「薩摩スチューデント」が開花させたこと
JR鹿児島中央駅の前には、西郷隆盛でも大久保利通でもなく、「薩摩の若き群像」と題した19人の銅像が立ち並んでいます。

《JR鹿児島中央駅前》
(Photo by ISSA)
彼らは 、英国人から「Brilliant Satsuma Students」と讃えられた、幕末期に西洋で学問を修めた薩摩の若者たちです。
薩摩スチューデントとは?
幕末期、長州には「長州ファイブ」という留学組が居たことは、以前、こちらの記事でご紹介しましたが、

中・右:萩藩校「明倫館」
(Photo by ISSA)
薩摩にも、「薩摩スチューデント」と呼ばれる留学組が居ました(19人の名前や功績など、細部は後述)。

薩摩藩主の島津斉彬公は、日本が植民地となることがないよう、一刻も早く西洋の知識と技術を習得して、日本を近代国家に変えていく必要があると考えていましたが、
1858年に斉彬公が亡くなった後、その思いは1865年から英留した薩摩藩士たちによって実現されたのです。
きっかけは生麦事件
1862年9月、幕政改革のため江戸城入りしていた薩摩藩の国父・島津久光が京都へ戻る途中、武蔵野国の生麦村に差しかかったとき、乗馬で日本見物の途にあった英国人一行と遭遇します。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
日本の風習や言葉を知らなかった一行は、騎乗のまま久光の駕籠に近づき列を乱してしまい、取り巻きの藩士から無礼討ちに遭いました。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
英国はこの一件に激怒し、代理公使を通じて、幕府と薩摩藩に謝罪と賠償金、そして犯人処刑を要求しました。
薩英戦争の勃発
これに反発し続ける薩摩に圧力をかけるため、英国は1863年8月に艦隊を鹿児島湾に送り込みます。
しかし、それでも薩摩はこの要求を拒否し続けたため、英艦隊は五代友厚(後述)らが乗船する藩の船3隻を拿捕。
これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は、天保山砲台から英艦隊に砲撃を開始し薩英戦争が勃発します。

《鹿児島市天保山町》
(Photo by ISSA)

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
錦江湾で、英艦7隻の艦砲101門と、薩摩藩10か所のカノン砲82門が激しく撃ち合いますが、

相手は大英帝国の艦隊。薩摩藩のカノン砲は、倍以上の射程を誇る英側のアームストロング砲に太刀打ちできず、薩摩の城下は甚大な被害を被りました。
西洋の強大な軍事力を目の当たりにした薩摩は、かつて斉彬公が主張していた西洋の知識と技術を習得することの重要さを再認識することになったのです。

《鹿児島市清水町》
(Photo by ISSA)
その後、横浜の英国公使館で交渉が行われ、薩摩藩が賠償金を支払うことで和解が成立しました。
交渉中、薩摩藩が英国に軍艦購入の周旋を依頼したこともあり、以後、薩英関係は一転して深まっていきます。
立役者は「五代友厚」
薩摩藩士の英留を実現した最大の立役者が、映画「天外者」(注1) の主人公にもなった五代友厚でした。
(注1) 天外者(てんがらもん:鹿児島弁で「すごい才能の持ち主」)は、2020年に公開された、五代友厚を主人公とした映画で、三浦春馬の最後の主演作品となった
五代は、1836年2月、薩摩藩に生まれ、幼少期から文武両道の郷中教育を受け、斉彬公から「才助」と名付けられるほどの才覚の持ち主でした。

《鹿児島市・五代友厚誕生地》
(Photo by ISSA)
1856年、長崎海軍伝習所に派遣され、坂本龍馬と共に航海術などを学びました。
翌1862年、五代は斉彬公の命で上海に渡航(注2) し、汽船を買い付けました。その時、上海で高杉晋作と親交を深めたようです。
(注2) 薩摩藩士の幕府船への乗船は認められていなかったため、五代は水夫に変装して乗船した
先述のとおり、薩英戦争の時は船ごと英艦隊に拿捕されました。
グラバーとの出会い
その後、横浜で釈放された五代は、夷狄の捕虜になり、開国論を唱えたことで攘夷派に目をつけられて薩摩に帰ることができず、
しばらく長崎に潜伏して、貿易商・トーマス・グラバー(注3) の庇護を受けました。
(注3) スコットランドの商人で、1861年に「グラバー商会」を設立。武器商人として幕府や坂本龍馬の「亀山社中」と取引したほか、1863年に長州ファイブ、1865年に薩摩スチューデントの海外留学を手引きした
三菱財閥の相談役としても活躍し、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。私生活では五代の紹介でツルと結婚し、長女ハナをもうけている
グラバーを通じて世界情勢を知り、危機感を覚えるようになった五代は、
1864年6月、国造りの在り方について、13,000語を超える文章で書き綴った上申書を薩摩藩に提出します。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
この内容を、簡単に言えば、
① 国内特産物の海外輸出
② その利益で軍艦等の買い付け
③ 海外留学の奨励とその成果の還元
ということですが、幼少期から「才助」と呼ばれた五代らしい具体的な数値を伴った内容で、説得力は十分でした。
この五代の上申書が、藩内の攘夷論者を抑え、洋行禁止の幕命に背いてでも藩士を英留させるという薩摩藩の決心を促したのです。

