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ふるさと再発見 ~ 名城・熊本城

今から9年前の2016年4月、熊本で震度7を超える2度の地震が発生し、県民の誇りだった名城・熊本城が大きな被害を受けました。

震災直後の大小天守

当時、都内で勤めていた私は、羽田から福岡に飛び、レンタカーで熊本に入ったのですが、あのころ未だ健在だった両親が、私の顔を見て安堵した様子が、今でも思い出されます。

両親が生前、誇りにしていたことを掘り起こし、ふるさとを再発見することが、亡き両親の供養に繋がるーーー。

そういう思いから、この度、2021年にリニューアル・オープンした熊本城を十数年ぶりに再訪してみることにしました。

《熊本城ミュージアム わくわく座》
(Photo by ISSA)

1 熊本城の概要
熊本城は、熊本市中央区に位置し、安土桃山時代から江戸時代に栄えた日本のお城です。

東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを合わせた広さに相当する広大な城郭を有し、丘陵にそびえる高さ約30mの天守から市内を一望に見渡すことができます。

天守から城下町を望む
(Photo by ISSA)

加藤清正(以下「清正公」)が築城し、幕末までは細川家の居城として、大きな戦を経験することもなかったのですが、

日本史上、最後の内戦と言われる明治期の西南戦争で戦場となり、大小天守や本丸御殿などが焼失しました。

清正公の銅像と桜
《熊本市西区花園・本妙寺公園》
(Photo by ISSA)

大戦中は空襲から免れ、1960年に現在の姿で再現されました。

日本三名城(注1) のひとつに数えられ、日本さくら名所100選にも選ばれています。

(注1) 明確な定義はないが、規模、強度、美しさなどから、熊本城は、江戸城、大阪城、姫路城、名古屋城などと並ぶ名城とされている

桜の名所・熊本城
熊本城公式ホームページ

2 加藤清正の治世
この地には、元々、15世紀後半に菊池氏の一族・出田秀信が築いた千葉城と、16世紀前半に鹿子木親員(寂心)が築いた隈本城という2つの城がありました。

千葉城跡 ~ 旧・NHK熊本局跡地
《熊本市中央区千葉城町》
(Photo by ISSA)
隈本城跡 ~ 現・第一高校の敷地
《熊本市中央区古城町》
(Photo by ISSA)

その後、1588年に豊臣秀吉の命を受けた清正公が隈本城に入り、肥後半国(注2) の領主となりました。

(注2) このときの領地は肥後の北半分の19万5千石。1600年の関ヶ原の戦いの後、肥後一国(54万石)が与えられた

前の領主だった佐々成政の悪政で荒廃した熊本を立て直すため、清正公は治山治水工事や水田開発など、積極的に領地経営を行いました。

この間、1592年と1598年に文禄・慶長の役(いわゆる「朝鮮出兵」)で朝鮮半島に出陣しますが、無事、帰還することができました。

このことを神前に感謝し、100人の兵を引き連れて神幸式に供奉したのが起源とされる藤崎八旛宮秋季例大祭(注3) は、熊本を代表するお祭りとなっています。

(注3) 藤崎八旛宮は、古くから熊本城の鎮守社とされ、秋季例大祭は、以前は「朝鮮を滅ぼした」という随兵の掛け声に由来して「ぼした祭り」と呼ばれていた

お祭りの後、くたびれモードのISSA少年
《藤崎八旛宮》
(Photo by ISSA's Mother)

築城の名手としても知られていた清正公は、早くから城の改造に着手しています。

この一帯にあった茶臼山に城郭を築き、1600年には大天守、そして1607年には全ての工事を完了し、隈本を「熊本」に改めました。

清正公は、肥後藩の初代藩主を務め、現在の熊本市に通じる礎を築いたことから、市民から大変慕われており、現在、城下の一等地にある加藤神社に祀られているほか、

《熊本市中央区本丸・加藤神社》
(Photo by ISSA)

