昭和、男もつらかった 201 農業実習生⑦ 頼りがい

 昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。
 
 昭和40年代半ばあたり、二夫一家は地元の県立農芸高校(以下、農高)から農業実習生を受け入れた。実習は泊まり込みで、田畑など現場で手伝いをさせる形で数カ月にわたって行われた(より続く)。

 農高で農業を学んでいるとはいえ、実習生たちは最初手際がいいとは言えなかった。それぞれ性格も違い、活発な生徒もいれば内気であまり話さず、いまふうに言えばコミュニケーションが苦手そうな生徒もいた。

 しかし高校2、3年生と言えば当時ならもうほぼ大人だ。働き手としても、最初はぎこちなかった作業にすぐに慣れて、力仕事などは二夫と同じようにこなすようになった。実習が進むにつれ、田畑でもミカン山でも二夫たちも実習生に頼りがいを感じるようになった。最初はいちから教えなければならなかったやり方も道具も、「あれを取って」「そこはそうでなくこうして…」など代名詞や指示詞で通じるようになっていく。

 田んぼで、畑で、ミカン山で、ときに牛の世話も、手慣れたふうでいっしょに、ときに一人でも作業できるほどに変わっていく。そして頼りがいのある働き手となり、家族の一員に近い存在にもなる頃に、実習は終わるのだった。

 昭和40年代半ばといえば、二夫一家が田植え機を導入した時期でもある。もしかすると実習先の農家の条件として、その家の機械化の程度も考慮されていたのかもしれない。最低限田植え機は所有している――などと。戦時中は戦闘機の整備に携わり、機械の扱いには人並み以上の自信があった(であろう)二夫は、田植え機という「最新農機」の操作を教えられることに、プライドと喜びを感じていたはずだ。

 実習生が、④で述べた「自営者養成農業高等学校制度」に基づくものであったかどうかは別として、その制度はいつ頃まで続き、なぜ終わったのか。「制度」は少なくとも10年は続いたようだ。時代の変遷に伴い、二夫(一家)の農業経営が実習生受け入れに相応しくなくなったのか、まったく別の理由か。

 わが家にいた実習生のことを思い出して書き始めるまで、実習生についてこんなに多くの項を費やすとは思わなかった。実習生自体が当時の日本の農業(政策)を反映していたのかもしれない。

 実習生を受け入れた当時の二夫(たち農家)は、経営にどんなビジョンを、希望を持っていたのだろう。それを実習生に伝える機会があったのだろうか。そして実習生たちはどんな農業者になりたかったのだろう。

 二夫が受け入れた実習生の中には卒業して帰郷後――おそらく家業の農業を手伝ったり継いだりしたあとも――年賀状などのやりとりが続くケースもあったが、それもいつの間にか途絶えた。実習生経験者、とりわけ二三四の家で実習した方にお話を聞いてみたいが、計算すると80歳前後とかなりのご高齢で、現役から退かれた方も多いだろう。もうご存命でない方もいらっしゃるかもしれない。

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