本能寺の変1582 【重史198】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史198】 『信長公記』
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史198】
①信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
②御帰り候て、御覧候へば、
③御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
④其の長老をも、同事に、御成敗候なり。
『信長公記』
天正九年1581、四月十日。 158100410
信長、竹生島参詣事件。
信長は、わずかな供廻りで、安土城を発った。
四月十日、
信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
長浜の羽柴筑前(秀吉)所まで、御馬にめされ、
是れより、海上五里、御舟にて御社参。
信長は、疑い深く、用心深い。
だが、稀に「隙」を見せることがあった。
「御小姓衆五、六人召し列れられ」、とある。
光秀は、そのことを知っている。
信長は、きわめて健康だった。
参詣を終え、その日のうちに帰城した。
並外れた、気力・体力の持ち主なのである。
海陸ともに、片道十五里の所を、日の内に上り下り、
三十里の道、御帰城なされ、
誠に、希代の題目なり。
併せて、御機力も、余人にかはり、御達者に御座候のところ、
諸人、感じ奉り候なり。
ここで、事件が起きた。
遠路に候へば、今日は、長浜に御逗留候はんと、何れも存知のところ、
御帰り候て、御覧候へば、
女たちは、慌てふためいた。
御女房たち、或ひは、二丸まで出でられ、
或ひは、桑実(くわのみ)寺薬師参りもあり。
御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
信長は、苛烈だった。
己に逆らう者は、容赦せず。
厳しく、激しやすい、性格だった。
特に、近年。
・・・・・。
予測、不能。
それは、ある日、突然、やって来る。
信長は、女房衆らを誅殺した。
「御成敗侯なり」
女と雖も、容赦せず。
則ち、くゝり縛り、桑実寺へ、女房ども出だし候へと、
御使を遣はされ候へば、
御慈悲に御助け候へと、長老、詫言申し上げられ候へば、
其の長老をも、同事に、御成敗候なり。
(『信長公記』)
【引用】◎第16話 第16話
天正九年1581
【重史251】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
