モッコウバラは蕾を抱く
夏の日差しもいよいよ本格的になっていく。
あちらこちらの家庭に咲くバラは、鮮やかに咲き乱れる姿が見て取れた。
妻は時々、スーパーの帰り道、
『あっちの道通って帰ろうよ。』
と遠回りをした。
『あそこの庭のバラがさ、すごい綺麗なんだよ。』
なんて言いながら。
ある日曜日の朝、
『ローズガーデンに行こうよ。』
と妻が言った。
最近バラに興味を持ち出した妻は、モッコウバラという種類の苗を買ってきて、毎日水を撒いていた。
バラか。
バラにはどこか、必要以上に艶やかというか、気障な印象があり、野花ばかり見ている私の好みではなかった。
でもこの前、子ども達とお散歩してる時、木々の隙間に咲く、ノイバラを見つけたっけ。
あれもバラの仲間と思えば、まぁ、見に行って損する事もないだろう。
そんな事を思って、
『いいよ、行こうか。』
と承諾した。
台風一過の晴天は、7月のような鋭い日差しを子ども達に向ける。
日焼け止めを塗って、ハットを被せてあげて、私たちは車に乗り込んだ。
『いい天気だねー。』
と妻は言う。
『そうだね、なんか空気がスカッとするね。』
私は答えた。
雨に湿った畑は土埃を抑え込み、何も漂わない空間は、遠くの山の稜線まで鮮やかに見通せる。
道の脇に立ち並ぶ木々は、風を受けてさわさわと葉を踊らせた。
(ああー、登山に行きたいなー。)
そんな事を思ったけど、家族の時間にそんな事を言うと、たまに妻は嫌そうな顔をするので、私は黙っておいた。
数十分の後、車はローズガーデンに到着する。
移動時間がそれなりにあった為、子ども達は後ろの座席で眠ってしまっていた。
『うわ、すごいお客さんだね。』
妻が、少し嫌そうに言う。
駐車場には数多くの車が駐車しており、園内の賑わいぶりが容易に想像できた。
私は、
『そうだねぇ。』
などと答えながら、
(みんな、そんなにバラを見たいもんなのかな?)
なんて事を考えてた。
私はいつだって時間さえあれば、海にいくか山に行くか、どちらかなのに。
『ほらー、二人とも着いたよ!』
私がそう声をかけると、いかにも二人して、
【私たちはまだ眠いんです。】
みたいなリアクション。
車から降ろそうとするが、4歳ちゃんは、
『抱っこー!』
と抵抗する。
一方、妻が対応している2歳ちゃんは、
『おりない!!』
降車そのものを拒否していた。
降りないと来た意味がないだろ。
仕方ないので、
『…わーかったよ、ほら、おいで。』
と、私は4歳ちゃんを抱っこしようとするが、
『ママがいいー!!』
と騒ぎ出した。
『…ママ、変わろう。』
そう声をかけて、私が2歳ちゃんを抱っこして、妻は4歳ちゃんを抱っこした。
これから私たちは、4歳という17kgの荷物と、2歳という12kgの荷物をそれぞれ手に持ち、5ヘクタールの敷地を歩く事になるのだ。
(登山よりキツい説あるな。)
などと考えて、私たちは伸びたバラの絡みついた、鉄骨アーチをくぐった。
園芸のバラになど、さしたる興味もないこの私。
けれど、手入れの行き届いたバラが咲き並ぶ光景。
そして風に漂う華やかな香り。
なるほど、これは大勢の人々が集まる理由も分かろうというものだった。
しかも入場無料である。
子育て世代にも優しい庭であった。
ゲートをくぐると、受付のスタッフがパンフレットを手渡そうとしてきた。
(俺たち二人とも、どう見ても受け取れる状態じゃねーだろ!)
しかし渡そうとしているものを、受け取らない訳にもいかない。
私は右腕だけで娘を支え、左手でパンフレットを受けとった。
どうやら向こうの売店に、バラ味のソフトクリームがあるらしい。
そんなもんが美味しいのか?
私はそれ以上、ろくに内容を見もせず、パンフレットを妻の半開きのリュックにねじ込んだ。
そしてこのパンフレットはそれ以降、一度も私たちの手に取られる事はない。
『わぁー、綺麗だねぇ。』
妻は感嘆の声をあげた。
『ほら4歳ちゃん、みてごらん!バラだよぉ!』
嬉しそうな顔。
『4歳ちゃんも歩く!』
花々を目の前にして、4歳ちゃんも心躍るものがあったのだろう。
妻の抱っこから降りて、自分の足で歩きはじめる。
そしてお花に歩み寄っては、
『きれーい!』
と喜んでいた。
私は、
『ほら2歳ちゃん、バラのお花だよ。』
と言ってみるが、
『……。』
2歳ちゃんはムスッとした顔で、無視。
ヒラヒラとした、お姫様みたいなものしか着たがらない2歳ちゃん。
しかしどうも、このような場所にまでは、まだ興味をそそられないらしい。
(4歳ちゃんは、いつから景色も楽しめるようになったのかな?)
そう考えたが、もう思い出せなかった。
きっとそんな事が、これからも増えていくんだろう。
『パパ!iPhoneかして!』
4歳ちゃんが、私におねだりをする。
『写真撮りたいの?』
『うん!』
私は片手でポケットからiPhoneを取り出して、4歳ちゃんに持たせてやった。
すると妻が、
『2歳ちゃん抱っこしててあげるから、4歳ちゃんのこと追いかけてやって。』
と言った。
4歳ちゃんに合わせて、慌ただしく花を見るより、重くとも2歳ちゃんを抱っこしながら、ゆっくり見たいのだろう。
(むしろ助かるー!)
そう思った私は、
『分かった、じゃあ俺が4歳ちゃんについてるよ。』
と、表面上は頼もしい父親の顔をする事にした。
私が起動させてあげなくても、4歳ちゃんは一人でカメラを起動できた。
そして、あちこちのバラに向けて、シャッターを切っていく。




