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ミシュナ『Peah』の法理体系 第5回:空間的動線と主観的忘却――shichchah(忘れられた作物)における免責規定と「立っている穂」の救済効力

*本稿は、口伝律法ミシュナ「Peah(ペアー篇)」6章2節〜8節における「shichchah(シフハー:忘れられた作物)」の法理を厳密に解剖する。

 作業プロセスの「時空間的動線(南北と東西の交錯)」がもたらす所有権の保留、壁や家畜などの「認知的目印」の存在が主観的忘却に与えるハラーハー的影響について、Beit Shammai(シャマイ学派)とBeit Hillel(ヒレル学派)の論争を網羅。

 更に2セア以上の量的免責、また「立っている穂」が有する法理的救済力の非対称性を検証する。トーラ(申命記24章19節)を起点とするユダヤ法理の極致を提示し、律法の現場を再現します。


前回の振り返り:第5章8節〜第6章3節の法理


 前回は、ミシュナ「Peah(ペアー篇)」の第5章8節から第6章3節に基づき、「shichchah(シフハー:忘れられた作物)」が成立する条件と境界線、および学派間の論争について解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】脱穀プロセスとshichchahの適用境界(5章8節)

 収穫した束を脱穀場へ運ぶ際、どの段階でshichchahと見なされるかが定義されている。

①仮置きの段階

 束を「山(ヘルメット型、パンケーキ型など)」にしたり、穴に積んだり、大きな束にまとめたりしても、仮置きの段階では、shichchahの掟は適用されない。

 これらはさらに脱穀場へ運ぶための準備工程と見なされるからである。

②適用のタイミング

 shichchahが発生するのは、「最終的に脱穀を行う場所」へ向けて運搬を開始した後の過程である。

③意図による変化

 「この山で脱穀しよう」と決めていた場所(完了の場所)へ運ぶ途中で忘れたものはshichchahになるが、後に意図を変えて別の場所で脱穀することにした場合、その後の運搬プロセスで忘れた束はshichchahにならない。

【2】巨大な束(4カヴ)を巡る論争(6章1節)

 通常の束(1カヴ)の中に、4カヴ(約5.7リットル)という巨大な束が混ざっていた場合の扱いで、二大学派が対立している。

①Beit Shammai(シャマイ学派)

 4カヴの束を「1カヴの束を4つ連続して忘れた」のと同等と見なし、「3つ以上の束を忘れた場合はshichchahにならない」という原則に基づき、shichchahではないと主張する。

②Beit Hillel(ヒレル学派)

 4カヴの束はまだ「単一の束」と見なされる範囲内である。そこで4カヴの束はshichchahに該当すると考える。

【3】「列の端」における免責規定(6章3節)

 列の最初と最後に置かれた束については、両学派ともに「shichchahにはならない」ということで一致している。その理由は、トーラの記述(申命記24章19節)の解釈に基づいている。

①最初の束が除外される理由

 shichchahには「刈り忘れ」と「運び忘れ」の2種類がある。

 どちらも「作業中の前方にあるものを忘れる」ことが条件である。従って、作業の起点となる最初の束を忘れるという概念は成立しない。

②最後の束が除外される理由

 トーラには「取りに戻ってはならない」と記されている。列の最後にある束は、それより先に進む場所がないため、論理的に「戻って取る」べき場所に位置していないと解釈される。

 ただし、隣に次の列がある場合、その前列の最後の束は「戻って取る」位置関係にあるので、shichchahに該当する。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Peah』の法理体系 第4回:「運び忘れられた作物(shichchah)」の成立要件と、4カヴの束、列の端の束を巡るBeit Shammai(シャマイ学派)・Beit Hillel(ヒレル学派)のhalachah(ハラハー)論争

https://note.com/mishnah/n/n96c137fcf999


空間的動線と収穫計画の交錯:『Peah』 6章3節(前編)


 今回は口伝律法ミシュナ「Peah」6章3節の続きを扱う。

 列の端、その近くの束が、それが忘れられていないことを表している束、町へ持って行く為に取り、忘れられているもの、-彼らはそれがshichchahではないことで一致している。

(Peah 6:3)

 「列の端」は前回扱った。

 「その近くの束が、それが忘れられていないことを表している束」とはどのような状況の束なのかを解説する。

 下の写真を見て欲しい。

ミシュナPeah6章3節のハラーハー論争における、作業動線と収穫計画の図解

図の上が北、下が南、右側が東、左側が西。A列・B列の1〜10は刈り取られた束の位置を表しています。

 キャプションにある通り、図の上が北、下が南、右側は東、左側が西である。

 図の畑では2列の作物が育てられた。それが「A列」「B列」という2つの列であり、それぞれ北から南に向けて1から10までの番号が並べられているが、番号は刈り取られ、置かれた束を表している。

 A1とはA列の最も北側の束であり、B10とはB列の最も南側の束になる。

 この写真の図に従って解説する。

①この畑の中で労働者がA列のA1から作物の束を集め始め、南に進み、A9まで完了する。

②労働者はA9の束を集めると北側に戻り、B1から順番にB1、B2・・と南に進みながら束を集める。

 この場合、A10は飛ばされたので、shichchahになるとも思われる。前回の記事で見た通り、A10は「戻って取る」位置にあるのだから、「北から南」の流れで見るとshichchahである。

