本能寺の変1582 【重史232】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史232】 「イエズス会日本年報」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史232】
①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
「イエズス会日本年報」
天正十年1582、五月二十一日。 158200521
(十日前)
信忠は、中国出陣を控えていた。
「天下布武」
おそらくは、その総仕上げとなったであろう大戦。
脳裏にあるのは、「武田勝頼の首」。 【重史170】
信忠は、大きな手柄を上げた。
ならば、出立前に・・・・・。
そう、思っていたのだろう。
世子(信忠)が、本年、全兵力を率ゐて父の昔からの敵である信濃国及び
甲斐国を攻めた。
而して、大いなる努力で、信濃の主なる城を攻め落とし、
約十五日の間に、両国を占領し、信濃国と甲斐国とを合わせ領した。
王及びその子の首が同所で献ぜられた。
信長は、八万余の兵を率ゐて、その後より来たり、日本の東部に在る国
々を征服し、今は、越後の国のほかに残る所は(日本の東部には)ない。
信長は、かの地方に、美濃及び尾張生まれの長官を置き、
彼とその子は軍隊を率ゐて家に帰った。
戦争において、甲斐国の王シランドノ(四郎殿)の首を斬った滝川殿に
は、本年七月(四月の誤り)、一国を与へた。
世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端(中国・九州)まで行き、
諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりであるといふ。
(「イエズス会日本年報」)
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
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