見出し画像

ミシュナ『Peah』の法理体系 第3回:落ち穂(leket)の帰属と「忘れられた作物(shichchah)」の境界線──混入したleketを巡るmaasrot(十分の一税)免除の法理と、「忘却」の定義

*本稿では、口伝律法ミシュナ「Peah(ペアー篇)」第5章1節〜2節、および7節を構造的に解析し、収穫期における救貧ハラハー(法規定)の動的境界線を実証的に解明する。

 前半では、まだ集められていない落ち穂(leket)の上に束を置いた場合のラビによるペナルティの規定、および不可抗力の風による穀粒の飛散において、どの程度の分量を貧しい人のものとするかの推計論争を検証。

 中盤では、未処置の穀物の山(tevel)に免税ステータスを持つleketが混入した際、過分な労力を回避しつつ実務的に法的処理を行う「maaserの位置指定の宣言」のスキームを解説。

 後半では、成文律法(申命記24章19節)に根ざす「忘れられた作物(shichchah:シフハー)」へと移行し、労働者と所有者の「双方の忘却」という主観的条件(「Peah」5章7節)や、貧しい人々による人為的隠蔽(もみ殻の偽装)の法的無効性、さらに「刈り入れた畑」と「立っている畑」の境界線上の穂の帰属を精査。

 農夫の所有権と貧困層の生存権が、2,000年前の「律法の現場」でいかに緻密に画定・調停されていたかを、伝統的ハラハーの法理体系から厳格に跡付ける。


前回の振り返り:ミシュナ『Peah』第4章10〜11節における法理の総括


 前回は、口伝律法ミシュナ「Peah(ペアー篇)」第4章10〜11節を中心に、「leket(レケット:落ち穂)」の帰属を巡る法理を解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】leketの定義と不可抗力の除外(4章10節)

 leketとは、収穫中に手から落ちた2粒以下の穀粒を指すが、すべての「落ちた穂」が貧しい人のものになるわけではない。

①通常作業の原則

 通常の刈り入れ作業中に落ちたものがleketと見なされる。

②不可抗力の除外

 作業中に「とげが刺さった」などの突発的な出来事で穂を落とした場合、それはleketには該当せず、所有者のものとなる。

【2】所有権を分かつ「境界線」の議論

 ミシュナは、どこから穂が落ちたかによって所有権を厳格に区分している。

①手の内側・鎌の内側

 ここから落ちた場合は通常の作業と見なされ、貧しい人のものになる。

②手の後ろ側・鎌の後ろ側

 ここから落ちた場合は作業外と見なされ、所有者のものとなる。

③手の先・鎌の先

 境界線上の判断についてはラビ間で対立があるが、ハラハー(法規定)では所有者のものとするラビ・アキバの見解が採用されている。

【3】蟻の巣にある穀粒の帰属(4章11節)

 蟻が運んだ穀粒の帰属については、収穫作業との前後関係が焦点となる。

①ミシュナの基準(位置)

 刈り入れ後の場所であれば、巣の「上部」にあるものは作業中に落ちた可能性があるので貧しい人のものであり、「下部」にあるものは作業前に落ちたと見なされ所有者のものとなる。

②エルサレム・タルムードの基準(色)

 位置よりも「色」を重視する。乾燥して白い(成熟した)ものは収穫期の落ち穂として貧しい人のものであり、緑色のものは未成熟で作業前に落ちたものとして所有者のものと判断する。

【4】「疑わしいleket」と十分の一税(maasrot:マアセロット)

 権利関係が不明確な場合の法的原則についても触れられている。

①救貧法理の優先

 通常の民事原則は挙証責任は利益を得る側にある(hamotzi mechavero alav hareaya)に反し、救貧法においては「疑わしいleketはleketと見なす」という原則が優先され、貧しい人のものになる。

②十分の一税(maasrot)の免除

 本来、leketはmaasrotの義務が免除されっる。しかし「疑わしいleket」については、免除するべきか、あるいは貧しい人が税を取り分けるべきかについて議論がある。

 これらの規定は、律法が「単なる形式主義」ではなく、所有者の権利と貧しい人の権利を明確に画定するための実務的な規則として機能していたことを示している。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Peah』の法理体系 第2回:落ち穂(leket)の帰属を巡る境界線上の法理――通常作業の定義と「不確かなleket」におけるmaasrot(十分の一税)免除の是非

https://note.com/mishnah/n/n8e72dd80056c

ミシュナ『Peah』5章1節:人為的状況と不可抗力におけるleketの帰属


 今回はleketの続きである。口伝律法ミシュナ「Peah」5章1節から引用する。

 まだleketが集められていない上に置かれた束について、地面に触れているものは、貧しい人のものである。

(Peah 5:1)

 この箇所はその場所からleketがまだ集められていないのに、收穫の束が置かれた場合の扱いである。貧しい人がそこからleketを集めることが出来ない状況になっているのが問題である。

 ラビたちが定めた規則は一種の罰則である。つまり、地面に触れている束の穂は貧しい人のものとしたのである。

 厳密に対応するなら、「通常leketで落ちただろう分量」を取り分け、与えることになるが、所有者が作り出した状況の意味を考えた場合、それでは不十分とされた。

 置かれた束の中で、地面に触れているものは、丸々貧しい人の所有と見なされる。

 続きは以下の通りである。

風による飛散と落下分量の推計論争

 もし風が吹いて束を飛ばすなら、私たちは通常どれだけのleketが生じたのかを見積もる。そしてそれを貧しい人に与える。ラッバン・シモン・ベン・ガマリエルは言う、「落下に従って与える。」

