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【小説】星と心のクロニクル 第二章:欠けた湯呑の暗号

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【一】

 相沢慧あいざわ けいの仕事部屋は、いつも締め切ったカーテンのせいで昼も夜も同じ薄闇に沈んでいた。
 ウェブジャーナリストという肩書は、聞こえはいいが、その実態はネットの海から真実とも嘘ともつかぬ情報を拾い集め、締め切りに追われる日々だ。
 慧はモニターの青い光を浴びながら、コーヒーで胃に穴を開け、自分の神経をすり減らすことで生計を立てていた。

「自分自身が、もう自分じゃなくなるんじゃないかなって。。」

 モニターの隅に表示された小さなチャットウィンドウ。
 送り主は『Mizuki』。
 顔も知らない、ネット上で親しくなった占い師の女性だ。
 彼女とのとりとめのない会話だけが、この息の詰まるような日常の中で、慧が唯一、呼吸できる場所だった。
 彼女の言葉は、まるで慧自身の心の声を反響させているかのようだった。

 その日、慧のもとに一件の奇妙な調査依頼が舞い込んだのは、そんな鬱々とした午後のことだった。
 依頼主は、横浜で複数の企業を束ねる片山ホールディングスの顧問弁護士を名乗る男だった。

「片山一族の周辺で、不可解なトラブルが続いているのです」

 電話口の男の声は硬かった。
 関連会社の株価を狙ったような悪質な噂の流布、役員への脅迫めいた手紙、そして一族の長である片山壮一氏の自宅への執拗な嫌がらせ。
 警察に届けるほどではない、だが、じわじわと一族の土台を蝕むような、陰湿な攻撃が続いているという。

「我々は、内部の人間、あるいは一族の過去に強い恨みを持つ者の犯行ではないかと見ています。相沢さんには、公にできないその『内側』を探っていただきたい」

 成功報酬は破格だった。
 だが、慧の心を惹きつけたのは金ではない。
「一族の過去に強い恨みを持つ者」という言葉だった。
 それは、慧がジャーナリストとして最も嗅覚を刺激される、人間の心の暗部から立ち上る匂いだった。

【二】

 調査を開始して数日、慧は片山一族の華麗なる歴史の裏に、深い断絶があることを掴んでいた。
 戦後の混乱期、高崎から横浜へ。
 事業の成功と、その陰で生まれた兄と弟の格差。
 愛情を一身に受けた弟・信二と、17年間も親戚に預けられ、心を閉ざした兄・壮一。
 それはまるで光と影だ。

 慧は、壮一という人物に奇妙なシンパシーを感じていた。
 富と名声に囲まれながら、その魂は誰にも理解されず、孤独に苛まれている。
 それは、情報の奔流の中で自分を見失いそうになる慧自身の姿と、どこか重なって見えた。

 行き詰まりを感じた夜、慧は無意識に『Mizuki』とのチャットウィンドウを開いていた。
 調査対象の固有名詞は伏せながら、それとなく相談を持ちかける。

『ある旧家の調査をしている。成功の影で、誰かの心がずっと忘れ去られているような、そんな気がするんだ』

 すぐに返信があった。

『わかる気がする。うちの家族も、そうだから』

 そこから語られた瑞希の家族史は、慧を驚愕させた。
 彼女が語る「幸せな団欒が苦手な伯父さん」と「愛情たっぷりに育った父親」の物語は、慧が調べている片山一族の構図と、不気味なほど一致していた。
 まさか、と思った。
 だが、ネットの世界では時々、信じられない偶然が必然のように起こる。

『Mi…Mizukiさん、もしかして、あなたの一族は……』

 慧が打ちかけると、彼女はさらに不思議な話をし始めた。

『最近、家族で湘南霊園にお墓参りに行ったのよ。父が家を出ようとしたら靴紐が切れて、みんな不吉だねって言いながら出発して…。それで、お墓で私が湯呑を洗ってたら、一つだけ、綺麗な金縁のが、何の力も入れてないのに真っ二つに割れてしまって』

