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江田船山古墳 〜 銀象嵌銘大刀の魅力に迫る

先日、上野の東京国立博物館で、国宝に指定されている銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)を観てきました(カバー画像参照)。

東京国立博物館について
東京国立博物館(東博)は、日本で最も長い歴史をもつ博物館です。

1872年3月、湯島聖堂で開催された博覧会で産声を上げ、1900年に「東京帝室博物館」に改称されました(1917年に森鴎外(津和野出身)が総長に就任)。

森鴎外総長室跡
《東京国立博物館・平成館前》
(Photo by ISSA)

1938年に建築された本館は、洋風の建物に瓦屋根を乗せた和洋折衷の帝冠様式となっています。

帝冠様式の外観をもつ東博本館
《東京国立博物館・本館前》
(Photo by ISSA)

1952年に「東京国立博物館」に改称されました(2001年に重要文化財に指定)。

威厳を感じさせる東博の中央階段
《東京国立博物館・本館内》
(Photo by ISSA)

広々とした館内では、各地から集められた様々な国宝級の収蔵品(注1) を見ることができます。

(注1) 国宝88件、重要文化財634件を含む、約11万6,000件もの文化財を収蔵

東博本館内の収蔵品
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

江田船山古墳の特設コーナー
その歴史ある東博本館の一角に、銀象嵌銘大刀など数多くの副葬品が出土した江田船山古墳(後述)の特設コーナーがあります。

江田船山古墳出土品の特設コーナー
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

中でも、銀象嵌銘大刀と、近隣の岩戸山古墳から出土した石人(後述)については、専用ブースが設けられるほどの特別扱いです。

銀象嵌銘大刀(右)と石人(左)の専用ブース
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

銀象嵌銘大刀とは
銀象嵌銘大刀は、1873年に熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した、剣先から根元にかけて銀象嵌による75文字の銘文が施された大刀のことです。

国宝 - 銀象嵌銘大刀
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

平安期に出現した、弓反りで細身が特徴の日本刀よりも遥か昔に作られた刀なので、形状は真っ直ぐ伸びた大刀というイメージです。

銘文には、綻びて読みにくい部分もありますが、現存する日本最古の漢字使用例とされています。

冒頭の「治天下獲□□□鹵大王世」(□:判読不能文字)の部分は、研究の結果、「治天下獲加多支鹵大王世」(天下を治めるワカタケル大王の治世)と解釈され、

釈文の展示パネルより抜粋
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

この刀が、ワカタケル大王と目される雄略天皇(後述)の治世に制作されたとする論拠になっています。

ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文書を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、8月に、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。80回、90回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともなし。命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記した者は張安である。

歴史学者・東野治之氏による釈文

刀の根元に近い部分には、魚、鳥、馬の文様が銀象嵌で施されています。

銀象嵌による文様の拡大画像
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

金錯銘鉄剣について
更に興味深いのは、後年、埼玉県の稲荷山古墳からも「獲加多支鹵大王」の文字が刻まれた別の鉄剣が出土していることです。

こちらは金錯銘鉄剣(きんめいさくてっけん)と呼ばれ、1983年に同じく国宝に指定されました。

「銀象嵌銘大刀」と「金錯銘鉄剣」
(Created by ISSA)

この金錯銘鉄剣は、埼玉県行田市の「さきたま史跡の博物館」に収蔵されており、私は未だ⾏ったことがありませんので、akiyochan 様と asaisan 様の記事を引用させて頂きました。

歴史的意義について
これらの両剣は、次のような歴史的意義を物語っています。

① 雄略天皇の時代には、朝廷の勢⼒が既に九州から関東にまで及んでいたこと

② どちらの銘文にも「治天下」の文字があることから、日本は雄略天皇の時代に中国の影響下から離れた、或いは、その決心をしたということ

③ この頃までには、日本の広範囲で共通する文字の使用が始まっていたこと

刀は、単なる武器でははなく、時に身分、地位、技術力、美的価値、呪力などを誇示するツールとして用いられていたこと

「銀象嵌銘大刀」の模造品
《熊本県玉名郡・和水町歴史民俗資料館》
(Photo by ISSA)