(Peah 5:1)

 今度は風が吹いて收穫の束を飛ばし、まだleketを集めていない場所に撒き散らしてしまった場合である。

 この場合は、その場の具体的な状況を考慮し、どの程度のleketが生じるのかを見積もって、貧しい人に与える。従って、個別的に判断することになる。

 この点、ラッバン・シモン・ベン・ガマリエルは「平均的にどの程度落ちるのか」を基準として、対応するべきであると主張する。

 次節もleketについて扱ったものだが、論点が複雑で細かい。

ミシュナ『Peah』5章2節後半:tevel(未処置穀物)とleketのステータス衝突

 もしleketの穀粒1つが穀物の山と混じってしまったなら、彼は1つ取り分け、彼に与える。

(Peah 5:2)

 問題はleketについてはmaasrotを取り分ける義務が無いことである。それに対して、この箇所の「穀物の山」はtevelである。つまりmaasrotを取り分けなくてはならないが、まだ取り分けていないものである。

 tevelは「まだ取り分けていない」という状態だけでなく、「そこから食べてはならない」という状態でもある。

 そこにmaasrotを免除されているleketが入るというのは、「律法上地位の異なるものが混じっている状態」になる。

 もしもleketの穀粒が特定出来るなら、問題はない。それを取り出せばよいのである。しかし当然ながら、どの穀粒がleketであるのか分からなくなってしまっている。

 「その他のもの」はtevelであるので、勝手に取り出すことは出来ない。

 従って論理的に考えるなら、混ざってしまった收穫の山全体からmaasrotを取り分けるのが最も簡単である。するとleket以外の穀粒も、全て自由に扱うことが出来るからである。

 しかしこの方法が簡単なのは言葉の上だけであり、膨大な量の收穫物からmaasrotを取り分けるのは、多大な労力を要する。

 そこで、1粒の為の過分な労力を回避しつつ、確実に農夫にleketを与える方法として、次のような仕方が考えられた。

 農夫が收穫の山から1粒だけ取り、その為のmaasrotを取り分けるのである。するとその1粒は自由に扱ってよいものとなり、貧しい人に与えることが出来る。

 例えば、農夫は1粒取り出して次のように宣言する。

 「この1粒の為の税は、倉庫の中の北側の部分から取り分ける。」

 この宣言によって、農夫はその1粒を自由に扱うことが出来る。

 maasrotを取り分ける際、このように「何々の北側」とか「何々の通路側」のような言葉によって宣言する方法は、よくミシュナの中で見られる。

 以上で前回からのleketについての解説を終えた。

成文律法に根ざす「shichchah(忘れられた作物)」の厳密な定義


 次にshichchahに進む。まずはトーラ本文を再掲する。

 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。

(申24:19)

 shichchahは「忘れられた作物」の意味で、脱穀場に運ぶ時に置き忘れた束を指し、あるいはまた、収穫する者が刈り忘れたものをも含む。

 以下、ミシュナを引用しながら、この原則を詳しく見ていこう。

 もし労働者が束を忘れたが、所有者が忘れていないなら、または所有者が束を忘れたが、労働者が忘れていないなら、または貧しい人々がその前に立ち、もみ殻で覆うなら、これはshichchahではない。

(Peah 5:7)

 土地の所有者が労働者を雇って作物を収穫している。労働者が收穫の束を忘れ、または所有者が忘れたが、双方ともには忘れていない。この場合、その束はshichchahではない。

 所有者、労働者どちらも忘れていないなら、shichchahではない。

 次の「貧しい人々がその前に立ち、もみ殻で覆うなら、これはshichchahではない」が少し分かりにくいが、貧しい人が自分たちの取り分を確保する為に、所有者と労働者が忘れるような状況を作り出した場合を言っている。

 つまりまだ農夫たちが畑で作業している最中に、貧しい人々が農夫たちに見つからないように「もみ殻」を上からかぶせて隠した場合、またはそれに準じる場合である。

 この場合、隠された束はshichchahではない。

刈り忘れの法理:刈り入れた畑と立っている畑の物理的境界(ミシュナ『Peah』5章2節前半)

 話は前後するが、「Peah」5章2節前半に戻る。そこには地面に落ちたものとしてのshichchahではなく、刈り忘れたものとしてのshichchahについて記されている。

 もし穂の穀粒が既に刈り入れた畑の中にあり、その先が立っている畑の方にまで届いているなら 、―もしそれが他の立っている穂と一緒に刈られるなら、所有者のものである。しかしそうでないなら、貧しい人のものである。

(Peah 5:2)

 本文だけでは分かりにくいが、以下のような状況について言っている。

①農夫が收穫をしていたところ、見逃した穂があった。

②その茎は既に刈り入れたエリアに立っているが、曲げることが出来るので、まだ刈り入れていないエリアにまで届いている。

③もしまだ刈り入れていないエリアのものと一緒に刈り入れることが出来るなら、所有者のものである。

④もしまだ刈り入れていないエリアのものと一緒に刈り入れることが出来ないなら、shichchahであり、貧しい人のものである。

 本節から、改めて所有者の権利と貧しい人々の権利が厳格に定められていることが分かる。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Peah』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n2d88667d1089


 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

いいなと思ったら応援しよう!