カクテルと余白:07【数学の詩人④】雪のベルリン・巨匠の門を叩いた少女Season1
前回の記事はこちらです⬇️
カクテルと余白6
【数学の詩人】雪のベルリン-3
🎼🎹ソーニャ コワレフスカヤのテーマ曲③を筆者なりに勝手に見つけました。
宜しければ、お聴きになりながらお読みください。(音量にご注意下さい)🔽
『ノエル・チェンバー・オーケストラ』
(🇯🇵の実力派のスタジオ・ミュージシャンが臨時で構成した楽団のようです)
『モルダウ』 Bedřich Smetana
【塔上の審判 ―ソーニャ問題と三人の賢者】
❄️❄️❄️
12月の寒空の下、展望窓を通して、凍りついたガス灯の中にジャンダルメンマルクト(ベルリンの有名な広場)が見える。
ベルリン大学『レクターの塔』の最上階で、3人の男が秘密会議をしていた。
室内は、天体観測用のドーム屋根の下、重厚な革張りの椅子とデスク。複雑な数式が書かれた黒板には『ソーニャ問題』と書かれている。

(Hans von Zettwitz)
プロイセン王国 文教局長
国家の教育制度と秩序を一身に背負い、
カールの友人でありながら「法」を優先する男
「あぁ、カール……私もひとりの数学者として、また、天才数学者である君の1人の『ファン』として言おう。
君が提出した、この『楕円関数論のdissertation(学位論文)』は、完璧だ。……だが、それを書いたのが『女(ソーニャ)』だという、その一点において、これは『証明不能な難問(パラドックス)』だ」
文教局長は、机に広げられたソーニャの完璧な答案から、ゆっくりと視線を外した。
その価値の凄さは理解できた。しかし、彼にはその数式からの音楽は届かなかった。
「カール、君はいつもそうだ。数式の前では公平だが、現実の前ではあまりに無防備だ。
数学以外の事に全く興味を示さず、出世にも結婚にも、金にも無頓着だった君を、私がどれほど影から引き立ててその椅子を守ってきたと思っている!?今回の提案は、あまりに無茶だ。たかが少女ひとりに」

フリードリッヒ・ヴィルヘルム・
クラインハインツ
(Friedrich Wilhelm Kleinheinz)
ベルリン大学 総長(Rektor)
国家主義的で、
厳格な規律を愛する保守派の重鎮
「ワイエルシュトラス正教授。
君は『真理』を語るが、私は『制度』を守る。
女性が大学に足を踏み入れるなどプロイセン王国の教育の根幹を爆破するダイマイトも同然だ」
総長は冷ややかに続けた。
「女は子供を産み、家庭を築く……それこそが『自然の真理』だ。
まして、彼女は貴族の出であり美しい。
結婚相手ならばいくらでもいるだろう?彼女の才能? 数学という『純粋な男性の聖域』に、世俗の mud(泥)を持ち込ませる口実にはならん」
ワイエルシュトラスは、無言のまま立ち上がり、議題が書かれた黒板を見つめた。
「あ!」
総長が漏らした。そこにはそれを消し忘れた彼のメモがあった。
DIE SONYA FRAGE 「ソーニャ問題」
UNMÖGLICH 「ありえない!」
FRAUEN AM INSTITUT?「大学に女だと?」
NEIN! 「否!」

❄️❄️❄️
秘密会議を遡ること数日前。
ベルリンの夜はまだ深く、窓の外では静かに雪が降り積もっていた。
数度目の秘密の講義。
一通りの議論を終え、休息のひととき。
ソーニャは、温かなチョコレートドリンクが注がれたカップを、震える手でソーサーに置いた。
陶器が触れ合う小さな音が、静寂な書斎に響く。
「先生……実は、お話ししておかなければならないことがございます」
彼女は、自分を「フロイライン(お嬢さん)」と呼び、慈しんでくれる老教授の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、嘘を突き通せない純粋さと、告白への覚悟が混じり合っていた。
「まずはお願いからです。私を……フロイライン』と呼ぶのを、おやめいただきたいのです」
「ほう?」
ワイエルシュトラスは、銀縁の眼鏡を押し上げ、訝しげに眉を寄せた。
「何か、私の呼び方が気に障ったかな?」
「いいえ、そうではありません。ただ……わたくし、既婚者なのです。既に、夫がおります」
時が止まったかのようだった。
数学の海を自在に泳ぐ巨匠ワイエルシュトラスも、この時ばかりは言葉を失い、文字通り仰天した。(🥕史実です)
目の前の、可憐で、数学にのみ魂を燃やしているように見えるこの少女が、既に「誰かの妻」であるという事実。
「なんと……」
彼はようやく、絞り出すように声を漏らした。
「知らなかったとはいえ、大変失礼なことをした。……そうか、奥方(フラウ)であったか。
確かに二十歳(はたち)での結婚は、このドイツでは少し早い。だが、君の故郷ロシアでは、それが当たり前の年齢だったな」
ワイエルシュトラスは、自らの動揺を隠すように、努めて穏やかなトーンで言葉を継いだ。
しかし、ソーニャは無言のまま、うつむいた。
彼女の沈黙は、単なる肯定ではなかった。

