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薩摩偉人伝 ~ 西郷隆盛(延岡編)

西郷隆盛の生涯については、以前、これらの記事で取り上げましたが、

本稿は、西南戦争末期、西郷隆盛率いる薩軍が、宮崎県東部の延岡に本陣を構えたことにフォーカスした記事になります。

時空を超えた出会いの聖地
西郷隆盛とニニギノミコト

この謳い文句が書かれているのは、宮崎県延岡市にある西郷隆盛宿陣跡資料館(宮崎県指定史跡「南洲翁寓居跡」)です。

ここは、和田越の決戦に破れた薩軍が、最後の本陣を構えた場所であると同時に、

西郷隆盛が、明治天皇から拝領した陸軍大将の軍服を焼却し、薩軍を解散させた場所として知られています。

西郷隆盛宿陣跡資料館
《宮崎県延岡市北川町長井》
(Photo by ISSA)

こちらは、地元住民だった児玉熊四郎の屋敷だったのですが、敷地のすぐ裏手に可愛山陵(瓊瓊杵尊の陵墓参考地)があったことから、西郷隆盛がこの場所に宿陣を構えたと考えられています。

山縣有朋・陸軍中将率いる官軍が、 天皇家の祖が眠るこの地に向けて砲撃することは出来ないという判断があった(注1) ようです。

(注1) 2016年2月に、ここを訪れた西郷隆盛の曾孫・西郷隆夫氏は、「(曾祖父が)此の地に宿陣したのは、可愛山陵があったからだと、 父・隆正から聞いていた」と証言されている

西南戦争最後の決戦地 延岡
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

西南戦争の概要
西南戦争は、1877年(明治10年)2月〜9月、主に鹿児島、熊本、宮崎、大分などの九州各地で薩軍(西郷隆盛と旧薩摩藩の不平士族)と官軍(明治新政府軍)が戦った、国内最大で最後の内戦です。

明治政府による廃刀令秩禄処分(武士の給与・特権の廃止)に対する士族(旧武士階級)の不満が爆発したことが、主な原因でした。

薩軍は鹿児島で挙兵し、熊本城を包囲。田原坂の戦いを経て、九州各地で転戦しました。

和田越の決戦
和田越の決戦は、その終盤、現在の宮崎県延岡市で行われた、薩軍にとり事実上最後となった組織的な戦いとなります。

1887年8月、薩軍が約3,500(当初、薩軍は14,000人で薩摩を出発していた)に対し、官軍は約50,000と、圧倒的な兵力差を前に薩軍は大敗し、敗走することになります。

和田越決戦配置図
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

この戦いに敗れた西郷隆盛が本陣を置いた場所が、冒頭でご紹介した児玉熊四郎宅でした。

ここで、西郷隆盛と取り巻きの者は、最後の軍議を開きました。

児玉熊四郎宅での最後の軍議
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

周囲を完全に官軍に囲まれた状況下、この地で戦い続けるのか、それとも新天地を目指して突破するのか。

激論となりましたが、最終的に西郷隆盛は、「まず可愛岳を突囲し、三田井に出る。それからのことは、また考えれば良い」 との決断を下しました。

本陣、可愛岳(標高728m)、三田井の位置
(Google Earth)

薩軍の解散令
その後、一夜を明かした西郷隆盛は、薩軍に「解散令」を出しました。

軍を解散した西郷は、この宿陣地の庭で西南戦争に関する重要書類と、陸軍大将の制服を焼却します。

軍服焼却の地
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

陸軍大将の軍服を着たまま敗北すると、敬愛する明治天皇の治世に汚点を残すことになるので、この地で軍服を焼くことで、天皇への義を返したかったのでしょう。

余談ですが、当時、陸軍大将の制服は、ボタンが2列の「ダブルブレスト」のものが正規でしたが、略服などでは1列の「シングルブレスト」のものも存在していたようです。

左:ダブルの制服☆《西郷南洲顕彰館》***
右:シングルの制服《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

可愛岳突囲を敢行
解散令が出された薩軍でしたが、桐野利秋村田新八といった幹部たちや、約600人の精鋭たちは西郷と運命を共にすることを選び、

桐野利秋(中村半次郎)の刀
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

西郷隆盛に従って峻険な可愛岳を越え、 鹿児島への帰郷を果たしました。

西南戦争で、薩軍と官軍が辿った経路
《「上野原縄文の森」第74回企画展より》
(Photo by ISSA)

