小村寿太郎と飫肥の街並み
鹿児島を離れる前、志布志から出る「さんふらわあ」に乗船するまで少し時間があったので、宮崎県日南市にある飫肥(おび)に立ち寄ってみました。

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小村寿太郎について
小村寿太郎は、1855年、この地で飫肥藩士の家に7人兄弟の長男として生まれました。

《宮崎県日南市飫肥》
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小村家は、飫肥藩の下級武士で、町別当(農村で言うところの庄屋)という役職にあり、城下に屋敷を構え、商人たちと親密なつながりを持っていました。
小村家の屋敷内には客屋があり、当時、日本地図の作製に取り組んでいた伊能忠敬も、小村家に泊まった(注1) そうです。

《宮崎県日南市飫肥》
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(注1) 説明文によれば、(寿太郎が生まれる前の)「1810年4月27日、伊能忠敬以下17名の幕府御用測量方は、飫肥本町の小村家に宿泊し、天文観測を行った」とされている
幼少期は、祖母から厳しい訓育を受け、精神力と武士道の精神を養いました。祖母は、病弱だった寿太郎を丈夫な身体にしようと、飫肥から片道約4時間かかる鵜戸神宮にお参りを続け、
こうした祖母の教えとお宮参りが、その後の非凡な才能と強靭な精神力の礎をつくりました。
しかし、明治維新という激動の中で、藩が経営していた商法会所が莫大な借金を抱えて倒産し、小村家がその負債を背負うことになります。
以来、寿太郎は幼少期からずっと困窮した暮らしを強いられ、そのためか、小柄で質素な風貌だったそうですが、頭脳は明晰で、藩校・振徳堂に8年間、無欠席で通いつめ、優秀な成績で卒業しました。

《宮崎県日南市飫肥》
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このとき、寿太郎は長男として父の後を継ぐか、更に学んで儒学者になるかと悩みましたが、小倉処平(注2) に諭され、
(注2) 飫肥藩士の思想家で、地元では「飫肥の西郷」とも呼ばれる。小村寿太郎の才覚を見出し、育て、送り出した人物。西南戦争では飫肥隊を率いて薩軍に加わり、和田越の戦いで戦傷し、可愛岳近くで自害した

《宮崎県日南市飫肥》
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1869年、長崎で英語を学んだあと、大学南校(現・東京大学)に進学。
卒業後は、1875年から米国ハーバード大学に留学し、主に法律を学びながら、国際的な感覚を養いました。
帰国後、1880年に司法省、1884年に外務省に入り、翻訳局長、清国代理公使、外務次官を歴任。更に、米、露、清の公使として活躍(注3) しました。
(注3) 1871年の廃藩置県で、武士階級への家禄(給料)が打ち切られたこともあり、寿太郎が外交官としてキャリアをスタートさせた後も、父の借金返済に追われた。身長が150cmほどと非常に小柄で、身なりにも無頓着だったため、周囲から「ねずみ公使」などと揶揄されることもあったという

《宮崎県日南市飫肥・振徳堂》
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1901年、桂内閣の外務大臣に就任。その後の寿太郎は、日本史に残る3つの偉業を成し遂げます。
① 日英同盟の締結
1902年、外務大臣として日英同盟を成立させました。当時、世界最強だった英国と手を組んだことで、来るべきロシアとの戦いを有利に進める土台を作りました。
② ポーツマス条約の締結
1905年、日露戦争後の講和会議では、日本側全権として参加。賠償金こそ取れなかった(注4) ものの、韓国に対する指導権や南樺太の割譲を認めさせました。
(注4) 帰国後、賠償金がないことに怒った国民から非難を浴び、日比谷焼き討ち事件が起こるなどしたが、後に、当時の日本の国力を冷静に見極めた上での現実的な判断だったと評価された

《宮崎県日南市飫肥》
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③ 不平等条約からの脱却
日本は幕末に開国してからというもの、列強諸国と結ばれていた不平等条約の解消は、明治政府にとっての最重要課題となっていました。
1894年、(勝海舟の海軍塾に学び、坂本龍馬の海援隊にも加わった)陸奥宗光によって領事裁判権(注5) の撤廃という形で、その一部は達成されていましたが、
(注5) 領事が任国内の自国民を裁く権利で、その国の国内法や裁判から免除されるため、治外法権とも呼ばれる
1911年、寿太郎が、米英独仏との間で関税自主権を回復させたことによって、日本にとって長年の悲願だった不平等条約の「完全撤廃」が成し遂げられました。
これにより、日本は名実ともに欧米列強と対等な独立国家となったのです。

