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【小説】星と心のクロニクル 第三章:返事は、元気になってからでいい

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【一】

 片山家の事件は、慧の報告によって、告発ではなく対話へと舵を切った。
 だが、事件が静かに幕を下ろした後、慧の心には奇妙な空虚が広がっていた。
 情報の奔流から解放された反動か、あるいは他人の家族の深い闇に触れすぎたせいか、彼の心は燃え尽きたように動かなくなった。

 パソコンの電源を入れる気力さえない。
 十分休んだはずなのに、思考は鉛のように重い。
 もっと瑞希と話したいはずなのに、チャットウィンドウを開く指が動かない。
 約束していた調査報告の最終稿も、まだ依頼主に出せていない。
 焦りだけが、空回りして慧の心を締め付けた。

 そんな夜、携帯電話の通知が静かに光った。
 瑞希からのメッセージだった。

『慧さん、元気? もし疲れていたら、メールに目を通してくれるだけで充分だからね。無理はしないで』

 その一文に、慧の心の強張りが少しだけ解けた。
 彼は、まるで許しを得たかのように、ゆっくりとメッセージの続きを読み始めた。

『この間、慧さんが伯父さんの心を「SOS」だって言ってくれたでしょう。あれから、私、ずっと伯父さんのことを考えていたの。そしてね、今日は、昔飼っていたペットたちのお墓参りに行ってきたんだ』

 瑞希は、湘南霊園での出来事を静かに語り始めた。
 亡くなった猫の小春こはると犬のラッキーの、マンション形式のお墓。
 その場所で起きた、不思議な出来事。

『妹夫婦に待望の赤ちゃんができてね。不安定な時期が続いていたんだけど、ラッキーが亡くなったのと同じ頃から、お腹の子が順調に育ち始めたの。いつも家族の身代わりになってくれるような子だったから、妹夫婦がお礼参りをしたいって言い出して』
『でもね、お墓で、小春とラッキーのために買ったお揃いの湯呑の一つが、私の手の中で綺麗に真っ二つに割れてしまったの。力を込めてもいないのに。やっぱり小春が「ラッキーばっかり!」って怒っているんだと思った。「私だって、みんなのことが心配で、いつも気を配っていたのに」って…』

 慧は、その話に引き込まれていた。
 それは、片山家の兄弟の物語の縮図そのものだった。
 忘れられた者の静かな叫び。その声に気づけるのは、やはり瑞希だけなのだ。

『自分自身にがっかりしちゃった。でもね、亡くなった子たちが夢に出てきてくれる時は、みんなとても元気そうなの。生前は寝たきりで苦しそうだったお祖父ちゃんも、亡くなってからは毎日、夢の中へ元気な姿で会いに来てくれた。だから、私、それまで、死ぬのが怖い、なんて思ってたけど、今はどちらでもいいって思えるようになったんだ。この仕事に就いてから、特に、ね』

 メッセージの最後は、こう締めくくられていた。

『たくさん書いちゃってごめんね。慧さんと出会えて良かった。きっと出会えたことにも、何か意味があるんでしょうね』

【二】

 慧は、返事を書けなかった。
 感謝と、申し訳なさと、自分の不甲斐なさが入り混じった感情が、言葉になるのを邪魔していた。
 ただ、瑞希の言葉は、乾いた砂地にしみこむ水のように、ゆっくりと彼の心に広がっていった。

 数日後、慧はようやくキーボードに向かった。
『返事が遅くなってごめん。まだ、何も手につかない。報告書も、まだ出せていないんだ。こんな状態で…。必ず出す。今はそれしか言えない』

 送信ボタンを押した後、すぐに後悔した。
 こんな重苦しいメッセージを送るべきではなかった。
 彼女を心配させてしまうだけだ。

 だが、数分もしないうちに、瑞希から返信があった。
 その内容は、慧の予想を全く裏切るものだった。

『気持ち、本当に嬉しい。ありがとう。でも、心配だよ』
『だからね、慧さん。無理して報告書を出さなくてもいいからね。慧さんはまず、自分の心と体を元気な状態にしてあげることが一番大切なんだから。焦ることはないよ』

 そして、彼女はこう続けた。

『そ・れ・と、「報告書を出さないと」って、そればっかりは思わないこと! そうやって自分に変なプレッシャーを与えないで。絶対、絶対って思っていると、自分の精神が持ちこたえられなくなるから』
『その「絶対」っていう気持ちは、「絶対に元気になってみせる!」っていう気合いに変えた方が、ずっと価値がある。な・の・で、報告書という依頼は、私が(強制的に)キャンセルしておくからね! 慧さんは、精神的に自由でいられる気持ちでいないと。ね?』

 強制的にキャンセル。
 その、表面上はキツいようで実はあまりに優しい命令に、慧は思わず笑ってしまった。
 そして、次の瞬間、理由も分からず涙が溢れてきた。
 ずっと一人で背負い込んできた重荷を、顔も知らない彼女が、ひょいと肩代わりしてくれた様な気がした。

【三】

 その日を境に、慧の心は少しずつ軽くなっていった。
 瑞希の言葉は、彼にとって処方箋だった。
「返事は、元気になってからでいい」。
 その許可が、彼を焦りから解放した。

 一週間後、慧は最終報告書を書き上げた。
 それは義務感からではなく、自分の意思で、この物語に一つの区切りをつけたいと、心から思ったからだった。
 報告書を送信した後、彼は瑞希に短いメッセージを送った。

『ありがとう。君のおかげで、書けたよ』

 すぐに返信があった。

『良かった!』

 たったそれだけの言葉だったが、慧には充分だった。
 彼は、ずっと閉め切っていたカーテンを、勢いよく開けた。
 眩しいほどの陽光が、部屋中に満ちていく。

 慧は、瑞希に一つの「依頼」を出したくなっていた。それは、仕事の依頼ではない。
『僕がもし、いつかどうしようもなくダメになったら、また「強制キャンセル」してくれる?』
 送信ボタンを押す指は、もう震えてはいなかった。

 瑞希からの返事は、太陽のように明るかった。
『もちろん! でも、ダメになる前に、いつでも話を聞くからね。その方がずっといいな』

 慧は、その言葉を胸に刻んだ。
 絶望の淵にいた自分が、不思議な優しさによって、再び生きる方へ顔を向けている。
 顔も知らない、声も知らない。
 だが、彼女は間違いなく、慧の魂の隣にいる。
 その確信だけで、これから先、どんな暗闇が訪れても歩いていける気がした。

【第四章へ続く】