清正公の菩提寺である本妙寺にも祀られています。

《熊本市西区花園・本妙寺》
(Photo by ISSA)

3 細川家の治世
1611年に清正公が没したあと、息子の忠広が藩主を務めましたが、その後、1632年に豊前小倉城の城主だった細川忠利(注4) が藩主として入城し、以後、11代・237年に及ぶ細川家の治世が訪れます。

(注4) 細川家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた大名家。1993年に55年体制を崩壊させた第79代内閣総理大臣の細川護煕は、細川家の第18代当主である

文武両道に優れた忠利は、同じく文武両道で名をはせた宮本武蔵(注5) を1640年に熊本に招き、千葉城付近に住まわせました。

宮本武蔵旧居跡
《熊本市中央区千葉城町》
(Photo by ISSA)

(注5)  宮本武蔵は、熊本で二天一流の兵法を完成させ、茶・禅・書画にも通じたほか、1643年から金峰山にある霊巌洞で五輪書を執筆し、熊本で亡くなっている。(☞ 宮本武蔵については、次回、詳しく取り上げます)

最盛期には、大小天守をはじめ、49の櫓と18の櫓門及び29の城門が群居していたそうです。

4 明治維新後、西南戦争の舞台に
維新後の1874年、熊本城一帯は明治陸軍に接収され、本丸に熊本鎮台が設置されました。

1876年の神風連の乱(注6) では、反乱士族の一時的な乱入を許しましたが、すぐに鎮圧されています。

(注6) 旧肥後藩士族の勤皇党の士族である「神風連」が、明治政府が発布した廃刀令に反発して起こした反乱

神風連之変 将士奮戦之跡
《熊本市中央区二の丸》
(Photo by ISSA)

その後に勃発した西南戦争では、熊本城は政府軍の拠点である一方、西郷軍にとっても重要な攻略目標となりました。

征韓論を機に下野することになった西郷隆盛は、薩摩に私学校を設立しますが、急進派の生徒が陸軍火薬庫を襲撃したことで西南戦争へと発展。

1877年2月15日、大雪の中、1万を超える軍勢を率いて進軍を開始します。

薩摩を離れた西郷軍が最初に向かったのは、熊本城の南にある川尻の宿場でした。

《熊本市南区川尻・南州翁本営跡》
(Photo by ISSA)

西郷軍が熊本城を攻撃する直前の1877年2月19日、原因不明の出火で熊本城と城下町一帯が炎に包まれ(注7) ました。

鹿児島の賊軍熊本城激戦図

(注7) この火事で、大小天守と本丸御殿及び民家約千軒を消失。放火や自焼などの説があるが、原因は特定されていない

熊本城官賊両軍攻守之図
《熊本城ミュージアム わくわく座》
(Photo by ISSA)

西郷軍14,000人に対し、熊本鎮台司令長官・谷干城が率いる官軍はその1/3以下の4,000人でしたが、50日に及ぶ激しい籠城戦の末、

熊本鎮台司令長官・谷干城の銅像
《熊本市中央区千葉城町》
(Photo by ISSA)

優勢だったはずの西郷軍でも「武者返し」で有名なこの城を攻め落とすことは出来ず、

「おいどんは官軍に負けたとじゃなか
 清正公に負けたとでごわす」

西郷隆盛はこう言い残して、撤退を余儀なくされました。

《熊本城ミュージアム わくわく座》
(Photo by ISSA)

清正公が手がけた熊本城は、築城から270年の時を経てもなお難攻不落(注8)であることを証明し、近代戦を経験した稀有の城となったのです。

(注8) 2022年9月にテレ朝が放送した「歴史の専門家が選ぶ 難攻不落!最強の城総選挙」では、熊本城が第1位に輝いている

その後、熊本城の北西にある田原坂は、西南戦争における最大の激戦地となりました。

《田原坂西南戦争資料館》
(Photo by ISSA)
《熊本市北区植木町・田原坂公園》
(Photo by ISSA)

5 天守再建へ
西南戦争後、陸軍が不要と判断した40以上の櫓が解体処分されましたが、1933年、城内に残っていた13棟の建築物が国宝(現・重要文化財)に指定されました。

1945年7月、市街地の20%を焼失した熊本大空襲では、奇跡的にこれら国宝建築物の焼失は免れ、1955年、「熊本城跡」として城郭一帯が国の特別史跡に指定されました。

日本全国の「特別史跡」になっているお城
ひごまると学ぼう!熊本城

この頃から天守再建の気運が高まり、1960年に大小天守が復元されることになりました。

完成間近の大小天守
築30年が過ぎ、修復中の
熊本城上空にて - 1993年頃
(Photo by ISSA)

2007年、築城400年祭が熊本城一帯で開催され、本丸御殿大広間をはじめとする幾つかの建造物が復元されました。

本丸御殿大広間
(Photo by ISSA)

6 名城と言われる理由
(1) 立地
熊本城は、幕府が敵と見做していた薩摩への備えとして建築され、背後に山、前面に2つの川を備えた高台という自然を活用した立地にあります。

熊本城の立地
ひごまると学ぼう!熊本城

そのため、熊本城には内堀らしい内堀はなく、唯一あるのは飯田丸の西にある備前堀ひとつだけとなっています(下図、黄色部分)。

また、坪井川に面した熊本市役所前の長塀は、長さが約242mと、日本一長い石垣となっています(下図、赤色部分)。

熊本城の全体像
熊本城公式ホームページ
坪井川に面した長塀
《熊本市役所前》
(Photo by ISSA)

(2) 宇土櫓
第3の天守とも言われる宇土櫓(うとやぐら)は、高さ21mの安土岩の台座の上に建つ高さ19mの日本一高い多重櫓です。

この3重5階地下1階の大きな櫓は、もはや櫓(見張り台)の域を超えた天守のようであり、清正公が手がけた最初の天守という見方もあるそうです。

震災前後の宇土櫓
(Photo by ISSA)

宇土櫓は、西南戦争に耐え、大戦中の空襲からも免れた、熊本城築城当初から現存する重要文化財だったのですが、

熊本地震で大きな損壊を被ったため、2023年から櫓を解体して組み直すことになりました(2032年までに復元予定)。

(3) 武者返し
熊本城では、下の写真のように上に行くにしたがって傾斜が垂直になる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用しています。

熊本城特有の石垣である「武者返し」
(Photo by ISSA)

(4) 連続枡形
竹の丸から飯田丸に向かう通路は6回も折れ曲がっている上に、たくさんの櫓や櫓門が待ち構えており、

仮に城郭内に入場できたとしても、容易には本丸に接近できないようになっています。

熊本城特有の通路である「連続枡形」
(Photo by ISSA)

7 熊本地震とその後
2016年の熊本地震では、重要文化財建造物13棟全ての建造物が被災しました。

前述の宇土櫓など、一部は部分的な破損で済みましたが、幾つかの建造物は倒壊しました。

被災直後の熊本城
熊本城公式ホームページ

また、1960年に再建された復元建造物20棟も全て被災。

鉄筋コンクリートの天守は、建物自体に損傷は少なかったものの、最上階の瓦はほとんど剥がれ落ちてしまい、

被災直後の熊本城
(「熊本城公式ホームページ」より)

そして、最も大きな被害を受けたのが石垣でした。

崩落した数寄屋丸の石垣
(Photo by ISSA)

熊本城の石垣は 973面・約79,000平方mに及びますが、うち約4割が崩落又は積み直しが必要な状態(注9) にあります。

積み直しのため並べられた石垣
《北大手櫓門跡》
(Photo by ISSA)

(注9) 熊本城は国の特別史跡であるため、崩落した石の位置を記録し、石に番号を付け、個々の石の特徴を記録・整理して、全ての石を元の位置に戻して復旧することになっている。

復旧完了へのマイルストーンは下表のとおりで、全ての作業が完了する2052年度までの道のりは、まだまだ遠いのが実情です。

熊本城復旧基本計画
(熊本城公式ホームページ)