どの写真にも、いつもだいたい指が写り込んでいる。
私は、それが好きだった。
花を見て回ると、バラの前には木の立て札があって、名前が書いてある。

まるで覚えられる気がしない。
どのバラ達も、複雑で、優雅な名前だった。
そして、見ていくうちに、一つのバラが私の目に止まった。

『かわいいねー。』
そんな言葉を、私は口にしたんだ。
遠くに眺めると、それらは確かに艶やかに見えた。
けれど、歩み寄り、一つ一つの花に顔を寄せると、ふわふわと柔らかそうな花弁たち。
輪郭の明瞭な、緑の葉の表面に立ち並ぶ。
優しい香りであたりを包んで、その香りに誘われた小さな蜂や蝶が舞っている。
そして私は、その花たちが、可愛らしいという事に気がついたんだ。
なんて文化的な所なんだろう。
子ども達を連れてくる場所として、こんなに素晴らしい所はないと思った。
そして、
(こういう時に、綺麗な所とかじゃなくて、文化的な場所、っていうワードが出てくるのが、いかにも私だな。)
などと独りごちて笑った。
辺りを見回す。
私たち以外にも、たくさんの人々が花を眺め、それぞれがその美しさを堪能しているようだった。
面白いものだなー。
昆虫だけでなく、人がこんなにも沢山いる。
虫達は花から蜜を得て、その花粉を運ぶのだろう。
そうやって共に繁栄するのならば、私たちは花に何をもたらすのだろう?
硬くて鋭い棘。
そんなものを生やしてまで、君たちは何から身を守ろうとした?
人はその棘に傷付く可能性さえ受け入れて、君たちを庭に招き入れ、安全を与えたんだ。
それはきっと、この花が美しいから。
その美しさが、人間の心に豊かさをもたらすからなんだ。
(人間とバラは、共生関係にあるのかもしれない。)
私は一つ、そんな答えを見つけたような気分になった。
『4歳ちゃん、iPhone返して。
お花の所で写真を撮ってあげる。』
『ママこっちきてー、写真撮るよー。』
写真の妻と子ども達は、笑顔だった。
バラは何も語らない。
私は撮影の担当をしていたので、どんな顔をしていたのかを確認する事はできなかった。
そして、帰りに買ったバラのソフトクリームは、案外おいしかった。
『いい所だったねー。』
私は妻に向かってそう言った。
『そうだね、また来てもいいね。』
妻は言う。
『4歳ちゃんもまた来てもいいよ。』
4歳ちゃんは、妻をまねて言う。
『……。』
2歳ちゃんは、不機嫌そうな顔で外を眺めている。
疲れたのだろう。
『私の育ててるモッコウバラ、ここにはなかったなぁ。』
妻はそんな事を言ってた。
『そうなの?
バラの品種なんて難しすぎて、俺にはなんもわかんなかったよ。
でも、思ってたより楽しかったな。』
私はそう相槌を打つ。
『そうでしょ?
私ねー、お庭にたくさんのバラを植えて、こんなバラ園みたいな庭にしたいんだ。』
妻の希望を聞いて私は、
(それも素敵な事だよな。)
なんて思って、
『それはいいね。
そんな綺麗な庭になったらさー、バーベキューとかしたいね。』
って返事した。
すると妻は言った。
『花が炭の匂いになりそうだから嫌だ。』
私たちは家に帰った。
