分に意識して欲しいと思うのです。あらゆる音楽ファンがそれを意識する事によって音楽は大きく「前進」すると思うからにほかなりません。

音楽は20世紀にその「商業化」によって大きく変化してきましたが、音楽の「本質」は「商業化」ではないと思うのです。私がこれまで培ってきた様々な感覚や感受性を、引き続き皆さんと少しでも分かち合いながら、温かい交流を広げていけたらと思っています。

どうぞ引き続き宜しくお願い致します。

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なお、マガジン『音楽の本質』内の記事を併せてお読み頂けると幸いです。




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