ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第10回:王の裁く権利・裁かれる義務及び証言能力におけるダビデ王朝と非ダビデ王朝の法理的峻別と、王・王女に関わるchalitzah・yibum
【学術的免責事項】本稿は、古代ユダヤ法(口伝律法ミシュナおよびタルムード・ゲマラ)の文献記述に基づく、純粋な法制史および比較法学の研究を目的としている。
本稿は口伝律法ミシュナ第4部『Nezikin(ネジキン)』に属する『Sanhedrin(サンヘドリン)』の第10回目の解説である。
今回は『Sanhedrin』2章2節を対象に、古代ユダヤ法における「王の法的地位」を文献学的に解明する法理研究である。ハスモン朝(ヤンナイ王)に代表される非ダビデ王朝とダビデ王朝の裁判権(裁く権利・裁かれる義務)および証言能力の有無を巡る論争を精緻に分析。
さらに、王の尊厳放棄(mitzvah優先か王の尊厳か)の可否を巡るラビ・ユダとラビたちの対立、chalitzahおよびyibumの適用除外、先代王の未亡人との結婚禁止規定まで、ハラハー(ユダヤ法)の決定プロセスと帰結を完全網羅する。
前回の振り返り:大祭司の死者の汚れ(tumat met)と葬送・慰めの法理
前回は『Sanhedrin』2章1節の続きを取り上げ、大祭司の「死者の汚れ(tumat met:トゥマット・メット)」に関する制限と、葬送や埋葬後の食事における特例的な作法について、聖書(レビ記)に基づいた解説をした。
主な内容は以下の通りである。
【1】大祭司の「死者の汚れ(tumat met)に対する厳格な制限
聖書(レビ記21章)に基づき、祭司は死者によって身を汚してはならないという原則があるが、大祭司にはより厳しい規定が適用されている。
①通常の祭司
父、母、息子、娘、兄弟、未婚の姉妹、妻という「7人の近親者」が亡くなった場合には、死体に触れて汚れることが許されている。
②大祭司
「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」(レビ21:11)とされており、通常の祭司なら許される近親者の死であっても、その汚れを受けることが一切禁じられている。
【2】葬列への随行における論争と実務
大祭司が親族の葬列に加わる際の作法について、ラビたちの間で以下の見解が示されている。
①ラビ・メイルの視点
棺が直接見えない場所(路地など)を通っている間は随行出来るが、視界が開ける「町の入口」まで来たら随行を止めなければならない。
②ラビ・ユダの視点
大祭司は聖所(神殿)を離れてはならないという聖句を強調するが、距離を保つ限りは随行を認めるラビ・メイルの説を補足する形を取っている。
③ゲマラおよびMaimonidesの結論
誤って汚れを受けるリスクを避けるため、大祭司は葬列に加わってはならないという結論が支持されている。
【3】慰め(お悔やみ)の儀礼
大祭司が他者を慰める際、あるいは自身が慰めを受ける際の作法が定められている。
①他者を慰める場合
大祭司も一般の参列者に加わって遺族に言葉をかけることが出来るが、その威厳を保つために、大祭司の総代理(任命された者)が大祭司に付き添う。
②自分が慰められる場合(大祭司が遺族のとき)
参列者は「私たちはあなたの贖いである」と述べ、大祭司は「祝福が与えられますように」と応じる。
【4】埋葬後の食事における特権
埋葬後、遺族が最初に摂る食事(友人などが提供するもの)において、大祭司の特別な地位が反映される。
通常、悲しみを共有するために遺族も参列者も地面に座るが、大祭司が遺族である場合は、大祭司だけが腰掛けに座り、他の人々は地面に座ることで、喪中であってもその固有の権威が保持される。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第9回:大祭司の葬送随行と埋葬後の食事に関する法理
https://note.com/mishnah/n/nf3c6bd847cde
ミシュナ『Sanhedrin』2章2節における王の裁判権(裁く権利と裁かれる義務)
今回はその続きで口伝律法ミシュナ「Sanhedrin」2章2節である。まずは本文を引用する。
王は裁いてはならないし、裁かれてもならない。
これについて、イスラエルの王とダビデ王朝の王とを区別する必要がある。
第2神殿時代、イスラエルの王Yannaiが自分の奴隷の裁判で証言を求められた際、法廷の権威に挑戦した。この時裁判長シモン・ベン・シェタハ以外の裁判官が王を恐れて沈黙したので、天使ガブリエルが彼らを殺害したという逸話がある。
「自らも裁かれる者のみが、他者を裁くことが出来る」という原則もある。王が自らの利益の為に法廷の権威に従わない側面が露呈したので、この機会に裁く側としても、裁かれる側としても「王を裁判に関与させない」というルールが確立したものである。
これに対してダビデ王朝の王については、エレミヤ書で次のように書かれている。
ダビデの家よ、主はこう言われる。
朝ごとに正しい裁きを行え。
搾取されている人を
虐げる者の手から救い出せ。
預言者によって公然と裁きを行うように促されているので、ダビデ家の王たちはミシュナの「王は裁いてはならないし、裁かれてもならない」に含まれていないと解される。ダビデ家の王は自ら裁きを行うので、裁かれる者でもある。
あるいはMaimonidesによると、ダビデ家の王たちはトーラを守り、法廷の権威に従う点で信頼されているので、あえてそこから除外する理由がないとされている。
王の証言能力を巡る法理と申命記(17章・19章)からの解釈学的演繹
続きには次のように書かれている。
彼は証言してはならないし、証言されてもならない。
証言についても、判事になる資格と同様に規定されている。すなわちダビデ家の出身でない王たちは、法廷で証言してはならないし、証言されてもならない。彼らが法廷の威厳を損なうからである。
この点ダビデ家の王たちには、法廷を尊重する信頼があるので、証言能力があるとされる。しかしこの箇所に関して、これ以外にも2つの見解がある。
1つは、証言することに関しては、ダビデ家の王たちにも禁止されているという事である。法廷の中で、王が誰かの為に証言することは、王の威厳を損なうものである。
もう1つは、申命記17章、19章からの演繹である。まず証言することに関して、次のように書かれている。
15いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。 16不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、 17係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。 18裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば・・
証人たちは「祭司と裁判人の前に出ねばならない」とされている。他方で王について、トーラには次のように書かれている。
15必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
この箇所では、王に対する畏敬が求められている。この示すべき畏敬の念と、証人たちが果たすべき役割・性格が相容れないというものである。王は証人になることが出来ない。
王の証言能力を規定する3つの見解
以上の3つの見解をまとめると、以下の通りになる。
①判事になる資格と同様とする見解
ダビデ家の出身でない王たちは、法廷で証言してはならないし、証言されてもならない。
ダビデ家の王たちは、法廷で証言することが出来るし、証言されることも出来る。
②どちらの王にも証言能力はないとする見解
法廷の中で、誰か他の者の為に証言することは、王に相応しくない。
③トーラの解釈から、どちらの王にも証言能力はないとする見解
どちらの王にも証言能力はないとする見方は②と同じであるが、その根拠を申命記17章、19章から引き出している点で異なる。
以上で王が判事を務めることが出来るか、裁かれることが出来るか、証言に関わることが出来るかについての解説を終えた。
王におけるchalitzahの禁止と王妃の地位の不可侵性
続きには次のように書かれている。
彼はchalitzahをしないし、王の妻にされることもない。
もし王の兄弟が子供を残さないで死んだなら、王はchalitzahの儀式を行ってはならない。なぜなら王が法廷に立ち、義理の姉妹が王に向かって唾を吐くことは相応しいことではないからである。
また、王が子供を残さないで死んだ場合、その妻がchalitzahしてもならない。一端王に嫁いだなら、彼女には如何なる結婚も許されない。chalitzahは、やもめが次の結婚をする為の手続きである。
yibumの目的(申命記25章)と王の威厳
続きには次のように書かれている。
彼はyibumをしないし、その妻にされることもない。
yibumの目的について、申命記25章には次のように書かれている。
5兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、 6彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
Rashiによると、王が死んだ兄弟の家の再興の為に義務を果たすのは、王としての威厳に相容れない行為である。
王女が王以外に嫁ぐことはないことは、既に上で述べた。従ってやもめとなった王女にyibumすることもない。
王による尊厳の放棄(王権の維持とmitzvahの優先)を巡るラビ・ユダとラビたちの論争
続きには次のように書かれている。
ラビ・ユダは言う。「もし王がchalitzah、もしくはyibumをしようと望むなら、好意的に覚えられるだろう」。彼らは彼に行った、「彼の言うことは聞かない。誰も王の妻を娶ってはならない。」
ユダヤ法には「王が自らの尊厳を放棄しても、その放棄は認められない」という原則があるが、これには例外があるかどうかが問題となる。
この点、ラビ・ユダ(Rabbi Judah)は「mitzvah(ミツヴァ:掟)」を遂行するためであるなら、王が自らの尊厳を放棄することは認められる」としている。
具体的には、王がchalitzahやyibumを行うことを強制することは出来ない。しかしもし王が志願して行うのであれば、それは許容されるだけでなく、むしろ模範的な行為と見なされる。
これに対してラビたちは「王による尊厳の放棄は無効である」と主張している。その根拠はトーラから取られている。次のように書かれている。
必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て・・
翻訳でも「必ず・・立て」と書かれている。原文では「(王を)置き、置かなくてはならない」という表現が使われている。ヘブライ語の語法として、2重で動詞が書かれている場合、「必ず・・する」という意味になる。
ここでは王が自らの威厳を守らず、mitzvahの実行を優先したとしても、民は王を敬わなくてはならないことを言っていると解釈される。そこで王はmitzvahを実行して、自らの威厳を損なってはならないと解釈する。
ハラハーはラビたちの見解を支持している。王はchalitzahもyibumも行うことが出来ない。
先代王の未亡人との結婚規定:サムエル記下12章8節を巡る文字通りの解釈とラビたちの限定解釈
続きには次のように書かれている。
ラビ・ユダは言う、「王は他の王の妻を娶ってよい。ダビデはサウルの妻を娶った。次のように書かれている。『あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えた。』(サム下12:8)」
ラビ・ユダは上で「王はchalitzahもyibumもすることが出来る」と主張していたが、ここでは「王は先代の王の妻を娶ってよい」と言っている。
その根拠として、ラビ・ユダはサムエル記下12章8節を挙げている。この箇所は文字通りに読むと、預言者ナタンがダビデ王に対し、神がサウルの家、サウルの妻たちをダビデに与えたことを示唆している。
これに対しラビたちは、その聖句はサウルの妻ではなく、サウルの家の女性たち(サウルの娘、メラブやミカルなど)を指していると解釈した。
ハラハーはラビたちの見解を支持している。王の未亡人と結婚することは、次の王であっても禁じられる。
以上で「Sanhedrin」2章2節の解説を終えた。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n8cf87c1bb399
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
