昭和、男もつらかった 198 農業実習生④ 自営者養成農業高等学校

 昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。

 昭和40年代半ばあたり、二夫一家は地元の県立農芸高校(以下、農高)から実習生を受け入れることになった()。農高には離島など遠方からの生徒が多く、園芸科、農業科、畜産科、生活科に分かれて学んでいた。(より続く)。

 農高の科の変遷を見るために同校の沿革(※)を改めて読んでいて気づいたことがある。昭和49(1974)年の11月に「自営者養成農業高等学校指定」の10周年記念式典が挙行されているのだ。

 「自営者養成農業高等学校制度」は昭和39(1964)年に文部省(当時)によって制定、開始されたようだ〈371〉。この制度はすでに終了しているし、制度に関する解説はインターネット上でほとんど見られないので(2026年5月現在)、制度の影響や成果についてもあまり記録されていないのかもしれない。

 ただ字面を見れば、新しい時代の農業経営者の育成を目指して、全国の農業高校の何割かを養成校として指定したのだと思われる。農高も指定校のひとつだった、ということだろう。

 制度が開始されてからの10年間は、二夫一家が実習生を受け入れていた期間と重なる。実習生制度もその受け入れも、国(文部省)の農業分野における「自営者養成」カリキュラムの一環であり、背景には若い農業経営者を全国規模で育成しようとする政策があったのではないか。

 とすれば実習生受け入れは、地域の中心となりうる中堅の農業経営者になりつつあった二夫も、国の農業政策に協力する役割を期待されてのことだった、と言えるかもしれない。そうであれば二夫にとっては名誉であり、なんとかして成果を出そうと張り切ったことだろう。(「農業実習生⑤」へ続く)
 
〈371〉自営者養成農業高等学校制度に関しては、「農業自営者養成高等学校の現状と課題―干葉県立下総農業高等学校を事例として」(長谷川俊一、山形農林学会報1986)という論文が検索できた。指定校のひとつの事例ではあるが、折を見て読み込んでみたいと思っている。

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