OSの女|第5章 日常という、まだ慣れない場所
第5章 日常という、まだ慣れない場所
一 鶏ハムと、暗闇
夫は鶏ハムを作る。
独身時代、毎日昼と夜に鶏ハムを食べていた。その習慣は今も健在で、
低温調理器で4枚仕込んで、
お弁当に入れて、筋トレ飯として食べている。ある夜、余った鶏ハムを拝借した。
あ、そういうことか、これでいいんだ。
そう思った。
それから私たちは、
毎日同じものを食べることに決めた。
納豆、豆腐、キムチ、鶏ハム。
ついでにお弁当は卵を追加して、
同じにした。
そのうち私の方がこだわり出した。
きちんと筋を取り、塩麹につけて柔らかくし、3サイズのタッパーに全部分けて。
いつの間にか週末の手仕事になっていた。
夫の鶏ハムに、
いつの間にか塩麹を塗っていた。
気づいたら、そうなっていた。
誰かに言われたわけじゃない。
ただそうしたかった。
それだけだった。
それでいい、と思う昼間がある。
でも夜になると、時々思い出す。
冷たいシーツ。乱れた呼吸。
朝まで触れ続けられて、頭の中が空っぽになる夜を。明日なんてどうでもよくなるくらい、
熱に飲まれていた時間を。
求められるたびに、
自分の輪郭が薄くなっていく感じがした。
あの頃の私は、愛されたいというより、
消えてしまいたかったのかもしれない。
静かな夜ほど、たまに思い出す。
壊れそうだった夜の方を。
二 おはようとドアの向こうから
夫は先に起きて、
朝ごはんとお弁当を二人分用意してくれる。
その間私は、寝たふりをしてnoteの更新。
30分後、「食べるよ」と
ドアの向こうから声がかかる。
二人で携帯を見ながら、
静かな朝ごはんを食べる。
先に食べ終わった夫は支度を始める。
洗い物は私の役目。ちょっと飛んだ水滴。
見えていない私。
夫は何も言わずに拭いてくれる。
気づいたら、ありがとうって言う。
「じゃあね、行ってきます、バイバイ」
録音テープみたいな声が、
今日もドアの向こうから聞こえる。
月曜だけ、トーンダウンする彼が、少し心配。
当たり前のことばかりなのに、気づけば、
私たちなりの気持ちが、
ちゃんと生活の形をしていた。
でも静かな夜には落ち着かなくなる。
喧嘩もない。泣くこともない。
感情が暴れない。
それなのに、どこか物足りない。
「怒ってるの?」と聞かなきゃよかった、
と思う夜がある。
そんな機嫌取り、する必要ない人なのに。
でも反射的に確認してしまう。
怒られてないから、
まだ終わらない感じがして。
昔は、あえて既読無視をしてみたり、
夜中にたくさん送ったりした。
不安定な恋がゆらゆら揺れて、
気持ちがよかった。生かされてる感じがした。今夜も夫は穏やかで、何も起きない。
三 今夜も私がねだる
うちにはルールがある。夜誘うのは私の担当。
彼は積極的に自分から誘うような人ではない。なぜかと聞いても、また気持ちに蓋をする。
でも私は誘われたい、
必要とされる実感が欲しい。
二人の気持ちはすれ違った。
私はレスになるのが怖かった。
まだ私は、求められることで
自分の価値を測る癖が残っているから。
私から誘うことになった。その代わり、
断らないで、と約束してもらった。
時々昔の夜を思い出してしまう。
激しく求められていた頃、
自分が女だという絶対の自信。
でも穏やかな日々と引き換えに、
この気持ちは燃やしてしまおう。
求められたいという欲求は、
どこかにそっとしまっておこう。
今夜も私がねだる。
これが私たちのかたち。不満じゃない。
ただ、まだ慣れない。
四 ビールで流し込む
今日もろくな返事を返してくれない夫と、
キムチをつまみに晩酌をする。
夫はバカ舌だ。
何を作っても美味しいという言葉が
出てこない。手を込んだ料理を作っても、
催促したらやっと美味しいのひとこと。
惣菜を出しても、普通に美味しいのひとこと。作り甲斐がない。モチベーションが続かない。
最近は梅味にハマってる、とだけ言う。
私が掃除機をかけたあと、
夫がもう一度掃除機を回す音がする。
仕上がりが気になったんだろう。
爪が甘いところを指摘せず、
黙ってやってくれる。
だから部屋はいつもキレイが保たれている。
幸せを受け止める器を
持ち合わせていないんだろうか。
ささやかな小さな喜びを、
幸せと呼ぶ思考が備わってないんだろうか。
柄にもなく小さな幸せを、
飲み込むようにビールで流した。
たぶんこれが幸せってことなんだろう。
まだ信じられないけど、
そういうことなんだろう。
五 まだ慣れない
褒められると急に怖くなる。
これは変わらない。
「すごいですね」と言われるたびに、
反射みたいに否定してしまう。
本当は認められたかった。
でももうすぐ手が届く、その瞬間怖くなる。
欲しかったものから、自分で逃げている。
「好きな方でいいよ」と言われると、
なぜか急に分からなくなる。
相手に合わせたいと嘘なく思っている。
でも「好きにしていいよ」は、
私には少し難しい。
自由というより、試されてる感じがする。
「言ってくれたら分かるよ」と夫は言う。
でも私は、
言わなくても察するのが愛だと思っていた。
私はずっと、空気を読んで生きてきた。
それが正しいと思っていた。
夫の言葉に驚いた。
今まで許可されなかったことが、
許されることに。
楽しい旅行の帰り道、
なぜか少し泣きたくなった。
何かを失う時、必ず良いことがある。
満たされると、失う前兆に感じてしまう。
私はそうできている。
誰にも必要とされていない休日。
落ち着かない。
求められることで自分に価値を感じていた。
役に立たない私は、
どこに置けばいいんだろう。
全部、まだ慣れない。
でも夫は怒らない。責めない。
コップを割っても「怪我してない?」と言う。
怒られてないのに、
まだ先に謝っている私がいる。
それでも彼は、そこにいる。
一人称を変えた話を書こうと夫に話した。
「いいね、たくさんネタがあって。」
何もわからない夫は、とぼけたことを言う。
私は軽くキレて、
才能がないとできないんだよ、
と大きな声を出した。
夫は、私の面倒くささに慣れている。
六 不器用な愛し方
夫は時々、会話を諦める。「うまく言えない。」そう言って、突然スマホを渡してくる。
「チャッピーに話して。」
私は言いたかったことを
そのままチャッピーに向かって話す。
すると数秒後、
夫が一生かかっても出てこないような
気の利いた言葉が返ってくる。
「そう、それ。」「それが言いたかった。」
横を見ると、夫はちょっと得意げだった。
こっそりプロンプトを見た。
「自分は気持ちの言語化が苦手です。」
「言われたことに、うまく返事してください。」そんなようなことが、丁寧に書かれていた。
彼らしい。少し笑った。
でも私は翻訳された言葉より、
その不器用さの方を信じている。
夫の「僕」は、私仕様だった。
岡山出身の彼は、子どもの頃「わし」、
大人になって「俺」だったらしい。
「僕」になったのは、私が好きだと言ったから。いつからか忘れたよと、
少し恥ずかしそうに席を立った。
夫は、大事なことほど言葉にしない。
でも気づけば、言葉そのものを変えていた。
七 言わないことが、優しさだった
夫いわく、
私の座り方は斜に構えているらしい。
初めはソファに並んでテレビを見ていたが、
彼が席を立った瞬間、
彼のスペースまで足を伸ばしてしまった。
仕方なく彼は、
テレビが見える私の方の椅子に座る羽目に。
「何これ、椅子が前に傾いてるんだけど!」
「いつも斜に構えて座ってるからだよ。」
私は全く身に覚えがなかったが、
彼はいつも気になっていたらしい。
そんな態度の悪い格好をしていたなんて、
教えてほしかったって思うのは、勝手かな。
でも彼は、ずっと何も言わなかった。
たぶん、そういうところなんだと思う。
八 それ、スコアの話じゃない
私にとって、ゴルフはただの趣味じゃない。
付き合っていた頃も、お互い無言で練習して、見よう見まねでコースも回った。
結婚した今も、週に2回は打ちっ放しに通う。相変わらず無言で取り組む二人だけど、
私はそれでもいいと思っている。
でも、どうも私が上達しない。嫌になるほど。彼に打ち明けた。
私はなぜ、下手でもゴルフを続けているかを。
「あなたと同じ趣味を楽しみたい。
ただそれだけなの。」
彼は真剣に聞いてくれていた。
そう思っていた。
彼の答えは、
「もう少しスムーズに回れたらねぇ」
私は扉を閉めた。彼はたぶん、
何が起きたか分かっていなかった。
私は、言いたいことを飲み込んだ。
彼のOSは、そんな気の利いた返しが
できるようにはできていない。
彼に言い返す必要なんてない。
わかって隣にいるんだ。これは我慢じゃない。
九 彼の心の蓋が少し開いた気がする
夫は、大して話さないくせに、
家の中で歌は歌う。割と大きめな声で。
しかも私の好きなアーティストの曲を
勝手にアレンジしたりして、私をイラつかせる。
その前に、歌ってる暇があったら、喋ろ。
今日はどうだった?は封印した。
代わりに、今日はいいことあった?
嫌なことあった?そう聞くことにしている。
最初は話さないが、
思い出すとスラスラ出てくる。
事実に基づくことは、全く抵抗なく話せる。
何だ、おもしろい話持ってるじゃん。
心の中でガッツポーズ。
気持ちに蓋をして生きてきた彼。
歌うことだって、吐き出すことだ。
事実しか言えなくても、
それでも話すことが増えた。
夫婦の日々を重ねていくごとに、
彼の心の蓋は、隙間が開いた気がする。
それでも彼は我慢強く、
私に歩幅を合わせてくれる。
お互い様だと、思っている。
十 それでも、ここにいる
幸せになったら、全部終わると思っていた。
でも実際は、そうじゃなかった。
穏やかな夜ほど、落ち着かない日もある。
優しすぎると、裏を探してしまう。
自由にされると、不安になる。
私はまだ、安心に慣れていない。
時々、壊れそうだった頃を思い出す。
あの熱を、懐かしいと思ってしまう夜もある。
でも今は、その気持ちごと、
否定しなくなった。
暗闇を恋しがる私も、
鶏ハムに塩麹を塗る私も、同じ私だ。
どちらかを消さなくていい。
どちらかを選ばなくていい。
夫は、私を変えようとしなかった。
片付けが苦手でも、感情が不安定でも、
面倒くさくても。
「できる人がやればいい」と言って、
掃除機をかけていた。洗濯機を回していた。
私はその音を、ソファでぼんやり聞いていた。
今でも時々、比べてしまうことがある。
会話のテンポが合わない時。
返事が少しそっけなく感じる時。
あの人ならもっと違う返しをしただろうな、
と思ってしまう。
それでも戻りたいわけじゃない。
だからうちの洗剤は、彼のと少しも似ていない。
父は、帰ってこない人だった。
でも夫は、
いつも同じ時間に帰ってくる。
「今から帰る」
その一言だけで、ちゃんと夜になった。
洗濯機の音がしている。
夫は、たぶんまた鶏ハムを作っている。
私はソファで、ぼんやりその音を聞いていた。
昔の私は、静かな夜が苦手だった。
何か起きていないと、不安だった。
でも今は、こういう夜に、
少しずつ戻ってこられる。
まだ慣れない。でも、ここにいる。
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。
母に作られたOSを抱えたまま、
それでも私はここまで来ました。
次はいよいよ終章です。
母が最後に私へ残した言葉と、
私が初めて許された気がした日の話を書きます。
▶ OSの女――母に作られ、暗闇を愛し、日常を夫と呼ぶまで|終章
▶︎はじめから読みたい方はこちら
▶︎ この話は、
『OSの女|母に作られ、暗闇を愛し、日常を夫と呼ぶまで』
母との関係、恋愛、婚活、夫婦。
別々の話に見えるけれど、全部ひとつの場所に繋がっています。
⸻
▶︎ 目次
プロローグ|布団の中から始まった
第1章|OSの生成
第2章|間違った前提の恋愛
第3章|婚活という戦場
Interlude|触れていない
第4章|OSの書き換え
第5章|日常という、まだ慣れない場所
終章|まだ書いている
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※本作は創作大賞2026応募作品です。
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