ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第9回:大祭司の葬送随行と埋葬後の食事に関する法理
【学術的免責事項】本稿は、古代ユダヤ法(口伝律法ミシュナおよびタルムード・ゲマラ)の文献記述に基づく、純粋な法制史および比較法学の研究を目的としている。
本稿は口伝律法ミシュナ第4部『Nezikin(ネジキン)』に属する『Sanhedrin(サンヘドリン)』の第9回目の解説である。
今回は『Sanhedrin』2章1節の続きを取り上げる。レビ記21章に基づく大祭司の「死の汚れ」の制限を巡り、Rashi、Onkelos、Ibn Ezraの注解を比較検証。
近親者を失った大祭司の葬列随行に関するラビ・メイルとラビ・ユダの論争と、タルムードのゲマラ、マイモニデス(Rambam)による厳格な帰結を解説する。また、近親者でない葬儀における、大祭司の総代理の役割を網羅。更に埋葬後の食事における、大祭司の特例措置まで、ユダヤ法の展開を詳解する。
前回の振り返り:裁判における大祭司の法的地位とyibumに関する例外法理
前回は『Sanhedrin』2章1節に関する法理学である。大祭司の法的地位、特に事案ごとの法廷の管轄、当事者適格、証言能力、逃れの町の掟に関わる特例、yibumに関わる特例について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】裁判における大祭司の立場と管轄
大祭司は高い宗教的地位にありながらも、法の下では一般市民と同様、あるいはそれ以上の厳格な司法手続きの対象となる。
①判事および被告としての適格性
大祭司は判事として裁判に加わることが出来、また被告として裁かれることもある。これは被告にならない「王」との大きな違いである。
②証言能力
大祭司の証言については、その尊厳を保つための特例がある。
原則として、法廷での証言は免除されている。ただし王の息子が関わる事案や、王が直接証言を求めた場合、あるいは新月の目撃証言といった律法の遵守に直結する事案については、出廷して証言してよいという見解もある。
③訴訟類型別の法廷の管轄
金銭訴訟・鞭打ち刑: 一般の民と同様、3人法廷で裁かれる。
死刑相当の事案: 『Sanhedrin』第1章5節の規定に基づき、71人の最高法院(大サンヘドリン)によってのみ裁かれる。
【2】「逃れの町」における終身流刑の法理
過失致死罪を犯した者は通常「逃れの町」へ流刑となり、当時の大祭司が死ぬことで解放される(民数記35章28節)。しかし、大祭司自身が過失致死を犯した場合は、以下の特殊な適用を受ける。
彼を解放すべき「その時の大祭司」が存在しない(あるいは自分自身である)ため、彼は生涯、逃れの町から帰還することが出来ない。
次の大祭司が叙任されても、その者の死によって解放されることもない。
【3】婚姻法における制限(yibumの禁止)
大祭司の兄弟が子供を残さずに亡くなった場合のレビラート婚(yibum)と、その解消儀式(chalitzah)についてである。
①chalitzah
大祭司がこれを行うことも、その妻が受けることも可能である。
②yibumの全面禁止
大祭司は、亡くなった兄弟の妻(義理の姉妹)と結婚することは出来ない。
③ラビによる予防的措置
kiddushin段階で夫を亡くした処女であれば、大祭司にも理論上はyibumが可能という議論(ゲマラ 19a)もあるが、最初の性交渉で義務を果たした後は「寡婦との禁じられた婚姻状態」だけが残る。
離縁しなくてはならないのに、義理の姉妹を気に入って離縁しないリスクを避ける為に、大祭司のyibumは全面的に禁止された。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第8回:大祭司の法的地位――事案ごとの法廷の管轄、証言能力の限定、流刑生活の例外、及びyibumの禁止法理
https://note.com/mishnah/n/n3a36fc60b393
レビ記21章における「死の汚れ」の原則と大祭司の特例
今回は口伝律法ミシュナ「Sanhedrin」2章1節の続きである。まずは本文を引用する。
もし誰か彼に近い親戚の者が死んだら、彼は棺について行ってはならない。むしろ棺が見えない場所まで行ったら、彼は出てきてもよい。
まず、トーラでは祭司が死者によって汚れてはならない原則を示している。
アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。親族の遺体に触れて身を汚してはならない。
この原則は大祭司も通常の祭司も同じである。しかし通常の祭司の場合、7人の近親者(父、母、兄弟、未婚の姉妹、息子、娘、妻)が亡くなった場合には死体に触れて汚れることが許されている。トーラには次のように書かれている。
ただし、近親、すなわち、父母、息子、娘、兄弟、および同居している未婚の姉妹の場合は許される。
ここには「妻」が明記されていない。原文で「近親」は「彼の近親(sheero:シェエロー)」と表記されているが、Rashiの見解によると、これは妻を指している。
これに対してOnkelos(オンケロス)やIbn Ezra(イブン・エズラ)は翻訳の通り、「近親」は一般名詞であるとし、それ以下に具体的な親族が列挙されていると考えている。しかしOnkelosやIbn Ezraも、祭司たちがその死にあって触れてよい親族に、妻が含まれると解釈している。
大祭司については、特にトーラに次のように書かれている。
