ミシュナ『Peah』の法理体系 第1回:レビ記・申命記の3つの救貧原則(peah[ペアー]・leket[レケット]・shichchah[シフハー])とミシュナ『Peah』1章におけるpeahの義務対象規定
*口伝律法ミシュナ第1部「Zeraim(ゼライム/種子篇)」の「Peah(ペアー)篇」の核心的法理を伝統的註釈に基づき詳解。モーセ五書(トーラ)のレビ記・申命記に淵源を持つ救貧義務(peah, leket, shichchah)の三位一体構造を整理し、ミシュナ1章1節、1章2節、1章4節の条文を一条ずつ読み解く。
分量限定なき徳目における「トーラ学習」の絶対的優位性とパウロ書簡(コリントの信徒への手紙一1章27節)との構造的対比、義務量の「60分の1」設定、およびpeahを課される作物の5大要件まで、2,000年前の「律法の現場」における厳密な法理構造を浮き彫りにします。
トーラのレビ記・申命記における法源と3つの基本原則
今回から口伝律法ミシュナ第1部「Zeraim(ゼライム)」から「Peah(ペアー)篇」を扱う。まずは旧約聖書の最高権威であるトーラから引用する。
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
もう1箇所引用する。
畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。
どちらの引用箇所も2つの原則を語っている。
①peah(ペアー)
貧しい人が收穫出来るように、畑の所有者が作物の一部を立ったままにしておかなくてはならないとする義務、またはその収穫物を指す。
②leket(レケット)
よく「落ち穂」と呼ばれているものに対応する。刈る者の手や鎌の間から落ちた穀粒に関して、2粒以下のものは拾う為に戻ってはならないというものである。
貧しい人の為に残す基本的な原則は3つであり、3つ目はshichchah(シフハー)と呼ばれている。
③shichchah(シフハー)
トーラには次のように書かれている。
畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
shichchahは「忘れられた作物」の意味で、脱穀場に運ぶ時に置き忘れた束を指す。また、収穫する者が刈り忘れたものをも含む。
上記①~③が基本であるが、この他ぶどうだけに関わる補足的な原則も存在する。しかしそれは追々扱うことにして、まずはこれらの基本的な原則について解説する。
「Peah」の順序に従い、最初にpeahについて解説する。
ミシュナ「Peah」1章1節:尺度なき徳目と「来るべき世」の報い
これらのものには尺度が示されていない。peah、bikkurim、神殿に行くこと、親切にすること、トーラを学ぶこと。
次のことは、この世においてその報いを受けることではあるが、その主要な報いは来るべき世で受けるものである。父母を敬うこと、親切にすること、平和を作ること。しかしトーラを学ぶことは、これら全てを合わせたくらいに匹敵する。
本節で列挙されていることは、トーラにおいて分量や回数が限定されていないものである。
最初の「peah」はまさに今メインで扱うものであり、畑の一部を収穫せずに、作物を立ったままにしておく事である。トーラの次元では、その具体的な分量は明記されていない。
「bikkurim」とは、それによってイスラエルの土地が讃美される7つの作物の初物を、エルサレム神殿に運ぶものである。この作物は申命記26章1~11節に書かれている手続きに従い、祭司に与えられる。
祭司はbikkurimをエルサレムの中で消費する。bikkurimの分量はトーラに書かれておらず、ごく少量でもよいし、全ての收穫をbikkurimにしてもよい。
bikkurimについては以前の記事で詳しく扱っているので、不確かな方は下のリンクから確認して欲しい。
◉bikkurim(ビックリーム)の法理(上) ― 聖地の初物奉納における土地所有権、七種産物、およびmaamad(マアマド)参詣に関する律法学的詳解
https://note.com/mishnah/n/n5ec92f53d77f
◉bikkurim(ビックリーム)の法理(下) ―「Bikkurim」第3章における奉納儀礼の規定:アグリッパ王の自己運搬義務、祭壇南西角の空間的制約、および初物の財産権的帰属に関する律法学的詳解
https://note.com/mishnah/n/n1ffd55a9af67
次の「神殿に行くこと」については、トーラの次の箇所に関わっている。
年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。
トーラは成人した男性が三大祭り(Pesah[過越祭・除酵祭]、Shavuot[七週祭]、Succot[仮庵祭])には神殿に行かなくてはならないことを明記している。
彼は1回の巡礼を短くすることも出来るし、望むだけ神殿に行くことも出来る。
「親切にすること」には2つの仕方がある。
1つは身体的なものであり、病人を訪問することや、親族を失って悲しんでいる者を慰めること等である。
