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本能寺の変1582 【四国】 十 0512 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【四国問題】天正十年1582 5月12日

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10 【重史146】
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

天正十年1582 5月12日

 目次

5月12日 【重史052】           公 天正10 158200512
                  1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
この日が、信長の誕生日である。
フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
五月は、小の月(二十九日まで)。
逆算すれば、そうなる。

 ①彼の生まれた五月の日に
 ②己の神体を拝むことを命じた。
 ③信長がかくの如く驕慢となり、
 ④祭りを行った後十九日を経て、
 ⑤その体は塵となり灰となって地に帰し、
 ⑥その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
                      「イエズス会日本年報」

信長は、天文三年1534の生れ。
この年、四十九歳。

来たる年、五十歳になる・・・・・。

 〃 〃 2/7 【重史169】
「人間五十年、下天の内をくら(比)ぶれば」        
 
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。      

  ①人間五十年、
  ②下天の内をくら(比)ぶれば、
  ③夢幻の如くなり、
  ④一度生を得て、滅せぬ者の有るべきか、
                            『信長公記』

余程、気に入ったのだろう。
『信長公記』には、二度出てくる。
ともに、首巻。              →【信長の人物像】 信05

信長は、目的意識の強い男。
この「五十年」を強く意識していた。

そのことが、信長に先を「急」がせた。

信長は、時間と戦っていた。
前を見れば、後ろは見えず。

信長は、急いだ。 
否、急ぎすぎた。

それが、「焦り」となり、
そこに、「隙」が生じた。
 
これすなわち、「油断」。
「五十年」→「急がねばならぬ」→「焦り」→「隙」=「油断」

光秀は、これを見逃さず。
そこを衝いた。

信長、一歩及ばず。
立ち上る煙とともに、天空の彼方へ。
戦国の世は、無情なり。

それが本能寺の変である。

そして、・・・・・。

 〃 〃 3/7 【重史008】
信長には、「さらなる夢」があった。

フロイスは、このことを確りと書き留めている。

  ①一大艦隊を編成してシナを征服し、    「イエズス会日本年報」
  ②一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、       『日本史』

世界は、大航海時代。
当時、イエズス会は、積極的に、中国=明(1368~1644)へ、
布教を拡大しようとしていた。
背景には、ポルトガルの野望があった。

信長の目は、海外を見ていた。
信長は、フロイスら、イエズス会の宣教師たちから大きな刺激を受けた。
激動する世界の情勢等々。
様々な知識を得た。
そして、覚醒。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

これが、信長の志向である。
①「シナを征服し」
②「シナを武力で征服し」
と、ある。

結局、信長の拡大政策は、止まず。
戦いは、まだまだ、つづく。

そういうこと、である。

なれど、・・・・・。

光秀は、高齢。                     →そ第7話①
嫡男光慶は、若すぎた。                 →そ第7話②光秀は、五十九±四歳ぐらい。               →そ第77話
光慶は、13歳。              →そ第7話② 【重史014】
まだ、元服前である。

光秀は、明智の将来が不安だった。   →3光秀と光慶 (3)光秀の嫡男 2
五年後。
光秀は、六十四±四歳ぐらい。
光慶は、18歳。

その時、
果たして、己は、生きているのだろうか。
光慶は、まだまだ未熟。
・・・・・。
これでは、死んでも死にきれぬ。

だが、・・・・・。

信長は、きわめて壮健。
信忠は、申し分なき後継者。

信長は、四十九歳。
信忠は、二十六歳。                   →【 人物 】

五年後。
信長は、五十四歳。
バリバリの現役。
信忠は、三十一歳。
正に、いよいよ、これから、という時期。

織田家は、安泰。
盤石の体制となっているであろう。

そればかりに、あらず・・・・・。

 〃 〃 4/7 【重史146】
これが、信長である (①~⑲) 。

  ①中くらいの背丈で、華奢な体軀であり・・・声は快調で、
  ②極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
  ③名誉心に富み、正義において厳格であった。
   自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
  ④幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
  ⑤彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
  ⑥はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、
   非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  ⑦彼はわずかしか・・・家臣の忠言に従わず、
   一同からきわめて畏敬されていた。
  ⑧酒を飲まず、食を節し、
  ⑨人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
  ⑩彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
  ⑪彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、
  ⑫神および仏のいっさいの礼拝、尊崇・・・の軽蔑者であった。
   霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
  ⑬彼は自邸においてきわめて清潔であり、
  ⑭自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
  ⑮対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
  ⑯ごく卑賤の家来とも親しく話をした。
  ⑰愛好したのは・・・茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩・・・相撲
  ⑱何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
  ⑲彼は少しく憂鬱な面影を有し・・・はなはだ大胆不敵で、
   万事において人々は彼の言葉に服従した。
                             『日本史』