 割れた湯呑。
 慧のジャーナリストとしての勘が、警鐘を鳴らした。
 それは単なる偶然ではない。
 何かの象徴、あるいは暗号だ。

『その湯呑、何か特別なものだった?』

『うん。小春こはる(猫)とラッキー(犬)の、お揃いだったの。でも、最近みんなラッキーのことばっかり可愛がってたから…。きっと小春が「ラッキーばっかり!」って怒ってるんだわ、って。私、小春に申し訳なくて…』

 慧の頭の中で、バラバラだったピースが繋がり始めた。
 猫と犬。それは、片山家の兄弟のメタファーではないか?

 一身に愛情を注がれた弟(ラッキー)と、忘れ去られ、ないがしろにされてきた兄(小春)。
 そして、その兄の心が、ついに限界を迎えて、「割れた」ことを示す象徴としての、湯呑。

 犯人は、壮一本人か、あるいは彼の深い孤独に共鳴し、その「復讐」を代行しようとする誰かなのではないのか。

【三】

 慧は、瑞希から得た情報を元に、再び調査を深めた。
 壮一が唯一、歪んだ愛情を注いだという長男・健一。
 父の期待という名の重圧に苦しみ、数年前に会社を飛び出し、今は行方が知れないこと。
 壮一の妻・美枝子が、今も故郷の高崎に住む初恋の相手と密かに連絡を取り合っていること。
 弟・信二の一家が、壮一の財産を虎視眈々と狙っているという噂。

 誰もが動機を持っているように見えた。
 だが、どれも決め手に欠ける。

 慧はもう一度、瑞希に連絡を取った。
『割れた湯呑は、誰かの満たされなかった心の象徴かもしれない。その湯呑は、今どうなってる?』

『もちろん、ちゃんと持ち帰ったよ。金継ぎに出そうと思って。欠けても、割れても、元は一つだったんだから。大事な家族だもの』

 金継ぎ。
 割れた器を漆で継いで、金や銀で装飾する日本の伝統技法。
 欠けた部分を隠すのではなく、その傷跡さえも美しい景色として受け入れる思想。

 その瞬間、慧の中で、事件の真相が像を結んだ。
 これは、復讐劇などではない。
 これは、壮一の凍てついた心を溶かそうとする、あまりに歪で、切実なSOSなのではないか。

 一連のトラブルは、すべてが壮一の会社や家族に損害を与えつつも、決定的な打撃には至っていない。
 まるで、誰かに「気づいてくれ」と叫んでいるかのように。

 犯人は、片山壮一本人だ。
 彼は、自分自身の築き上げた王国を、自らの手で静かに傷つけることで、誰かがその「傷」に気づき、手を差し伸べてくれるのを、ずっと待っていたのだ。
 瑞希が割れた湯呑を「金継ぎ」しようと思ったように、誰かが自分のひび割れた心を受け入れ、繕ってくれることを。

 慧は受話器を取り、依頼主である弁護士に電話をかけた。
「犯人が分かりました。ですが、この事件は警察に突き出すべきものではありません。これは、一つの家族が、失われた時間を取り戻すための、最初の一歩にしなくてはならないでしょう」

 慧の言葉は、ジャーナリストとしてではなく、一人の人間の魂からの叫びだった。
 モニターの隅で、瑞希からの新しいメッセージが点滅していた。

『慧さん、ありがとう。なんだか、あなたと話してたら、伯父さんの心を救う方法が、少しだけ分かった気がする』

 慧は、そのメッセージをじっと見つめた。
 自分もまた、この事件を通じて、凍てついた心の片隅に、温かい光が差し込むのを感じていた。
 薄闇の部屋のカーテンを、ほんの少しだけ開けてみたくなった。

【第三章へ続く】