昭和、男もつらかった 200 農業実習生⑥ 泊まり込み
昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。
昭和40年代半ばあたり、二夫一家は地元の県立農芸高校(以下、農高)から農業実習生を受け入れ、田畑などの現場で手伝いをさせる形で数カ月にわたる実習を進めていく(⑤より続く)。
実習は「泊まり込み」だった。
②で触れたように、農高で学ぶ生徒の多くが県内の離島など遠方から進学し、寮生活をしていた。一日の実習が終わったあとは寮に戻るというスタイルも考えられるが、地方の農村のこと、交通手段が極めて限られる。それに農家の仕事は早朝に始まったり、暗くなってから終わったりもしばしばだ。泊まり込みのほうが効率がよい、ということだったのだろう。
が、受け入れる側にはそれなりの環境、条件を整えなければならない。
令和のいまよそのお宅の高校生を受け入れるなら条件として出されそうな「個室」などは望むべくない。としても布団一式は必要だ。もちろん1日3食を用意しなければならない。お茶休憩などもいっしょにとる。妻のミヨ子(母)は洗濯もしてやった。食べ盛りの高校生が家に一人増えることは、ミヨ子にとっての負担は小さくなかったかもしれない。当時はどの家も衣食住ともぜいたくではなく、実習生をお客さん扱いする必要はなかったとしても、だ。
幼稚園生だった娘の二三四(わたし)が覚えているのは、実習生は「表の間」と呼ぶ床の間もある仏間に布団を敷いていたことだ。ふだんなら二夫、ミヨ子とふたりの子供が布団を並べている部屋だった。実習の期間は納戸にでも移ったのか、よく覚えていない。
表の間には折り畳みの座卓も置き、実習生は夜そこで「勉強」をしていた。おそらく昼間学んだことをノートにとっていたのだろうが、まだひらがなくらいしか読めない二三四は近づこうともしなかった。大きなお兄さんの勉強の邪魔をしてはならないと無意識に思っていたのだ。
そうやって何カ月も生活を共にすると、一家と実習生は当然だんだん親しくなる。二三四も上のカズアキ(兄)も、実習生を「〇〇兄(あん)ちゃん」と呼び、ときに遊んでもらうようになった。
〇〇の部分は、もちろん実習生の下の名前である。3年(次)ほどの実習では、一度に二人の実習生を受け入れたこともあり、トータルすれば4、5人の実習生が来たが、どの人も名前で呼び、親しくなった。名前はほとんど忘れてしまったが、一人は「ゆたか」だったことは覚えている。あるいはこの「ゆたか兄(あん)ちゃん」は、一家と特に相性がよく、二夫たちにかわいがられたのかもしれない。
上の子のカズアキ(兄)の記憶によれば、屋久島出身の鎌田さんという実習生もいたという。当時、離島と本土を結ぶ交通手段は少なく――ほとんどがフェリーなどの船で、飛行機はおろか高速船もなかったはずだ――、高校生が「帰省」する機会は、経済的にも極めて限られていただろう。
学校のある地域とは言え知らない農家に泊まり込みで実習し、期間限定ながらその家庭の一員として生活と労働を共にすることは、10代後半の少年に一体どんな印象を残し、その人生にどのような影響を与えたのだろう。(「農業実習生⑦」へ続く)