②信長は、典型的な戦国武将。 ⑥⑩⑪⑰⑲
 「力こそ正義」
 軍事力の強化に、余念がなかった。

③信長は、誇り高い男。
 口答えなど、以ての外である。

⑤信長は、目的意識が強い。 ⑦⑪⑲
 
時間と戦っていた。

⑦信長は、信念の人。 ⑤⑪⑲
 
カリスマ性があった。

⑨信長は、絶対専制君主。 ③⑦

⑩信長は、忍耐強い。 ⑤⑦⑪
 粘り強く、執念深い。
 いつまでも、忘れない。

⑪信長は、理性的であり判断力に優れていた。⑭⑮⑱
 フロイスが、そう言っている。
 正に、つけ入る「隙」のない男。
 歴史上、空前絶後の人物だった。

⑭信長は、完璧主義者。 ⑤⑦⑩⑪

⑮信長は、冗漫を嫌った。 ⑤⑦⑪⑭
 性急・せっかちである。

⑱信長は、猜疑心が強く、用心深い。 ②⑤⑥⑪⑰⑲
 「隙」を見せぬ男なのである。

⑲信長は、人の心を引きつけた。 ⑦⑪
 カリスマ性があった。

信長は、合理主義者。⑮ ⑤⑦⑪⑭            →そ第7話⑥
無駄を嫌う。

「用が済めば」、捨てられる。
「役に立たねば」、捨てられる。

・・・・・。

 〃 〃 5/7 【重史240】
信長は、重臣といえども、容赦しない。
佐久間信盛を粛清した。

  1 父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
  2 此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
  3 丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし候。
     次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
  4 柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
  5  武篇道ふがひなきにおいては、
  6  やす田(保田安政)の儀、
  7  信長家中にては、進退各別に候か。
  8  小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職申し付け候ところ、
  9  山崎申し付け候に、
   10 先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き候者どもに、
   11 先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
   12 甚九郎、覚悟の条々、書き並べ候へば、
   13 大まはしに、つもり候へば(大略を言えば)、
   14 与力を専(もっぱら)とし、
   15 右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(遠慮)候の事、
   16 信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
   17 先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
   18 此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
   19 父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
   抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
   口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
                            『信長公記』

石山本願寺、退城。                  →【重史222】
その時の様子である。

  八月二日、未の刻(14時頃)、
  雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、
  近年、相拘(かか)へ候端城の者を初めとして、
  右往左往に、縁々を心懸け、
  海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
                  (『信長公記』天正八年八月二日条) 

戦いが終われば、粛清が始まる。            →【重史163】
これが、戦国の世。

佐久間信盛を見よ!!                  →そ第7話⑥
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

粛清は、ある日、突然、訪れる。
信盛は、全く、予期していなかった。

信長は、最後まで、佐久間信盛を赦さなかった。
哀れな末路であった。           →【重史146】 【重史172】

信長は、絶対専制君主。            →【重史146】③ 信03
己が天下の支配者であることを強く意識していた。

信長は、誇り高い男。             →【重史146】③ 信03 
己に口答えする家臣を、決して、赦さない。

信長は、忍耐強く、執念深い。      →【重史146】⑩⑪⑰ 信10
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。

信長は、不意を衝く。
常套手段である。

・・・・・。

光秀は、信長の気性・性格等を知悉していた。
だからこそ、今がある。

光秀は、怖れていた。

  飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
  狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
                 →【重史009】(「史記」越王勾践世家)

用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。

明日は、我が身。

・・・・・。

このことが、脳裏から、離れない。

 〃 〃 6/7                 ✓ 天正10 1582005**
信長は、大衆に強い人気があった。
「日本の人心を収攬し」「一般人民の心を収攬した」、とある。

  【重史235】
  ①信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
  ②心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
  ③常に日本の人心を収攬し、
  ④短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
  ⑤日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。
  ⑥彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
                       「イエズス会日本年報」

  【重史237】
  ①安土山・・・に・・・非常に立派なる城と宮殿とを建築した。
  ②主なる領主に妻子と共に同所に居住・・・することを命じた。
  ③都より安土山まで・・・に平坦な道を造り、両側に木を植え、
  ④絶えず戦争のあったこの諸国を・・・漸次平和に帰せしめた。
  ⑤高い税を・・・一切免除し・・・一般人民の心を収攬した。
                       「イエズス会日本年報」

 〃 〃 7/7 【重史236】          ✓ 天正10 1582005**
信長は、傲慢になっていた。
フロイスが、証人である。
余程、強い印象を受けたのだろう。
「傲慢」「驕慢」を多用している。

  ①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
  ②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
  ③彼(信長)は数回説教を聴き、
  ④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
  ⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
  ⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
                       「イエズス会日本年報」

   【参照】【重史052】
       「かくの如く驕慢となり」
                      
(「イエズス会日本年報」)



 ⇒ 次へつづく



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