OSの女|第4章 OSの書き換え
第4章 OSの書き換え
一 女王様の時代
少し、時間を戻す。夫と出会うより前、
母がまだ生きていた頃の話だ。
あの頃の私は、頂点にいると思い込んでいた。
騒がしい場所に好んで行った。
人の多い場所に引き寄せられた。
気づけばいつも、
私の周りには私を慕って人が群れていた。
お酒と音楽と、複数の男たち。高揚していた。職場では結果を出した。一目置かれていた。
仕事も遊びも完璧にこなし、周りを凌駕した。そんな私のエネルギーに
皆が浮き足立っていた頃、
少しずつ何か黒いものが忍び寄ってきた。
だんだんお金の使い方が
おかしくなっていった。
好きな服は値段を見ず、色違いで買った。
バッグは新作が出るたび飛びついた。
友人の前だと余計に気が大きくなった。
支払いの瞬間、身震いがした。
無敵だと思っていた。
一人ではたまらなかった。
一番手を出してはいけない人にまで、
手を伸ばした。誘って、朝まで一緒にいた。
何人か、いた。それぞれ、
お互いを知らなかった。
明らかに行動が常軌を逸していた。
そんなある日、会議でプレゼンをした。
先輩に「それじゃダメだ」と叱られた。
その時、脳内に響いた。
あの言葉。
「お前はダメだ」。
私の頭の中はぐわんぐわんと回り始め、
記憶がなくなった。
あの声だ。頭にこびりつく。
それから私の生活は一変した。
あれだけ眠らなくても元気だった体が、
毎日石のように重くなった。
声が出なくなった。会社に行けなくなった。
何もしない毎日。何もできない毎日。
頂点に君臨していた私は、
奈落の底に突き落とされた。
言うことを聞かない体をベッドに沈め、
あの頃の自分を懐かしみ、
戻りたいと強く思っていた。
本当は二度と戻ってはいけない世界なのに。
私を救ってくれたのは、一人の友人だった。
虫のように扱われ、薬漬けの惨めな私を、
ただ自分のそばに置いてくれた。
家に住まわせてくれた。見返りも、
私の気持ちさえも求めてこなかった。
体を求めることもなかった。
ただそこに居させてくれた。
それだけで救われた。
無償の友情という、温かい液体を、
私の歪んだ器に注いでくれた。
私は少しずつ、回復していった。
二 白いバスローブを置いて帰った
来週末、空いてる?
彼は昔の自分に戻りたくなると、
決まって連絡してきた。
大学の頃からの付き合いだった。
くっついたり離れたり。
名前のない関係。
彼が結婚してからも、それは変わらなかった。
会うたびに贅沢をさせてくれた。
仕事終わりに合流して、
そのまま旅行へ行くこともあった。
高いホテル。海が見える部屋。
飲みきれないワイン。
スイートルームの白いバスローブを羽織ると、自分が少しだけ別人になった気がした。
私はこの関係を楽しんでいた。
彼を愛していたわけじゃない。
たぶん彼も同じだった。
ただ私たちは、
お互いに都合のいい夢を見ていた。
誰かに与えられると、
自分に価値がある気がした。
私はその感覚が好きだった。
だから続いていた。
ある日、彼が真剣な顔で言った。
愛人契約をしてほしい。
昔から心を許せるのは君だけなんだ。
一生面倒を見る。愛してる。
私は返事ができなかった。
そう言われたかったはずなのに。
欲しかったはずなのに。嬉しくなかった。
彼には奥さんがいた。
他にも養っている女性がいた。
私はその一人になるだけだった。
しかも彼は不妊だった。
もし一緒になるなら、
不妊治療も頑張ってほしい。
そう言われた瞬間、急に現実になった。
私はたぶん、その人が欲しかったんじゃない。
お姫様の方が欲しかった。
特別扱い。選ばれる感覚。
価値があると思える時間。
欲しかったのは、そっちだった。
彼は察したんだと思う。
それ以上何も言わなかった。
私は旧友を失った。
悲しかったのかどうか、
今でもよくわからない。ただ帰る時、
白いバスローブだけを置いてきた気がした。
もうあの部屋には戻らない。
そう思った。
三 パターンに気づく
回復しながら、
私は自分を俯瞰して見るようになった。
褒められると急に怖くなる。
認められた瞬間、
嬉しいより先に「次も期待される」が来る。
だから雑に扱われる場所の方が楽だった。