息子・菊次郎の療養地
西郷隆盛の息子・菊次郎(注2) も、薩軍の一員として西南戦争に参戦しましたが、熊本で被弾し、延岡で足を切断する手術を受けることになり、しばらく、西郷隆盛宿陣地のすぐ近くにある児玉惣四郎邸に留まりました。

(注2) 菊次郎は、西郷隆盛と愛加那の長男として奄美大島で生まれ、米国留学後、西南戦争に参加。戦後、台湾台北支庁長、台湾宜蘭庁長などを歴任し、後に第2代・京都市長を務めた

その際、西郷隆盛の正妻である糸子が菊次郎の看病に駆けつけたり、西郷隆盛の実弟で、官側の陸軍中将だった従道が、菊次郎の迎えに来たというエピソードが残されています。

それぞれの「義」を果たすため、家族が敵と味方に分かれざるを得なかった西郷家の難しい状況や、それでもなお、互いの立場を超えて支え合おうとする家族の絆がうかがわれます。

西郷隆盛宿陣跡資料館
現在、旧児玉邸は西郷隆盛宿陣跡資料館として、硯や船型枕など西郷ゆかりの品や、西南戦争時の砲弾や軍旗などが展示されています。

西南戦争時の砲弾や軍旗
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)
薩軍が使った銃刀
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)
左下:西郷隆盛が使用した膳と漆器
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)
西郷隆盛の孫・吉之助氏(右2)
来館記念[1963年11月10日]
(西郷隆盛宿陣跡資料館の展示パネルより)
西郷隆盛の曾孫・隆夫氏
直筆の「敬天愛人の教え」
(西郷隆盛宿陣跡資料館の展示パネルより)
右:西郷隆夫氏と竹田恒泰氏☆
左:竹田恒泰氏による記念植樹
《西郷隆盛宿陣跡資料館》
(Photo by ISSA)

北川陵墓参考地
屋敷のすぐ裏側には、瓊瓊杵尊の陵墓参考地や、可愛岳に向かう登山口があります。

(Photo by ISSA)
北川陵墓参考地
《宮崎県延岡市北川町長井》
(Photo by ISSA)
北川陵墓参考地
《宮崎県延岡市北川町長井》
(Photo by ISSA)

なお、宮内庁により正式に治定されている瓊瓊杵尊の御陵は、以前、こちらの記事でご紹介した、神代三山陵(注3) の一つである鹿児島県薩摩川内市の可愛山陵(1874年(明治7年)治定)ですので、

(注3) 神代(神武天皇以前の時代)の陵墓として正式に御陵に認められているのは、日本全国で神代三山陵(可愛山陵、高屋山上陵、吾平山上陵)の3つだけ

宮崎県延岡市にあるこちらの陵墓については、その候補地のひとつとして、1895年に認定された「参考地」ということになります。

西郷隆盛が、この地に本陣を構えた1877年は、その認定前ということになりますが、古くから北川の地が可愛山陵であると伝えられていたことから、

国家神道の最盛期にあった官軍としては、容易に手出しできない聖域だったことは間違いなさそうです。

おわりに
最後に、西郷隆盛の辞世の句とも言われる(注:諸説あり)七言絶句をご紹介しておきます。

西郷隆盛辞世の七言絶句
(西郷隆盛宿陣跡資料館の展示パネルより)

肥後の川を渡り
豊後の山を越えて来たけれども
征路はもはやここに窮まった

先祖の眠る墓地に帰ろう
新政府を制覇する計画が
破綻したからには

私の半生
功績と罪過の両方の跡かたを
残したようだ

冥途に行ったら
どんな顔をして
斉公彬にお目見えしようか

西郷隆盛は、私学校の生徒らが政府軍の弾薬庫を襲撃したとき、恐らく、自らが挙兵して新政府の在り方を問い質す以外に、もはや道はないと決意しました。

熊本城、田原坂、和田越など、政府軍との激戦を交わし、気がつけば、多くの兵士が傷つき、菊次郎は重症を負い、仲が良かった家族や友人は、敵・味方に分かれて戦っている。

元々、黒船来航以来、日本人同士が争わず、外国からも侵略されない、強く豊かな国を目指していたはずなのに、どうしてこんなことになったのだろうか。

「敬天愛人」
(財団法人 西郷南洲顕彰会)

民には豊かさを
官僚には慎ましさを
サムライには誇りを

そう思って必死に走り続けてきたが、いよいよ進退極まった。

サムライの時代は終わろうとしている。ここに、薩軍は解散し、険しい九州山地を越えて、誇りを持って死すに相応しい生まれ故郷の鹿児島に帰ろう。

ラスト・サムライ、西郷隆盛の無念の想いが、この七言絶句に刻まれているような気がしました🍀