10同僚の祭司たちの上位に立ち、聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者は、髪をほどいたり、衣服を裂いたりしてはならない。 11自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない。 12聖所を離れて、神の聖所を汚してはならない。彼は神の聖別の油を頭に注がれている者だからである。わたしは主である。
大祭司の場合は「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」と書かれている。大祭司は通常の祭司なら許される、7つの親族であってもその近くに行って汚れることが許されていない。
次の「もし誰か彼に近い親戚の者が死んだら、彼は棺について行ってはならない」とは、遺体を載せた棺のすぐ後ろを歩くことは出来ないことを言っている。悲しみのあまり、誤って遺体に触れてしまい、律法で禁じられている汚れを受けてしまうことを防ぐ為である。
葬列への随行法理と視界制限:ラビ・メイルとラビ・ユダの論争
それでは大祭司はどのように葬列に加わるのだろうか、続きには次のように書かれている。
むしろ棺が見えない場所まで行ったら、彼は出てきてもよい。まだ棺が見える場所を運ばれている時には、大祭司は隠れた所にいなくてはならない。それから彼は出て行き、町の入口まで行くことが出来る。これらはラビ・メイルの言葉である。
葬列が大祭司の目に入らない場所(路地など)を通っている間は大祭司も姿を現して同行することが出来る。しかし葬列が見える場所では、彼は隠れていなければならない。
葬列が町の中にいる間は、道や路地が入り組んでいるので、大祭司の視界に入らない場所がある。そこで視界に入れない程度に大祭司も葬列に加わることが出来るが、葬列が町の入口まで来たなら、その後は視界を遮ることは難しくなる。大祭司はここで同行を止めなければならない。これはラビ・メイル(Rabbi Meir)の見解である。
続きには次のように書かれている。
ラビ。ユダは言う、「大祭司は神殿を去ってはならない。次のように書かれている。『聖所を離れて、神の聖所を汚してはならない。』(レビ21:12)」
上記の7人の近親者がまだ葬られていない者をonein(オネーン)と言う。ラビ・ユダ(Rabbi Judah)はoneinであっても、大祭司は神殿に留まり、その職務を継続しなければならないことを述べている。
しかしこれはラビ・メイルの見解に対する異論ではなく、補足である。ラビ・メイルの主張する仕方で棺からの距離を保持する限り、ラビ・ユダも大祭司は葬列に加わることが出来ると考えている。
タルムードのゲマラでは、この点でより厳格な方法が適切であるとしている。すなわち棺からの距離を保持するような仕方では、大祭司を汚れから守る方法として十分ではないとする。そこで大祭司は葬列に加わってはならないとする。
Maimonides(Rambam)もゲマラの結論を支持している。
葬儀における慰めの儀礼と歴史的変遷(ゲマラにおける逆転)
続きには次のように書かれている。
彼が誰かを慰める時、すべての人が次々に行くのが慣例である。
自分の近親者ではない人の葬列に同行する場合は、深い悲しみによって我を忘れる危険が低いため、大祭司にも通常の形式で参列することが許可されている。
埋葬の後、遺族の前に列を作り、参列者は次々に「天からの慰めがあるように」と慰めの言葉をかける。大祭司もこれに加わることが出来る。
ゲマラによるとこの方法は後代になって逆の仕方に定められた。すなわち参列者が動かずに立ち、遺族がその間を通るのである。今日でもこの方法が取られている。
大祭司の総代理の機能と、喪主としての大祭司の特権
続きには次のように書かれている。
任命された者は彼を、自分と人々の間に置く。
「任命された者」とは大祭司の総代理のような立場の祭司で、Yom Kippur(ヨム・キップール)の時に大祭司が汚れた場合、代わりに奉仕をする者である。
大祭司の総代理は、大祭司が一般の参列者と混ざらないように大祭司の隣に立ち、その威厳を保つ役割を担っている。
続きには次のように書かれている。
彼が慰められる時、全ての者が彼に言う。「私たちはあなたの贖いである。」大祭司は彼に言う。「祝福が与えられますように。」彼らが大祭司に食事を提供する時、全ての人は地面に座り、大祭司は腰掛けに座る。
大祭司が遺族側である場合、参列者はお悔やみにやって来て、「私たちはあなたの贖いである」と述べる。これは大祭司の為に困難を引き受けるという趣旨である。これに対して大祭司は「祝福が与えられますように」と答える。
埋葬後、遺族が最初に摂る食事について、遺族は自分で準備してはならない。友人や親戚が遺族に食事を提供する。
通常の場合、遺族も参列者も地面に座る。これは悲しみを共有することを意味する。しかし大祭司が遺族である場合、大祭司は椅子に座り、その他の参列者は地面に座る。
以上で「Sanhedrin」2章1節の解説を終えた。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
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◉【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n8cf87c1bb399
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◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
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