欲しかったものから、自分で逃げていた。
誰かに「どうしたいの?」と聞かれると、
頭が真っ白になる。
自分の感情より相手の感情を優先してきた。
気づいたらずっとそうしてきたから、
自分の気持ちに名前をつけることが
できなかった。怒っていいのか。
泣いていいのか。喜んでいいのか。
私はずっと「察する側」だった。空気を読む。機嫌を読む。沈黙を読む。
読めるものは何だって読んできた。
でも、誰も私のことは読まなかった。
私もそっち側に行きたい。
思っても、誰も手を差し出す人はいなかった。
「いい人」で復讐していた。
怒らない。断らない。空気を壊さない。
その代わり、誰にも本音を渡さなかった。
心を開くふりをするのがうまかった。
いい人のふりをして、
攻撃されないよう自分を守り、
ずっと隠れてきた。
大切に扱われると、いたたまれなかった。
嬉しいはずなのに
「私なんて、
こんなに優しくされていいのかな」。
優しくされた後に来るのは、
喜びじゃなくて罪悪感だった。
優しさの受け取り方がわからないほど、
私の器は歪んでいた。
全部、母のOSの続きだった。
全部、繋がっていた。
四 器を作り直す
気づいてからも、簡単には変われなかった。
認知の歪みは、
長い時間をかけて作られたものだから、
気づいただけでは消えない。
時々押し寄せる不安感。
なかなか変われない自分に、苛立ちを覚えた。
思いがけず、学校に通った。
私の周りは一回り以上歳の離れた
女の子たちだった。
久しぶりにバカみたいなことして、 笑ったり泣いたり。
時に真剣に作品に向き合って、
衝突も起こったり。
それでも誰も離れていかなかった。
当たり前でしょ、と言わんばかりに。
彼女たちと過ごすうちに、思い出した。
忘れていた友情。打算的な関係は一つもなく、ただ一緒にいたい。
そんな純粋な気持ちを思い出させてくれた。
気づいたら、いつも若者の輪の中に私がいた。「私なんて」という言葉が、
薄墨で書かれた言葉になっていった。
彼女たちが言った。
「自分を大切にしないのは、あなたを大切にしてる人に失礼だよ。」
その言葉が、じわじわと効いた。
私は大切にされていい。自分に言い聞かせた。優しさを受け取る器を作り直した。
丈夫に、丁寧に。かすり傷だらけでもいい、
そう言ってくれる人がいる。
私のボロボロのOSは、
それでも誰かのために動きたくて、
必死に変わろうとした。
五 最後は私の勝ちよ
母の最期の4ヶ月間、私は毎日そこにいた。
リビングに敷いた布団の上の母は、
らしくなかった。
母はどんなに具合が悪くても
ビシッと着物を着て店に行く、
身なりに厳しい人だった。
家族でも、寝姿を見せたりしなかったのに。
それほどか、と私は動揺した。
4ヶ月の間、父と私と母の、
奇妙な親子ごっこが始まった。
病室で過ごし、好きなフィギュアスケートの
うんちくを披露したり、
相撲の時間は父に発言権が移ったり。
楽しそうに話す父を、
嬉しそうに母は見つめていた。
何を思っていたんだろう。
骨が浮いた胸元に、針を刺したあの日。
「お姉ちゃんだけが頼りだよ、
それで生かしてもらってるよ」。
そんな風に言ったりして、
同一人物か疑った。
母と二人っきりの時間、
なんとなく父の話になった。
今までずっと帰ってこなかったのにね、
居たら居たで、逆にデカくて邪魔だね、
こんな状況になると思わなかったね、
声が揃った。
25年も別々に生きてきたのに。
もう二度と顔を見ないと思ってたけど。
母はニタッと笑った。
最後は私の勝ちよ、ザマァみろ。
そんな顔だった。
母は、最期は静かに逝った。
とても豪快な人だった。
とても孤独な人だった。
死んでから、知ったことがある。
母には、前の結婚があった。
あれほど私に「正しさ」を求め、
完璧な型に流し込もうとした母が、
かつて世間の正しさから
外れていたという事実。
母が25年も帰らない父に執着し、
必死で5つの店を経営し、
いくら傷つけ合っても私を離さなかったのは、二度と「失敗」したくなかったからなのか。
墓場まで持っていこうとした
その秘密を知った時、
私は初めて、手が届かない憧れだった母の、 情けないほどの必死さと、愛おしさを知った。