獲加多支鹵大王とは
獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)とは、第21代・雄略天皇のことです。

勇猛かつ優れた戦略家として頭角を現し、中国の宋書では倭王武と記され、朝鮮半島の支配権を認めて貰うため中国に使者を送りました。

479年に宋が滅亡すると、雄略天皇は、少なくとも倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢(王朝に貢物を奉呈すること)した57年から続いてきた冊封(注2) から離れることにしました。

(注2) 中国の歴代王朝は、朝貢により服従の意を表す周辺国と主従関係を結び、見返りに中国式の国王名に与えてきた。その背景には、中国から見て辺境にある国や民族は夷狄(いてき)、つまり「未開の野蛮人」とみなす中華思想があった

中華思想を撥ねつけた推古天皇と聖徳太子

そもそも「倭」とは「いやしい」ということを意味し、蔑称を込めて倭と呼ばれ、中国皇帝の従属的な地位に甘んじ続けることを良しとしなかったのでしょう。

雄略天皇が最後の特使を派遣してから約120年もの間、日本は中国との交流がなかったのですが、

後に初の女帝となった第33代・推古天皇は、聖徳太子を摂政とし、遣隋使の派遣を開始する一方で、毅然とした態度で対中外交を推進したことは、こちらの記事でご紹介したとおりです。

江田船山古墳について
この古墳は、5世紀後半に造られたとみられる前⽅後円墳(注3) です。

(注3) 前⽅後円墳は、主にヤマト王権(後の大和朝廷)との関係が深い⾸⻑層の墓として築造された

前方後円墳の特徴を持つ江田船山古墳
《熊本県玉名郡和泉町》
(Photo by ISSA)

後円部の中央に埋葬施設があり、1873年に、石棺から銀象嵌銘大刀を含む92の副葬品が見つかりました。

江田船山古墳
《熊本県玉名郡和泉町》
(Photo by ISSA)

調査の結果、5世紀後半から6世紀前半にかけて、順次3人の人物が葬られたようで、そのうちの1人が、黄金の威身具に包まれて埋葬され、銀象嵌銘大刀に名が刻まれていた无利弖(ムリテ)(注4)でした。

(注4) 雄略天皇の治世に典曹(役所の仕事)に携わっていた高官とみられるが、それ以外のことは分かっていない

江田船山古墳については、前方後円墳という形状や、出土した銀象嵌銘大刀の銘文から、この首長は、既にヤマト王権に仕えていた可能性があることを示唆しています。

「銀象嵌銘大刀」の復元刀
《熊本県玉名市・和水町歴史民俗資料館》
(Photo by ISSA)

石人について
さて、ここからは東博の専用ブースで銀象嵌銘大刀の横に展示されていた石人について、ご紹介致します。

この時代、古墳の墳丘飾りとしては埴輪が一般的なのですが、

肥後古代の森
《熊本県玉名郡和泉町》
(Photo by ISSA)

江田船山古墳を含む九州北部の一帯(注5) では、5世紀から6世紀にかけて、埴輪の代わりに短甲を着けた武人である石人が盛んに作られていたようです。

(注5) 福岡県の八女古墳群(岩戸山古墳、乗場古墳、鶴見山古墳など)や、熊本県の江田船山古墳、大分県の臼塚古墳などで多く出土している

岩戸山古墳で出土した石人の像
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

地方豪族・筑紫磐井の存在
石人が作られた時期や出土した地域から、当時、八女古墳群を本拠として強大な勢力を持っていた地方豪族・筑紫磐井(注6) による独自の文化とみられています。

(注6) 北部九州を勢力圏としていた筑紫磐井(つくしのいわい)は、527年頃、新羅と連携してヤマト王権の朝鮮半島進出を阻止しようと反乱を起こし、2年ほどの戦いの後に平定されている

石人の出土場所と江田船山古墳の位置関係

ヤマト王権の特徴
ここで疑問なのが、ヤマト王権派の象徴とも言える銀象嵌銘大刀や前方後円墳と、反ヤマト王権派・筑紫磐井の象徴とも言える石人が、同じ時期、同じ地域にモザイク状に存在していたことです。

