本能寺の変1582 【重史197】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史197】 「天王寺屋会記」他
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史197】
正月十日朝、 惟任日向守殿会 宗二 宗及
「天王寺屋会記」他
天正九年1581、一月十日。 158100110
光秀、坂本にて、新年の茶会(津田宗及)。
この年は、二日つづけて。
宗及が、山上宗二を伴って訪れていた。 →【人物】
宗二は、千利休の高弟。
天文十三1544の生れ。
堺の商人・茶人。
「山上宗二記」を著した。
光秀とは、この時が初めてである。
以後、度々、登場する。
同正月十日朝、 惟任日向守殿会 宗二 始めて同道申し候 宗及
一、床 定家(藤原)色紙 あはじしま(淡路島)の歌なり、
一、炉に、なべ(鍋)なりのかま(釜)、自在に、
一、床に色紙、かけて、
手水間に八重桜 葉茶壷 段子(どんす)のをゝ(覆)い
一、高きかうらい(高麗)茶碗 金の合子(蓋付小容器)
同十一日朝、 惟日御会 宗二 宗及
一、浜の方の御座敷にて、
一、 炉に八角の釜、小ぐさり(鎖)に、
一、手水の間にかたつき(肩衝=茶入れ)
段子袋、ほ(彫)りたる盆にすへ(据え)、
かつて(勝手)に一つ置きて、
一、籠に平かうらい(高麗)茶碗、 しん手桶 備前水下
一、宗及、茶をたて申し候、
御会過ぎて、自然殿(光秀の息子)より吉松(宗凡=宗及の嫡男)に
小袖一重贈り給ひ候、
(「天王寺屋会記」他)
光秀には、息子が複数人いた。
少なくとも、二人。
嫡男は、光慶。
二男の名は、不明。
となれば、
「自然殿」とは、・・・・・。
天正十年1582、六月十三日。
光秀は、山崎の合戦で秀吉に敗れ、坂本へ向かう途中で亡くなった。
次の場面は、その後の坂本城の様子である。
この中に、光慶の年齢が書かれている。
安土を去った明智の武将は坂本に立て籠ったが、
そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。
次の火曜日には同所へ羽柴の軍勢が到着したが、
すでに多数の者は城から逃亡していた。
そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が
最初に入城した者の先発者であるのを見ると、
「高山、ここへ参れ、貴公を金持ちにして進ぜよう」と呼びかけ、
多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。
そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと
言いつつ、最高の塔に立て籠り、内部に入ったまま、
彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。
その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、
ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、
長男は十三歳であった。
【重史014】(『日本史』)
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
