【古今名婦伝】呉織(くれはとり)

呉織
呉織は、呉國の女なり。呉は今の南京なり。應神天皇 四十一年、呉國より皇朝に貢進る 縫女四人あり。兄媛、弟媛、呉織、宂織とよびて、衣縫の業に 精く、錦織る事に極て巧也。禽獣 花卉 意のまゝに織いだす。兄媛一人を筑紫宗像の神にたてまつり、餘の三人は 摂津國武庫に到る。今、同國池田に呉織、穴織を神に祭りて、叢祠あり。九月十七日、十八日、祭礼あり。
牡丹花の家の集に、
摂州呉織の里にかくれて
室を夢庵と号し
笹の葉の 音を頼りの 霜夜哉
※ 「牡丹花」は、室町時代中期の連歌師 肖柏の号。
※ 「夢庵」は、肖柏が摂津国豊島郡池田村の大広寺に結んだ庵。
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江戸風の姿で描かれている呉織ですが、応神天皇(仁徳天皇の父)の時代に 呉の国から渡来した女性です。

『日本書紀』によると、応神天皇三十七年に、呉国に遣わされた渡来人 阿知使主とその子 都加使主に伴われて、四十一年に 縫工女のひとりとして、漢織(穴織)、兄媛、弟媛とともに日本に来ました。
『日本書紀』の記述を見てみましょう。

三十七年春二月戊午朔、遣テ 「阿知使主」「都加使主」ヲ 於吳 、令 求 縫工女ヲ。爰 阿知使主等 渡テ 高麗國ニ 、欲 達 于吳ニ 、則至 高麗ニ 更ニ 不 知 道路ヲ 乞 知 道ヲ者於高麗 、「高麗王」乃副テ 「久禮波」「久禮志」二人 爲 導者 由テ 是ニ 得 通 吳ニ。「吳王」於 是ニ 與 工女「兄媛」「弟媛」「吳織」「穴織」四婦女ヲ 。
〔意訳〕
応神天皇三十七年の春、縫工女を求めるために、阿知使主と都加使主を呉国に遣わした。高麗を経て呉に向かう予定であったが、高麗で道が分からなくなり、高麗王が久禮波と久禮志を道案内につけてくれた。無事に呉国にたどり着き、呉の王は四人の縫工女(兄媛、弟媛、吳織、穴織)をこれに与えた。

四十一年春二月甲午朔戊申、天皇 崩ヌ 于 明宮ニ 、時年一百一十歲(一云、崩于大隅宮)。是月ニ「阿知使主」等 自 吳 至 筑紫ニ 、時ニ「胸形ノ大神」乞 工女等ヲ 、故以テ 「兄媛」ヲ 奉 於「胸形大神」ニ 、是則今 在 筑紫國ニ御使ノ君之祖也。既テ而 率テ 其三ノ婦女ヲ 以 至テ 津國ニ 及テ 于武庫ニ 而天皇崩之 不 及。卽 獻 于「大鷦鷯尊」ニ 是ノ女ヲ人等之後、今「吳衣縫」「蚊屋衣縫」是也。
〔意訳〕
四十一年の春、応神天皇が 明宮 で崩御される。この月、阿知使主の一行が筑紫に到着し、宗像大神から工女を乞われ兄媛を奉った。残りの三人は摂津国に至る。武庫に着いた時、応神天皇が崩御されたため、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に弟媛、吳織、穴織が奉られた。
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出典:国立国会図書館デジタルコレクション
『前賢故実 巻第1』
呉服里で布帛を織り、私たちの国に機織裁縫の技術を伝えた吳織は、仁徳天皇七十六年十月に百三十九歳で亡くなりました。(妹の穴織も同年九月に百三十六歳で亡くなっています)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『史料通信叢誌 五』
ふたりの死後、仁徳天皇はその功績を讃え御社を建てられます。今も大阪府池田市に残る呉服神社と穴織神社(現在の伊居太神社)です。
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笹の葉の 音を頼りの 霜夜哉
※ 参考:『日本書紀 30巻 [7](雄略天皇十四年)』『光輝近畿大観 : 皇紀2600年記念誌(池田市 呉織の社)』『滑稽雑談 第2(呉服祭)』『国文註釈全書 第3編 訂再版(呉服)』『倭訓栞 3(ゆめ)』『大阪府誌 第5編(牡丹花肖柏亭城趾)』『摂陽群談』『池田人物誌 上(牡丹花肖柏)』『俳家奇人談』『博多織物史』『祭(日の国物語)綾』
よかったら過去noteも参考にしてみてくださいね。
→ 「【職人図鑑】彩画職人部類(8)織殿(おりどの)」👀
→ 「【女大学宝箱】(9)機織り」
→ 「【女大学宝箱】(5)衣裳・糸の類・織物の類「正字」」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖
