ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第1回:3人法廷の聖書的根拠と「金銭・盗難・婚姻」をめぐる司法管轄権の法理(1章1節)
*本稿は古代ユダヤ教の口伝律法ミシュナおよび旧約聖書(トーラ)における法理体系を紐解く学術的な研究・解説記事である。記事の性質上、婚姻法や刑法に関する歴史的・律法的な記述、および性的な事案(強制性交、不貞の立証等)に触れる繊細な内容を含むが、これらはすべて歴史的文献の客観的な注解を目的としたものである。
本稿は口伝律法ミシュナ第4部『Nezikin(ネジキン)』に属する『Sanhedrin(サンヘドリン)』の第1回目の解説である。
今回は『Sanhedrin』1章1節の法理学的注解。出エジプト記22章の無償受託の記述にみる「エロヒーム」の使用回数を基点に、3人法廷の聖書的起源と司法管轄権(金銭訴訟・盗難・傷害・損害賠償・婚姻法における中傷)を検証する。
本稿の以前の記事においては、新約聖書特にイエスの裁判に焦点を合わせた内容を扱った。
今回から口伝律法ミシュナ「Sanhedrin」の本文を解説する。まずは「Sanhedrin」1章1節の本文を引用する。
金銭に関する裁判は3人で裁かれる。盗難と傷害も3人で裁かれる。全て賠償する訴訟と半分を賠償する訴訟、2倍の賠償、4倍5倍も3人で裁かれる。
金銭訴訟(自白・貸付・結婚契約書等)における3人法廷の構成
最初に「金銭に関する裁判は3人で裁かれる」部分を解説する。これは金銭訴訟の事であるが、係争の原因としては、以下のものが挙げられる。
①自白
証人の前で、相手に対して金銭的な義務があることを認める事案。
②貸付
借金に関する訴訟。
③その他
結婚契約書(ketubot:ケトゥボット)、相続、贈与に関する事案。
ketubotは妻が離縁された時、夫に先立たれた時に受け取ることが出来る金額が明記されている。不確かな方は以下のシリーズから確認することが出来る。
◉ユダヤ法における結婚・離縁・家族の法理学
https://note.com/mishnah/n/ndeee1c7e77b4
出エジプト記22章における「エロヒーム」の登場回数と3人法廷の聖書的起源
さて、3人法廷の起源はトーラの記述の中に見ることが出来る。
6人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばならない。 7もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。 8牛、ろば、羊、あるいは衣服、その他すべての紛失物について言い争いが生じ、一方が、「それは自分の物です」と言うとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをせねばならない。
この箇所で扱っているのは、無償の受託関係における係争である。すなわち寄託者は受託者に無報酬で所有物を寄託している。
この種の事案そのものの理解について不確かな方は、下の記事から確認されたい。
◉ミシュナ『Bava Metzia(バヴァ・メツィア)』注解 第2回:四種の受託者(shomerim:ショメリーム)における免責要件と不可抗力の定義
https://note.com/mishnah/n/naa3880a35e46
さて、この出エジプト記22章6~8節では「判事」・「裁判官」を意味する「エロヒーム」という単語が3回使われている。この使用回数から、金銭事件を裁くには少なくとも3人の裁判官が必要であると導き出されている。
通常、トーラにおいて「エロヒーム」という単語は、公式に任命された裁判官を指す。しかし、ラビたちは、貸付などのケースにおいては公式に任命されていない裁判官の前で裁判を行うことを許可したものである。
これは公式に授権された裁判官の法廷に出向くのが困難であるために、貸し手が資金回収を懸念し、貸し出しを渋る(経済が滞る)ことがないようにするための配慮である。
ここまで「金銭に関する裁判は3人で裁かれる」点について解説した。
盗難・傷害事件の司法管轄とディアスポラにおける代理権法理
次に「盗難と傷害も3人で裁かれる」についてである。上記の通り金銭訴訟は公式に任命されていない判事によって裁くことが出来るが、盗難事件や傷害事件は公式の判事によって裁かれなくてはならない。
「盗難・窃盗についても公式に任命されていない3人の判事で裁判出来る」という主張もある。この場合、この盗難・窃盗事件には傷害事件は伴っていない。
地域による違いを指摘する識者もいる。聖地イスラエルの地においては必要な時に公式の判事がいるが、ディアスポラにおいてはそうではない。なぜなら現地法に基づいた判事の資格ではなく、トーラに基づいた資格であるから。
そこで盗難や窃盗の事案でも、現地の判事が「イスラエルの裁判官の代理」として裁くことが必要不可欠であると見なされていたとする。
以上で「盗難と傷害も3人で裁かれる」について解説した。
損害賠償訴訟(tamとmuadの定義、多倍賠償)のハラハー
次の「全て賠償する訴訟」とは、他人の財産に損害を与えた場合の訴訟である。原則として、加害者は被害額を補償しなくてはならない。
「半分を賠償する訴訟」については、トーラ独特のものである。出エジプト記21章に次のように書かれている。
35ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。 36しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。
この箇所を理解するの前提として、複雑な法理を押さえる必要がある。ここでは詳細に立ち入らないので、不確かな方は下のリンクから確認されたい。
◉ミシュナ『Bava Kamma』による損害賠償の法理体系 第1回: tam(タム)・muad(ムアド)の法的定義とkeren(角)・shen(歯)・regel(足)の三類型
https://note.com/mishnah/n/n478c02d86323
家畜が他人の家畜を攻撃して死なせた場合、原則として加害側の家畜の所有者と被害側の家畜の所有者で損害を折半する。
ただし加害者のその家畜がmuad(ムアド)と認められる条件を満たしていたなら、被害額を全額賠償しなくてはならない。
ミシュナでは、この種の裁判を指して「半分を賠償する訴訟」と呼んでいる。
次の「2倍の賠償」については、トーラには次のように書かれている。
もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。
正当な所有者に分からないように盗んだ場合、窃盗犯は2倍にして被害者に償わなくてはならない。
「4倍5倍の賠償」については、トーラには次のように書かれている。
人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
この箇所では牛を盗み、かつ処分した場合は5倍、羊の場合は4倍にして償うことを言っている。ポイントは盗んだだけでなく、それを屠ったり転売したという事である。この種の案件を扱った裁判が「4倍5倍の賠償」の裁判である。
「2倍の賠償」、「4倍5倍の賠償」については、下の記事で詳しく扱っている。
◉ミシュナ『Bava Kamma』による損害賠償の法理体系 第4回:窃盗と強奪の法的峻別、及び「偽りの証人(zomemim)」による賠償責任の転嫁
https://note.com/mishnah/n/n9810aed46a7f
家族法・刑法における罰金刑(強制性交・誘惑・不貞の中傷)
続きには次のように書かれている。
強制性交する者、誘惑者、妻の貞節の評判を落とす主張も3人で裁かれる。
まずは「強制性交する者、誘惑者」について解説する。
独身のnaarahを強制性交する者、または誘惑する者は50シェケルの罰金を支払う。この事案も3人判事の法廷で扱う。
この事案については、以下の記事で詳しく扱っている。
◉イエスを裁いた『最高法院』への道(2回目):旧約聖書の裏に隠れている3人判事の法廷②
https://note.com/mishnah/n/n3df2dd29045d
次に「妻の貞節の評判を落とす主張」を解説する。
度々本稿でも述べたように、ユダヤ教徒の結婚制度は2段階で構成される。
【第1段階】
kiddushin(キッドゥーシン)またはerusin(エルーシン)と呼ばれる。律法上既婚者となるが、父親の元で通常1年間過ごして準備する。
【第2段階】
nisuin(ニスイン)と呼ばれる。妻は夫と同居し、結婚が完成する。
夫が妻と夜を過ごした後、妻がkiddushinの期間に不貞行為を犯したことを主張し、退けられるなら、100シェケルの罰金を課される。トーラでは申命記22章13~19節で書かれている。
13人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、 14虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「わたしはこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、 15その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、 16娘の父は長老たちに、「わたしは娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、 17娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。 18町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、 19イスラエルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。
この事案についても、「強制性交する者、誘惑者」と同じく、以下の記事で詳しく扱っている。
◉イエスを裁いた『最高法院』への道(2回目):旧約聖書の裏に隠れている3人判事の法廷②
https://note.com/mishnah/n/n3df2dd29045d
kiddushinにおける妻の不貞についても、3人判事の法廷で裁かれる。
司法管轄権をめぐる論争:ラビ・メイルとラビたち(chachamim:ハハミーム)の予見的視点
続きには次のように書かれている。
これらはラビ・メイルの言葉である。しかしラビたちは言う。妻の貞節の評判を落とす主張は23人で裁かれる。なぜなら極刑に関わる事案になるから。
「これらはラビ・メイルの言葉である」という箇所は「妻を不当に中傷した夫の裁判は、3人の裁判官によって裁かれる」という点のみに関わっている。
ラビ・メイル(Rabbi Meir)は、この裁判の本質を金銭的な問題(夫に課される100シェケルの罰金刑)として捉えている。
たとえその裁判の過程で、妻の不貞(死刑に値する罪)が証明され、死刑事件に発展する可能性があったとしても、必要に応じてその時点で裁判官を追加すればよいと考えている。
これに対してラビたち(chachamim:ハハミーム)は、夫による中傷事件は最初から23人の裁判官によって裁かれるべきであると主張している。
なぜなら妻の不貞が事実であるなら極刑の判断になるので、この裁判には最初から死刑に関わる側面が含まれているからである。
仮に3人で裁判を始めてから、後に裁判官を追加することになれば、元の裁判官たちが事件を裁く能力がなかったかのように見え、法廷の権威を損なうことを懸念している。
そのため、最初から23人が必要であると主張しているものである。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究
リンク
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