実際に、銀象嵌銘大刀や前方後円墳がみられた江田船山古墳からも、石人の像が出土しています。

江田船山古墳から出土した石人の像
《熊本県山鹿市・熊本県立装飾古墳館》
(Photo by ISSA)

また、この地域では、「死者を隠す」という「穢れ」の思想があるヤマト王権には受け入れ難かったであろう、「死者を見せる」色鮮やかな装飾古墳が出現したり、

更に南方には熊襲隼人が居たりと、

ヤマト王権に服わぬ勢力が、幾つも存在していました。

にもかかわらず、九州には数百年という長きにわたり、ヤマト王権派と、反ヤマト王権派の豪族がモザイク状に存在していたことは、

ヤマト王権は、ある日突然、有無を言わさず他民族を殺戮・破壊し、その日を境に我にひれ伏すことを強要するような、(大陸方面で良くみられる)暴力的な王朝ではなく、

(もちろん、幾つかの大きな戦いはあったとしても、)一義的には、初代・神武天皇の詔で語られた八紘一宇の大御心を是とし、

長い時間をかけて「言向(ことむけ)和(やわ)す」こと、つまり「言葉で説いて心を和らげる」ことに努めてきたことの証であり、

彼ら地方豪族が崇めてきた氏神を仲間に加えることで、日本独自の八百万の神々が形作られていったと考えられるのです。

古墳時代とはどのような時代だったのか
日本の黎明期であった縄文・弥生時代が終わり、律令国家が成立するまでの古墳時代と呼ばれる3~7世紀の約400年間は、

地方豪族の独自の文化が栄える一方、長い年月をかけて徐々にヤマト王権の支配が進んだ時代でもありました。

江田船山古墳
《熊本県玉名郡和泉町》
(Photo by ISSA)

この時代の歴代天皇は、叡智をもって、それまで各地の有力豪族による連合体であった日本列島を天皇を中心とする律令国家に成長させ、冊封から離れて「倭」などの蔑称を拒絶し、中国と対等な立場を築いたのであり、

そのきっかけを作った人物こそが、大刀に名が刻まれた「獲加多支鹵大王」雄略天皇)だったのではないかと思います。

江田船山古墳
《熊本県玉名郡和泉町》
(Photo by ISSA)

おわりに
当初は、「我が郷土・熊本で出土した国宝が、いったい何故、東京にあるのか」と、そのことがとても疑問だったのですが、東博が所蔵することになった経緯を知り、納得しました。

江田船山古墳から銀象嵌銘大刀をはじめとする多くの副葬品が出土したのは、1873年の正月、百姓の池田佐十が、白装束の侍から「船山の地を掘れ」と告げられる夢を見て、畑の小山を掘ったことがきっかけだったと言い伝えられています。

この頃、丁度、日本で初めてとなる博覧会(注7) が、国を挙げて推し進められていた時期であり、明治政府が熊本県と交渉し、発掘品を佐十から買取り博覧会事務局に移すことになったそうです。

(注7) 近代国家の仲間入りを目指す明治新政府が、その象徴たる近代博物館を設立するための前座として、湯島聖堂で開催したもの。翌年にはウィーン万博を控えていたことから、日本の伝統芸能や文化財など、多方面から集められた約620点が展示された

東京国立博物館・表慶館
《東京都台東区上野公園》
(Photo by ISSA)

博覧会後、これらは散逸することなく博覧会事務局の後進となる帝室博物館の所蔵となり、そのまま東京国立博物館に引き継がれて現在に至っています。

こうして今、銀象嵌銘大刀をはじめとする江田船山古墳の副葬品は、日々、外国人を含む多くの方々の目に止まり、「気高い日本人の精神文化」の象徴としてソフトパワーを発信し続けています。

この方が、きっとこの大刀も喜んでいるに違いないと思って、東博を後にしました。

国宝 - 銀象嵌銘大刀
《東京国立博物館》
(Photo by ISSA)

機会があれば、是非、訪れてみてください🍀