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外務省「外交史料館」を訪ねて

外交史料館は、外国との条約書や省の記録文書など、約12万点の史料を所蔵する外務省の施設で、

大臣官房総務課に置かれる組織として1971年4月に開館しました。

以前は、飯倉別館に史料館がありましたが、施設の老朽化から、2024年4月に、隣接する森JPタワー5階に展示室を移転し、

麻布台ヒルズ 森JPタワー入口
《東京都港区麻布台1丁目》
(Photo by ISSA)

リニューアルオープンしました。

来室者数も、以前の展示室に比べると10倍以上に増えたそうで、

外務省外交史料館展示室
《東京都港区麻布台1丁目》
(Photo by ISSA)

展示室では、開国から約150年間の日本外交史を時系列に分かりやすく解説し、興味深い史料を多数展示しています。

外務省外交史料館展示室
《東京都港区麻布台1丁目》
(Photo by ISSA)

展示物のうち、幾つか興味深いものを取り上げてご紹介したいと思います。

開国前夜
ペリー艦隊が浦賀沖に姿を現した1853年7月以降、日本は激動の時代を迎えます。

1854年3月、横浜にペリー率いる一行が上陸。

ハイネ画「ペリー提督の横浜上陸の図」

協議の末、全12箇条に及ぶ日米和親条約が締結され、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が終焉することになりました。

日米和親条約締結の地
《横浜・開港広場》
(Photo by ISSA)

日米和親条約批准書
こちらが、日本が初めて米国と取り交わした批准書です。日本にとって、外交のルールが劇的に変わった象徴的な出来事となりました。

日米和親条約 批准書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

日米修好通商条約の条約書
日米和親条約締結から約2年後、米国領事タウンゼント・ハリスの働きかけで、日米修好通商条約が結ばれました。

こちらが、そのときの条約書になります。自由貿易・領事裁判権(治外法権)の容認・関税自主権の喪失を含む、いわゆる不平等条約の始まりとなりました。

日米修好通商条約の条約書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

原本は、1859年の江戸城大火により焼失したので、こちらは修復された条約書になります。

幕末の旅券
1866年、幕府はそれまで禁じていた日本人の海外渡航(注1) を一部緩和し、修学と商業の目的でのみ海外への渡航を許可しました。

(注1) それまで、日本人の海外渡航は堅く禁じられており、幕府に無断で海外渡航を企てた吉田松陰が死罪(1859年)になったり、長州ファイブ(1863年)や薩摩スチューデント(1865年)が、幕府に無断で海外渡航を行ったりしていた

こちらは、海外渡航の一部緩和に伴い発行された当時の旅券(パスポート)になります。

☆☆☆現存する日本最古の旅券☆☆☆
「亀吉」という曲芸師に発行されたもの
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

私 ISSAも、外務省時代は旅券(パスポート)や査証(ビザ)の審査・発給業務を担当していました。

【参考】日本人の海外への集団移住は、1868年のハワイへの労働移民(150名)が始まりで、1871年にハワイと国交を樹立し、1886年に労働移民送出とその保護を行うことを定めた日布渡航条約が結ばれて以降、1894年までに約3万人の日本人がハワイに渡った

外交史料館の説明部より

蝋缶について
条約の批准書につながっている金属の缶を蝋缶(ろうかん)といいます。

樺太千島交換条約の批准書に
取り付けられた蝋缶☆☆☆☆
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