もう1つは経済的なものであり、誘拐された人の為に身代金を支払ったり、貧しい人を援助することである。
このような活動に従事すればするだけ、その者は賞賛されるべきとされる。
「トーラを学ぶこと」は全てのユダヤ人男性の義務である。ヨシュア記には次のように書かれている。
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
この「トーラを学ぶこと」は最も重視されており、2段落目はそれを語ったものである。2段落目を再掲する。
次のことは、この世においてその報いを受けることではあるが、その主要な報いは来るべき世で受けるものである。父母を敬うこと、親切にすること、平和を作ること。しかしトーラを学ぶことは、これら全てを合わせたくらいに匹敵する。
最後の箇所に注目して欲しい。ここに列挙された行為はこの世で報いを受け、最終的には来るべき世、復活後にも報いを受けるのだが、トーラを学ぶことは最も推奨されるべきという事である。
しかも、もしも秤の一方に「父母を敬うこと」、「親切にすること」、「平和を作ること」を載せ、もう一方に「トーラを学ぶこと」を載せるなら、それが釣り合うくらいになると言っている。
それ程トーラを学ぶことが重要であるのは、トーラを学んで初めて、これらの善行を相応しい仕方で行うことが出来るからである。
ユダヤ教における知性的研鑽の優位性とパウロ書簡(コリントの信徒への手紙一1章27~28節)との対比
この点、パウロは「コリントの信徒への手紙一」1章で次のように書いている。
神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
教会はこの原則に従い、知的な研鑽を積むことより、貧しい人、踏みつけられた人を大切にする。
トーラでは逆に、研鑽を積むことは最も大切な徳目であり、具体的である。しかしここでは対比することにとどめ、深入りしない。
次節に進む。
ミシュナ「Peah」1章2節:聖書の沈黙に対する「60分の1」の最低義務量設定
peahの為に60分の1を下回ってはならない。たとえ彼らが「peahには尺度が示されていない」と言ったとしても。それは畑の大きさ、貧しい人たちの数、心の広さに従う。
前節においては聖書の次元では、peahの最低限の分量が示されていないことが書かれていたが、ここでは最低限の割合が示されている。
最低限の割合は60分の1とされているが、ここでは更に考慮するべきポイントも示されている。
「畑の大きさ」とは、もしも畑が大きく、家族を養うのに十分であるなら、より多くの割合をpeahに割くべきであるという観点である。
「貧しい人たちの数」とは、その土地の貧しい人、peahを刈り取りにする人たちの人数も考慮するべきという観点である。
「心の広さ」とは、ここまで60分の1という最低限の割合と、その他にも考慮するべき観点に触れたが、最低限の割合を守るなら、最終的に決めるのは農夫本人であるという事である。
気前よく与えるなら、それだけ報われるものだが、決めるのは本人である。
次は「Peah」1章4節である。
ミシュナ「Peah」1章4節:peahの義務を負う作物の5大要件と除外規定
彼らはpeahに関してルールを定めた。如何なるものであれ、食べ物であり、守られており、土から養分を得ており、一度に収穫を行うもの、取り入れて長持ちするもの、これらのものがpeahの義務を負っている。穀物や豆類はこの規則に従う。
ここでは何をpeahとして取り分けなくてはならないのか、基準を示したものである。1つずつ確認する。
「如何なるものであれ、食べ物であること」とは、通常人間が食べるものを指す。日常的に人が食べないものについて、peahの義務は無い。
「守られているもの」とは、その畑が私有地であることを指している。もしも所有者のいない土地であるなら、そこでpeahを分ける必要は無い。
所有者のいない土地に関して、実りがあり、誰かがその後に所有するなら、彼にはpeahの義務は無い。peahの義務が生じる時に、その土地は所有者のいない状態であったからである。
「土から養分を得ているもの」については、土に根を張って育つものを指している。この点私たちの感覚と若干異なるが、キノコなどは対象から外されているようである。
「一度に収穫を行うもの」とは同じタイミングで実り、1回で収穫するものを指す。この点イチジクなどは成熟するタイミングが個々に異なり、収穫するタイミングもまちまちであるので、対象に含まれない。
「取り入れて長持ちするもの」とは、長期間保存することが出来るものを指す。従って、野菜などは除かれる。
「穀物や豆類はこの規則に従う」とは、穀物や豆類が上の条件を満たすものとして列挙出来ることを言っている。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Peah』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n2d88667d1089
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