六 ありがとうという名の、無罪放免
母が「ありがとう」と言った。
消え入りそうな声で。振り絞った声で。
その時は、まだ実感がなかった。
わかったわかった。そんな感じだった。
あとからじわじわと、
ボディブローのように効いてきた。
やっと許された気がした。バツが悪い借金を、やっと返せた気がした。
ありがとうという名の、無罪放免。
これから明るく楽しく
自由に生きてもいいんだって、
なんだか不思議と感じた。
お母さん、ありがとね。
気づいたら、動けていた。正しいOSの使い心地を、初めて知った。
「ダメな私は愛されない」という前提が、
少しずつ溶けていった。
一気にではなく、じわじわと、確実に。
触れられない場所まで、
少しずつ満たされていく感覚があった。
初めて一人で地面に立つ感覚。
立ってもいいんだという感覚。
許された。認められた。
背筋が、スッと伸びた。
七 人のためになる仕事
母の言葉がずっと引っかかっていた。
最期の4ヶ月間、たびたび言われていた。
次仕事をするときは、
人のためになる仕事をしなさい。
今までだって、
人のために生きてきたつもりだった。
妹のために。母のために。恋人のために。
友人のために。
でも母は違う意味で言ったんだろう。
見透かされている気がした。
それでも少し嬉しかった。
ああ、この人なりに、
ちゃんと見ていたんだなと思った。
母が亡くなった後は半年近く、
何もできなかった。大丈夫だと思っていた。
でも受けたパンチは遅れて効いてきた。
アルバムを開いて、母の字を見つけた。
たったそれだけで、目頭が熱くなった。
当たり前だ。大きな人を失ったんだから。
大きな家に一人、本当の意味で孤独を感じた。
荷物を整理してると、母の手記を見つけた。
それは事細かく日々のこと、
気持ちのことが書かれていた。
恨み、辛み、妬み、嫉み。
並べてみると悍ましいほどの
負の言葉たちが並んでいた。
孤独な母は、誰かに話して発散することなく、この手記に気持ちをぶつけ、
なんとか生きてきたのかと思うと、
気の毒に感じた。
それと同時に親不孝ものだなとも思った。
電話の一つでもしてあげてたら、
こんなに抱え込むことも
なかったかもしれない。
母の、人のためになるの言葉が、
重くのしかかってきた。
人のためになることをずっと考えていた。
資格がなくてもできる保育士補助を始めた。
子どもたちが、私の孤独の穴に、
無邪気さと素直さを注いでくれた。
最後の日、一人の男の子が走ってきた。
普段はあまり近くに来ない子だった。
でもその日は違った。
お別れだとわかったのか、
小さな体で飛び込んできて、
ぎゅっと抱きついた。バイバイ、と言って、
またすぐ走って行った。
1年間、その子の成長を見てきた。
泣きそうになった。
子どもは何も知らない。
私の孤独も、母が死んだことも、
どんな夜を生きてきたかも。
それでもこんなふうに、
全部を抱えて走ってくる。
1年間、私なりに子どもたちに寄り添った。
それから、保育士資格を取りに専門学校に通った。一回り以上若いみんなと一緒に。
母の言葉は間違っていなかった。
私のことを理解してくれていた。
名前のつけられない気持ちが
まだたくさんある。それでも少し、
感謝できた気がした。
▶ 次の話
第5章|日常というまだ慣れない場所
▶︎ この話は、
『OSの女|母に作られ、暗闇を愛し、日常を夫と呼ぶまで』
母との関係、恋愛、婚活、夫婦。
別々の話に見えるけれど、全部ひとつの場所に繋がっています。
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▶︎ 目次
プロローグ|布団の中から始まった
第1章|OSの生成
第2章|間違った前提の恋愛
第3章|婚活という戦場
Interlude|触れていない
第4章|OSの書き換え
第5章|日常という、まだ慣れない場所
終章|まだ書いている
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※本作は創作大賞2026応募作品です。
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