(Photo by ISSA)
遂に藩命が下る
翌1865年2月、開成所(注4) から留学生が選ばれ、視察員を含めた19人に英留の藩命が下されました。
(注4) 薩摩藩士のための洋学校として1864年に開設。日本の近代化に貢献する人材を育成するため、英語、蘭語、砲術、兵法、天文、地理、数学、測量、造船と、教育課目は多岐に及んだ
当時は未だ鎖国の最中でしたので、19人は偽名を使い、「甑島周辺の調査」という偽令を携えて羽島(現・いちき串木野市羽島)に潜入したそうです。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
彼らは、出国までの2か月間を、この羽島で過ごしました。

(Photo by ISSA)
この時代、藩命とはいえ幕府に見つかれば死罪は免れ得ません。
この石碑は、留学生の一人だった畠山義成が詠んだ一句ですが、

(Photo by ISSA)
島津家の上級家臣である家柄の者として、夷狄に学ぶことに最後まで強い抵抗感があったようです。
旅立ちのとき
1865年4月16日、若き志士たちは、いよいよ羽島沖でグラバーが用立てた蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
熱き思いを胸に、英国へと旅立ったのでした。

《維新ふるさと館・維新体感ホール》
(Photo by ISSA)
乗船してすぐ、彼らは船長から刀を預けるようにと指示されます。
武士の魂を取るか、
それとも、学問の志かーーー。
迷った末に「これからは刀で勝負する時代ではない」と思って、刀を船員に預けることにし、

(Photo by ISSA)
そのうち、覚悟を決めて髷を切る者も現れました。
驚きに満ちた世界
一部の藩士は幕府海軍の経験があったものの、外航船での生活は、慣れないことばかりでした。
飛び交う英語、見慣れぬ西洋料理、そして最も苦しめられたのが船酔い。
それでも、英国までの長い旅路は、驚きに満ちたものとなりました。

《鹿児島市・黎明館》
(Photo by ISSA)
最初の寄港地・香港では、何十隻もの軍艦、大きなレンガ道、連なり輝くガス灯に驚きと感動を隠せず、
初めて仕立てた洋服に袖を通し、時計を身に着け、紅茶を飲み、少しずつ西洋の作法を身に着けていきました。
一行は、ここで客船「マドラス号」に乗り換えます(船内で初めて洋式トイレを見た五代は、便器とは分からず、水を掬って顔を洗ったという)。
シンガポールでは、初めてパイナップルやアイスクリームを食べました。次第に船酔いにも慣れ、航海中は英語の学習に勤しみました。

(Photo by ISSA)
ボンベイやアデンでは、現地人の貧しい暮らしや西洋人による差別的な扱いを目の当たりにし、「自分達の帰国が遅れたら、日本もこうなるかもしれない」と危機感を覚えたようです。
スエズでは、とてつもない労働力を駆使した運河工事を見学し、アレクサンドリアまでの陸路は、疾風の如し鉄道で移動し、電信も体験しました。
そして、大英帝国へ
日本を離れて65日目となる1865年6月21日、一行は遂に英国のサウザンプトン港に到着します。
待ちに待ったロンドンでの暮らしが始まりました。

ビッグベン(1859年 建築)と
大英博物館(1753年 建築)
(Photo by ISSA)
彼らはユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で数学や化学、天文学など、脇目もふらず猛勉強に励み(注5) ます。
(注5) それもそのはず、香港から英国までの船賃だけでも、現在の価値で一人当たり2,700万円に相当したという
長州ファイブとの出会い
少し前の1863年11月から、同じくUCLに留学中だった長州ファイブのうち、野村・遠藤・山尾の3人 が、1865年7月に薩摩藩士らの宿舎を往訪しています。
薩長同盟(1866年3月)前のことなので、薩長は日本国内では対立関係にあったのですが、
両者は互いに「志を同じくする日本の同胞」と認識(注6) し、藩を超えて国家の展望を語り合い、親交を深めていきました。
(注6) 周囲に日本人が居ない環境に身を置かれると、こういう心境にさせられるものだ
薩摩藩士らは、留学資金が底をつきかけて困っていた長州の山尾庸三のために、皆で出し合ってお金を工面し、
造船技術を学ぶ山尾のグラスゴー行きを手助けしました。

(Photo by ISSA)
それぞれの道へ
こうして彼らは、強い志をもって異国における障害を克服し、見分を広め、学問や技術を習得し、帰国後は黎明期の日本を近代化していく原動力となっていきました。
19人のうち、下表①~⑤の5人について簡単にご紹介したいと思います。