《宮崎県日南市星倉》
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飫肥について
ここからは、小村寿太郎が生まれ育った飫肥についてご紹介致します。

《宮崎県日南市星倉》
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飫肥城
飫肥城は、南九州特有の空堀や切岸で区画された群郭式構造が特徴の平山城で、三方を流れる酒谷川とシラス台地(注6) の険しい地形により、天然の要害となっています。

(注6) 近傍に位置する志布志城も、シラス台地の地形を活かしたお城だった
飫肥は、藩の物流・経済を支える海の玄関口として栄えていた油津港と密接な関係にあり、日向南部における要衝となっていました。
15世紀後半から、日向(宮崎)の伊東氏と、薩摩(鹿児島)の島津氏による壮絶な奪い合いが始まり、幾多の戦いで、何度も城主が入れ替わりました(飫肥100年戦争)。
一時は島津氏に追い出された伊東氏でしたが、豊臣秀吉の九州平定の際に案内役を務めた功績により、1587年、正式に飫肥の地を安堵され、

《宮崎県日南市飫肥・飫肥城歴史史料館》
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江戸時代から明治維新に至るまで、伊東氏が約280年・14代にわたってこの地を治めました。
石垣には、飫肥石と呼ばれる地元の特産品が使われています。柔らかな風合いが特徴です。

《宮崎県日南市飫肥》
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伊東氏の治世では、飫肥杉の栽培などを通じて藩の財政を支え、教育にも力を入れました。
飫肥城には天守閣はありませんが、重厚な石垣や復元された大手門が、往時の姿を伝えています。

《宮崎県日南市飫肥》
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本丸跡には「しあわせ杉」と呼ばれる4本の杉があり、その中心に立つと幸せになれるそうです。

《宮崎県日南市飫肥》
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飫肥城下町
城下町は伝統的建造物群保存地区に指定されています。
所々に、風情あふれる街並みが広がっています。

《宮崎県日南市飫肥》
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一緒に訪れるはずだった親友と、

《宮崎県日南市飫肥》
(Photo by ISSA)
一緒に歩いているつもりで、飫肥の街並みを散策してみました✨

《宮崎県日南市飫肥》
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津和野もそうでしたが、沿道に鯉が泳いでいると、より一層、日本らしさを感じられますね。

《宮崎県日南市飫肥》
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歩き疲れたら、甘味処で小休止です😋

《宮崎県日南市飫肥》
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飫肥は、2004年のNHK連続テレビ小説「わかば」の舞台になり、

《宮崎県日南市飫肥・小村寿太郎記念館》
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阪神・淡路大震災で被災し、母の実家がある宮崎に移り住んだ主人公が、震災で傷ついた街と家族の心を再生していく物語が描かれました。
伝統的建造物群保存地区については、過去の記事でも幾つかご紹介していますので、もし興味がおありでしたら、下記の記事も訪れてみてください。
宮崎県日向市美々津町
広島県呉市豊町御手洗
山口県柳井市古市・金屋
山口県萩市堀内・平安古・浜崎ほか
島根県鹿足郡津和野町後田ロ
おわりに
小村寿太郎は、生涯に渡り金銭には無頓着で、財を成すこともなく、56歳という若さでこの世を去りました。
寸暇を惜しんで勉学に勤しみ、相手国の事情を理解した上で、外交官としての交渉力を最大限に発揮できるよう、いつも努力していたそうです。
寿太郎は、小柄で身なりにも無頓着だったため、外交の場で軽んじられることも、しばしばでしたが、
いざ交渉が始まると、誠心誠意、外交交渉を全うしようとする姿に、周囲の人々は心を動かされていきました。
そんな寿太郎の外交の要諦は、「誠」という言葉にありました。

外交の世界では、したたかさが必要ですが、一個人としては、変に応用に走らず、誠心誠意を基軸にしながら、熱意を持って物事に当たっていく。
こうした基本的なことこそが、人生の要訣と言えるのかもしれません。
そして、誠の心というものは、質素倹約を実践することによって、更に輝きを増すように思います。
「さんふらわあ」出港の時間には、ちゃんと間に合いました。さようなら、鹿児島・宮崎、そして我が郷土・熊本。沢山の学びを、本当にありがとう😌
また、会う日まで … 🎗️

(Photo by ISSA)
カレーライスには
人一倍うるさい ISSA ですが、
「さんふらわあ」のカレーライスは、
マジ、美味かったです😋

(Photo by ISSA)
鋼鉄の軍艦も良いですが、
たまには、旅客船に揺られる船旅も
良いものです🛳️
いつも、ありがとうございます🍀
