昭和、男もつらかった 199 農業実習生⑤ 実習生来る

 昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。

 昭和40年代半ばあたり、二夫一家は地元の県立農芸高校(以下、農高)から実習生を受け入れた()。実習生は昭和39(1964)年に始まった、国の「自営者養成農業高等学校制度」によるものだった可能性が高い。(より続く)。

 さて、いよいよ実習生が来た。当時幼稚園生くらいだった娘の二三四(わたし)の記憶では、家で預かった実習生は一人の年もあれば二人の年もあった。実習生制度は一種のインターンで、卒業を前に実地研修を受けるという意味あいもったのかもしれない。

 子供たちには「高校生の兄(あん)さんが農業を習(なる)け来やったっど」(高校生のお兄さんが農業を習いに来られるんだよ)という、きわめて簡単な説明だけで、あるとき突然に「大きなお兄さん」がやってきて、家に「泊まり」ながら、農作業の手伝い――のようなこと――をするのだった。

 幼稚園の子供にとって高校生はほとんど大人のようなものだ。ことにで触れたように中卒でも働く人が多かった当時、家の中の「大人」が増えたように感じたのも無理からぬことである。

 実習期間は1年ということはなかったが、数カ月には及んだと思う。少なくとも数週間ということはなかった。そんな短期間では実習の成果が上がらないということだろう。例えば農作物の世話にしても、植付や成長、できれば収穫までの1サイクルを経験せねば、ということだったのではないか。

 実習に来る季節は一定していなかったように思う。ある年次は田植えの頃から、ある年は稲刈りの時期も含めて、のように。それは送り出す学校側が意図的にそうしたのか、事務手続き上の都合か、受け入れる農家側の事情だったのか。生徒の個別の希望で実習に出していたのでは学校の授業がやりづらいだろうから、生徒側の都合ということはなさそうだ。

 実習の範囲は、ほぼそのまま二夫一家の農業経営の範囲だった。稲作はもちろん、当時すでに主業のひとつとなってミカン、それらの合間に行う季節の蔬菜栽培。納屋で牛を飼っていた時期は牛の世話も。農家の仕事は朝〇時から夕方〇時まで、というものではないので、必要に応じて早起きもするし、暗くなってから終わることもあった。

 実習生には、朝から晩まで、二夫がほぼつきっきりで「指導」した。指導と言っても、その場でやり方を説明し手伝いながら覚えてもらう、というスタイルだった。いまふうに言えばOJTだろうか。もちろんマニュアルのようなものもない。

 進め方や指導の内容については、事前に農高側とカリキュラムのようなものの打合せをしたのかどうか。打合せをしていたとしても、その内容はざっくりしたものだっただろう。もっとも農高側は、生徒の管理と学習のためにもそれなりの文書を用意し、記録も取ったに違いない。

 そのあたりの手続き的なことも必要だったはずだし、何より大切な生徒を預かるに当たっては責任も伴う。正式な文書を取り交わすべき場面だが、二夫が農高側とどんな話をしたのかまったく見えてこない。もっとも子供には見えていなかっただけかもしれない。

 妻のミヨ子(母)は
「父ちゃんが決めやった事(こっ)じゃっで」*
(父ちゃんがお決めになったことだから)
と、二夫に言われるままに実習生の世話をした。いつものようにその言葉の後ろには「そげんせんなら」(そのようにしなくちゃね)という諦めの言葉が省略されていた。(「農業実習生⑥」へ続く)
 
*noteで何回も触れているとおり、この頃(まで)の鹿児島弁では、家族であっても年長者や家長などには敬語を使った。ミヨ子の場合舅姑はもちろん夫にも常に敬語で、子供たちも同じような話し方を身につけた。同じ地域や県内の農村の多くは同様だったと思われる。

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