ただ、天守周辺の復旧作業は完了しており、2021年4月から全面リニューアルした展示品と、最上階からの眺望を楽しめるようになりました。

大小天守に通ずる道
(Photo by ISSA)

リニューアル後、初めて行ってみましたが、懐かしい気持ちや新たな展示物に心躍る傍ら、

近代化・観光地化し過ぎて、昔、親父たちと見た熊本城とは違っていたことから、やや複雑な気持ちにもなりました。

リニューアルした大天守の内部
(Photo by ISSA)

ただ、案内役におもてなし武将隊を取り入れたり、

熊本城おもてなし武将隊
(Photo by ISSA)

特別見学通路として空中回廊を導入するとは、よく考えたものだと思いました。

特別見学通路からの見どころ
熊本城公式ホームページ

来場者に、まるでドローンでみるような新たな視点を与えつつ、回廊の下では、引き続き工事を進められるからです。

おわりに ~ 再発見した日本の真心
私の「note」におけるテーマは「美しい日本の真心を掘り起こすこと」なのですが、今回、熊本城のリサーチを終えて、次のような「真心」を再発見することが出来ました。

① 県民に根付く公徳心
熊本地震の後、多くの県民が「思いのほか、熊本城は大きな存在だった」ことに気づかされました。

日々、熊本城の存在を意識することで、清正公を主(あるじ)とする誇りから来る公徳心のようなものが、県民の心に浸透していた証なのかもしれません。

清正公の銅像
《熊本市中央区桜町・御幸橋南詰》
1991年に辛島公園前からこの場に移設
(Photo by ISSA)

② 復興に取り組む匠の技と心
熊本城の周辺では、至る所で復興に取り組む匠の技と心をうかがい知ることができました。

これこそ、歴史と伝統を重んじてきたモノづくり大国・ニッポンの心髄なのだと思います。

③ 宮本武蔵と武士道の心
熊本城下に剣豪・宮本武蔵が居たことと、現在の熊本が全国でも指折りの剣道強豪県であることは、決して無縁ではないと思いました。

「常に兵法の道をはなれず」です。

詳しくは次回作で。

④ 可愛いを生み出す遊び心 
清正公の実像は、恐れ多い戦国武将なのでしょうが、県民は「清正公さん」(せいしょこさん)と親しみを込めてそう呼んできました。

そして、まさか「くまモン」とコラボにされるとは、ご本人も思ってもみなかったでしょうけど…(笑)

左:肥後よかモン市場
右:加藤神社社務所前
(Photo by ISSA)

ただ、こういうところに「恐れ多いもの」を「親しみやすく、かわいい(Kawaii)もの」に変えてきた日本古来の遊び心が表れている気がしました。

⑤ 自分自身の中にある郷土愛
そして、自分自身の中に確かに根付いている郷土愛。

生まれ育った熊本を離れて数十年。この間、転勤を繰り返すこと、少なくとも25回以上。それでも、常に心のどこかにあった故郷・熊本への憧憬の念。

「いつか帰る」と思い続けて、遂に、その思いは叶うことなく、両親も実家も失ってしまったけれども、

本妙寺公園から熊本城方面を望む
(Photo by ISSA)

桜咲く熊本城周辺を散策する中で、

私はこの先、どんなに熊本から離れていようとも、私の心の真ん中で故郷を大切に思い続けようと、あらためて強くそう感じました。

今回、こうした真心を見つけたことが、私にとっての「ふるさと再発見」だったように思います。

坪井川沿いのベンチで日向ぼっこ&
毛づくろい真っ最中の地域猫さん💛
(Photo by ISSA)

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肥後六花
《熊本城ミュージアム わくわく座》
(Photo by ISSA)

☟ 熊本城と肥後六花については、Desert Rose さんが詳しくまとめられていますので、是非、ご一読ください。

次回は、宮本武蔵に関するお話です。
いつも、ありがとうございます🍀