🫖🫖🫖
温かい湯気を立てていたチョコレートドリンクは、もはや冷め、重苦しい沈黙が書斎を支配していた。
ソーニャは震える指先を握りしめ、自分を憐れむように見つめる老教授に向かって、魂を削り出すように言葉を紡いだ。
「先生だから……隠さず、すべてを告白します。私の結婚は、偽装結婚です」
「……!」
ワイエルシュトラスは、椅子から身を乗り出したまま言葉を失った。数学界の巨星が、一人の少女の言葉に、数式の解を見失ったかのように立ち尽くす。
「……貴族の生まれである君が、なぜ、そんな危うい真似を?」
「今のロシアでは、未婚の女性は自らの意思で国外へ出ることすら叶いません。私がここ、ベルリンへ数学を学びに来るためには、『既婚者』という盾が必要だったのです」
「なんということだ……」
ワイエルシュトラスは、深く、苦しげに溜息を漏らした。
目の前の可憐な少女が、どれほど巨大な壁に立ち向かってきたのか。その一端に触れた衝撃が、彼を打ちのめした。
「夫には、あらかじめ心得てもらっています。私たちは……契約を交わしたのです。
私は神父の前で、偽りの愛を誓いました。
親を、そして国を欺いたのです。
すべてを捨て、故郷を捨てて、私はここに辿り着きました」

彼女の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、白い頬を濡らした。
「……君。このことがもし露見すれば、君たち夫妻は即座に強制送還され、待っているのは投獄だぞ」
「分かっています。だからこそ、命を預ける覚悟で……先生にだけは、お話ししておかなければならなかったのです」
しゃくり上げる声を抑え、ソーニャは顔を上げた。その濡れた瞳の奥には、どんな権威も折り曲げることのできない、鋭い光が宿っていた。
「私は……夫を愛してはいません。私は、数学に恋をしました。数学を愛しているのです。私の、真実の夫は……数学なのです」
部屋に響くのは、彼女の微かな嗚咽だけだった。
ソーニャは震える声で、この理不尽な世界すべてに向けるように問いかけた。
「……わたくしが女だから?……私のような女が、数学を愛してはいけないのでしょうか」
解析学の巨匠、カール・ワイエルシュトラス。いかなる複雑な難問にも解を与えてきた男の口から、この時ばかりは適切な言葉が出ることはなかった。

❄️❄️❄️
再びベルリン大学最上階、レクターの執務室。
窓の外、ジャンダルメンマルクトの夜景を背に、ワイエルシュトラスは静かに、だが抗いようのない威厳をもって立ち上がった。
彼は無言のまま、自らの肩を覆っていた重厚な正教授のガウンに手をかけた。
金銀の刺繍が施された、プロイセン数学界の頂点たる権威の象徴――それを、彼は惜しげもなく肩から滑り落とした。
バサリ
と重苦しい音を立てて椅子に横たわったそれは、もはや主を失ったただの布切れに過ぎなかった。
さらに彼は、上着の内ポケットから真鍮の鍵束を取り出した。
大学の全研究室、そして知の殿堂の扉を開く、選ばれし者だけの特権。
彼はそれを、クラインハイツ総長の机の上に「カラン」と乾いた音を立てて置いた。
「ーーカール!きみは正気か。それが何を意味するか分かっているのか」
ツェトヴィッツ局長が、掠れた声で問う。
ワイエルシュトラスは答えた。
「正教授の地位を捨てるということだ。……辞表は後日改めて届ける。今は、この不浄な空気の中に一秒たりとも留まりたくない」
ワイエルシュトラスは、狼狽する二人の権力者を、その鋭い眼光で射抜いた。
「数学の前に、男女などという区別は存在しない。……
いいか、クラインハイツ。そんな矮小な偏見や、くだらない伝統と因習が、神の真理に勝るというのなら、この大学に私が必要とするものは何一つとして無い。
……そして、この大学もまた、宇宙の純粋な理(ことわり)を語る資格を失うのだ」
彼は一度も振り返ることなく、扉へ向かった。
「私は、たった今から、ひとりの高校教師、カール・ワイエルシュトラスに戻る。
今日から私の書斎が、ベルリンにおける唯一の大学だ」
重厚な扉が開く音が、静まり返った塔の中に、長く、長く響き渡った。
🥕Wird fortgesetzt
(続く…かな?)
❄️⬇️作者は、このストーリーを書くにあたり、こんな曲を聴いておりました。ソーニャをイメージする?お時間があればお聴きください。リー・オスカー『約束の地』です。
🥃この物語は、ダイデン大佐が、少しの史実に基づいてひねくり出したフィクションです。
登場人物も、果たして本当に居たのか?など
謎です。
いろんなご不満、ツッコミはご容赦ください。今から謝っておきます。ごめんなさい。

ラインハルト・ダイデン大佐
🥃「今回は長いなーもう。要するにコレが言いたかったんだね?」
🥕「そう、『数学を愛してはいけないのですか?』」
🥃「ま、ジーンと来るけどね。ワイエルのダンナも、いよっアッパレ!だ」
🥕「実際にも凄い人格者だったらしい。ちょいワルで。勉強は、数学にしか興味を示さず、ベルリン大学ではなくボン大学。フェンシングとビールに明け暮れて、結局中退したらしい」
🥃「その人が後に数学の巨匠になったのですね?」
🥕「数学のためなら何でも捨てる……そんな数学オタク同士の友情で2人は認め合ったのだろうね」
🥃「なるほど……ね」
赤坂の夜は長い。
❄️❄️❄️❄️
次回作【カクテルと余白8】はこちら⬇️
次回は『外伝』著者は、なぜかはしゃいでいます。
また、進行役の新キャラクターが登場します。ぜひご一読ください
【カクテルと余白】総合マガジン
全作のご案内はこちら⬇️
【家庭教師管制塔『無限堂』】
🌐 公式ホームページ
https://mugendo1977.com/
📸 公式インスタグラム
https://www.instagram.com/mugendoofficial?igsh=MTh5ajg3ZGhyMHZ4NA%3D%3D&utm_source=qr
🥕ダイデンのイラスト・ひがしりょう
【あとがき:執筆時のイメージ曲】著者が本編の背景としてイメージしていたテーマ曲です。お時間があれば読後の余韻と共にお聴きください。⬇️