 しかし東西の流れを見ると、10番目の行はまだ束を運ぶ作業を始めていない。農夫は10行目について、東西に動いて収穫する積りでいるのである。そこでA10はshichchahではない。

 「その近くの束が、それが忘れられていないことを表している束」とは、今説明したような状況を言っている。以上でこの箇所の解説を終えた。

町へ持って行くもの(意図をもって掴んだ束の扱い):『Peah』 6章3節(後編)


 次に「町へ持って行く為に取り、忘れられているもの」についてである。

 農夫が収穫物の束を町へ持って行く積りで掴んだが、何かの事情で畑に置き忘れてしまった場合である。この場合、農夫は意図をもって実際に束を掴んだので、最早「運び忘れた束」になり得ない。

 この点について、Beit ShammaiもBeit Hillelも一致している。

 以上で「Peah」6章3節の解説を終えた。

主観的忘却のハラーハー:『Peah』 6章2節

 次に順番が前後するが、「Peah」6章2節に戻る。次のように書かれている。

 もし束が壁の近く、穀物の山、家畜の群れ、道具の近くであって、それを忘れてしまったら、―Beit Shammaiは言う、「shichchahではない。」しかしBeit Hillelは言う、「shichchahである。」

(Peah 6:2)

 ここでは束が壁であるとか、穀物の山、家畜の群れ、何かの道具の近くで忘れられていた場合の扱いである。これら4つの単語は明確な語で翻訳されているが、実際に何を指しているのか、必ずしも明らかではない。

 ここでは忘れられた束が、「何か目印になるものが近くにある場合」という認識で十分である。

 この箇所には「運び忘れたならshichchahになる」ことについて、重大な原則が示されている。私たちの感覚であると、「運び忘れたなら」の条件は、文字通り「それを飛ばして先に進んでしまったなら」という程度に考える。

 しかし彼らにとってそれでは十分ではない。shichchahになるには、運び忘れるだけでなく、後で思い出せないという条件も必要である。

 言い換えるなら、後で「しまった、あそこに置いてきてしまった」と思い出せるのであるなら、それはshichchahになっていない。

 以上を前提に、改めて「Peah」6章2節を見て欲しい。

 もし束が壁の近く、穀物の山、家畜の群れ、道具の近くであって、それを忘れてしまったら、―Beit Shammaiは言う、「shichchahではない。」しかしBeit Hillelは言う、「shichchahである。」

(再掲Peah 6:2)

 束は目印となり得るものの近くに置かれている。そこでBeit Shammaiはこの場合、農夫は束を完全に忘れているとは考えない。後で思い出して取りに来れるので、shichchahにならないと主張する。

 この点Beit Hillelは何かの近くに置かれたという理由で、必ずしも思い出さないとする。そこで本節の条件下にある束もshichchahであると主張する。

規模と連続性がもたらす免責と救済:Peah 6章7節〜8節


 ここまでshichchahについて原則的な部分については見ることが出来た。以上を元に、幾つかのミシュナを検証してみよう。まずは「Peah」6章7節である。

2セア以上の容量限界による「刈り忘れ」の除外

 もし立っている穀物が2セアを含み、それを忘れるなら、それはshichchahではない。

(Peah 6:7)

 この箇所は「刈り忘れのshichchah」について扱っている。脱穀したら2セア(約17リットル)になる穀粒を結んでいる穂を刈り忘れたなら、それはshichchahではない。

「立っている穂」が持つ法的救済力とその非対称性


 次は「刈り忘れのshichchah」と「運び忘れのshichchah」双方に関わるミシュナである。

 立っている穂は、束も立っている穂も救う。束は束も立っている穂も救わない。
 束を救う、立っている穂とは何であろうか?忘れられていないものである、たとえ1本であったとしても。

(Peah 6:8)

 まず「立っている穂は、束も立っている穂も救う」についてだが、問題になっている場面では、例えば「刈り忘れのshichchah」と「運び忘れのshichchah」どちらもある。

 しかしその近くには忘れられていない穂、これから刈り入れ作業をする穂が立っている。この場合、「刈り忘れのshichchah」と「運び忘れのshichchah」も、どちらもshichchahにならない。

 これらのものが「shichchahにならない」為には、どの程度忘れていない穂の近くになくてはならないのかは明らかでない。

 ただ「刈り忘れのshichchah」については、以前の記事で扱った「Peah」5章2節に拠るなら、忘れていない穂と一緒に收穫出来る位置にあるという事になる。

 「運び忘れのshichchah」については、距離については示されていないが、2つの条件が求められている。1つは「同じ所有者に属するもの」であり、もう1つは「同じ種類であること」である。

 従ってこれから刈り入れするA氏の穂のすぐ近くに、B氏の刈り忘れの穂が立っていたとしても、それはshichchahになる。

 同じことは、別の種類同士にも言える。

 「束を救う、立っている穂とは何であろうか?忘れられていないものである、たとえ1本であったとしても」とある通り、たとえ1本であろうとも、近くの2つのshichchahを救うことになる。

 以上が「立っている穂は、束も立っている穂も救う」の意味するところである。

 この点「束は束も立っている穂も救わない」とされている。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Peah』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n2d88667d1089


 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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