注:年齢は日本出発時のもの
(Created by ISSA)
① 五代友厚
薩摩藩士を英留に導いた五代は、その後、フランスなど欧州各国を歴訪し、1866年2月、薩摩の山川港に帰藩しました。
帰国した五代は、大型船を修理できるドライドックを望む声の高まりから、早速、グラバーや小松帯刀とともに長崎港の入口近くに小菅修船場を建設しました。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
1868年から明治新政府の役人を務めたあと、五代は民に下り、以後、約15年間、1885年に他界するまで、経済的に低迷していた大阪の商業開発に尽力しました。

(Photo by ISSA)
相互扶助と信用第一を理念とし、大阪が栄えることによって殖産興業にも資するという信念を持って活動(注7) し続けました。
(注7) 五代は、大阪に造幣局を誘致し、初代・大阪税関長を務め、大阪商船(現・商船三井)、大阪通商会社、大阪貿易会社、大阪活版所、大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電鉄)、金銀分析所、堺紡績所、大阪商業講習所 (現・大阪市立大学)など様々な起業に携わったほか、1878年から大阪商工会議所の初代所長を務めた

《鹿児島市泉町・泉公園》
(Photo by ISSA)
五代のお陰で、やがて大阪は「東洋のマンチェスター」と言われるまでに成長したのです。

《大阪市中央区本町橋・大阪商工会議所》
(Photo by ISSA)
五代友厚は、武士でありながらも、その才能を「人を斬る」ためではなく、国や社会の発展のために「仁義を切る」ために使い続け、まさに「士魂商才」と呼ぶに相応しい人物と言えるでしょう。

《鹿児島市長田町》
(Photo by ISSA)
② 町田久成
町田久成は英留中、大英博物館やパリ万博を見て「国民開明のためには博物館の創設が必要」と思い立ち、帰国後、博物局を創設して1872年に湯島聖堂博覧会を開催。
その後、こちらの記事でご紹介した、日本初の博物館である東京国立博物館(当時、帝国博物館)を創設し、
その初代館長として、日本の伝統工芸や文化財の保護に尽力しました。
③ 村橋久成
村橋久成は、北海道で日本初のビール工場である開拓使麦酒醸造所(現・サッポロビール)の創業に携わりました。

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
④ 長沢 鼎
そして、わずか13歳の少年だった長沢鼎は、

《鹿児島県鹿児島市下荒田》
(Photo by ISSA)
渡米後、キリスト教系新興団体から譲り受けたファウンテン・グローブという名の土地を、カリフォルニア有数のワイナリーに育て上げ、やがてカリフォルニアの「Grape King」と呼ばれるようになりました。

右:ファウンテン・グローブ・ラベルのワイン
《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
後年、1983年11月に来日したロナルド・レーガン米大統領は、日本の国会で演説を行い、尊敬すべき日本人として長沢鼎の名を挙げています(下の動画で26分00秒辺りから約1分程度)。
⑤ 松村淳蔵
長沢と共に渡米した松村淳蔵は、1869年12月から1873年5月まで、アナポリスの米海軍兵学校に入学し、同校初の日本人卒業生となりました。
帰国後は、1876年以降、幾度となく大日本帝国海軍の兵学校長を務め、留学経験を活かした海軍教育に力を尽くしました。
海洋・海軍と共に開かれた日本へ
薩摩スチューデントの英留から5年後の1871年3月、東郷平八郎が、当時はまだ無名だった「日本海軍士官」として単身渡英し、大英帝国で多くのことを学んでいます。
ヴィクトリア朝時代(1837~1901年)の大英帝国は全盛期にあり、世界中の植民地と海域に「Her Majesty's Ship」(女王陛下の船)を冠する軍艦を遣わした、まさに「日の沈まない帝国」だったのです。
英海軍は、今年の夏、「His Majesty's Ship」(国王陛下の船)である空母「プリンス・オブ・ウェールズ」を中心とする艦隊を太平洋方面に展開し、海上自衛隊と共同訓練を行います。
海軍を通じて若者の視野が開かれ、海洋を通じて国の繁栄がもたらされる。
このことは、昔も今も変わらないのだろうと思います。
おわりに
かつて、幕府を欺き、命をかけて海を渡り、刀を捨ててペンを取り、英国人から「Brilliant Satsuma Students」と評された薩摩藩士たちは、
やがて新政府のみならず、海軍、商業、農業、教育、学術などのあらゆる分野、日本全国の各地において、欧米から学び得たことを日本の安全と繁栄のために「開花」させました。

その花々は、五代友厚が遺した言葉からも分かるとおり、

決して地位や名誉や金のためではなく、他者の幸福と明るい未来を実現するために学び、行動し続ける高潔な心意気を「種子」としていたことは言うまでもありません。

(Photo by ISSA)
あれから150余年が過ぎ、彼らが日本各地に蒔いたはずの高潔な心意気という名の「種子」は、忘れ去られようとしています。
何のために学び、
その学びを何に活かすのか。
私たちは、今一度、そのことを問い直すときなのかもしれません。
いつも、ありがとうございます🍀