蝋缶には蜜蝋(注2) が入っており、その上には国璽(国家の印)が押されています。この国璽によって、国家としてその条約を認証したことが示されます。

(注2) ミツバチの巣から搾取した蝋

金属の缶は蝋に押された国璽を保存するためのもので、多くの場合、その蓋には国璽と同じ文様が付されています。

日本の外交史の夜明け
1868年に新明治政府が発足すると、翌1869年には外務省が創設され、

黎明期の外務省

初代・外務大臣には、長州ファイブの一人だった井上馨が就任(注3) しました。

(注3) 後に、シーボルトの長男・アレクサンダーが、井上馨の秘書として条約改正交渉にあたるなど、日本政府の顧問として重要な役割を果たしている

不平等条約からの脱却
発足間もない明治政府が外交上の最優先課題としたのが、不平等条約からの脱却で、

小村寿太郎による関税権の回復によって、それが成し遂げられたことは、前回、こちらの記事でご紹介したとおりです。

日露講和条約の調印書
こちらは、その小村寿太郎の尽力によって成立した日露講和条約の調印書になります。調印地から、ポーツマス条約とも呼ばれます。

日露講和条約 調印書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

ワシントン海軍軍縮条約 認証謄本
艦砲外交
などと言われるように、近代では、そもそも外交というものは、海軍がその役割を担ってきました。

20世紀に入り、大艦巨砲主義の時代が幕を開けると、超弩級戦艦の建艦レースが各国の財政負担となり、世界は海軍軍縮へと向かいます。

こちらは、1921年にワシントンで締結された、海軍軍縮条約の認証謄本になります。

ワシントン海軍軍縮条約 認証謄本
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

これにより、日本は戦艦と空母の保有総トン数を米英の6割に制限(注4) されることになりました。

(注4) そういう意味では、日露戦争に勝利し、小村寿太郎が不平等条約からの脱却を実現させた後も、有色人種の国家は、未だ、真の平等は達成できていなかった

杉原千畝と「命のビザ」
杉原千畝については、特設コーナーが設けられています。

杉原千畝を命のビザに関する特設コーナー
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)
杉原千畝を命のビザに関する特設コーナー
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)
杉原千畝を命のビザに関する特設コーナー
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)
杉原千畝を命のビザに関する特設コーナー
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

杉原千畝については、こちらの記事で詳しく述べていますので、ご関心があれば訪れてみてください。

サンフランシスコ平和条約
吉田茂
は、戦前期に外交官としてのキャリアを歩み、戦後は外務大臣、そして首相兼外相としてサンフランシスコ平和条約日米安全保障条約を締結するなど、現在に至る日本の外交路線決定に重要な役割を果たしました。

1951年、連合国諸国と結んだ平和条約で、日本の独立を回復させるとともに、長かったGHQによる占領時代を終焉させました。

サンフランシスコ平和条約 認証謄本
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

日米安全保障条約

旧・日米安全保障条約 署名本書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)
新・日米安全保障条約 署名本書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

ご参考までに、戦後、艦砲外交を復活させるためにも、海軍の再建が急務だった訳ですが、

吉田首相が却下した海軍再建案は、野村・元海軍大将アーレイバーク海軍大将及びY委員会のお膳立てによって、

「米側から要請される」という形で、海上警備隊(後の、海上自衛隊)発足に道筋をつけたことは、

海軍再建に向けたキーパーソンの相関図
(Created by ISSA)

以前、こちらの記事でご紹介したとおりです。

沖縄返還協定

沖縄返還協定 署名本書
《東京都港区麻布台・外交史料館展示室》
(Photo by ISSA)

おわりに
外交活動には、国と国との伝統的な外交とは別に、パブリック・ディプロマシー(公共外交)という考え方があります。

特に、SNSを背景として民衆が力を持ち始めた現代社会においては、民間による伝統・文化、価値観、ブランド力などの発信が、益々、重要さを増しており、

官民融合によるソフトパワー(注5) の発揮というものが、親日派・知日派の育成において、戦略的に益々、重要な手段になりつつあります。

(注5) 米国の国際政治学者ジョセフ・ナイ氏が1990年代に提唱した概念で、軍事力や経済力といった「ハードパワー」と対比して語られる

仮に、それが日本語による発信だったとしても、今は、WEB上で簡単に閲覧者の母国語に翻訳されますし、AIが回答を生成する際にも、個人が書いた記事を学習源にすることもあります。

そう考えると、日々、様々な情報を発信し続ける私たち noter は、言わば、一人一人が「小さな外交官」であって、ソフトパワーの一角を成していると言えるのかもしれませんね。

Reuters

日本古来の美しい真心に裏付けられた
論理的な言葉で語りかけ、日本の
パブリック・ディプロマシーに寄与する

時には、そういうことを
意識してみるのも一興かもしれません。

いつも、ありがとうございます🍀